Crying - 211
渦を巻いていた巨大な塊を呑み込むほどの高波が押し寄せる。
さすがにあれから身は守れない気がする。
首が痛くなるほどに上を見つめる名前の横で、ファイがからからと笑った。
「わー、これ最大のピンチとか言うやつかなぁ」
「まぁ、このままあれ食らったら死ぬだろうな」
「えーっと、それは困るかもー」とファイの笑顔がよりピエロに近づく。「オレ、とりあえず死ねないもん」
中身のない笑顔を浮かべ影を背負うファイに、黒鋼は視線を外した。
「死にたくねぇのにこの事態になっても魔法とやらは使わねぇか」
「うん、ごめんねぇ」
ファイの瞳が明後日を見つめる。
「俺にゃあ関係ねぇがな」
淡々と返す反面、追求しないのは黒鋼なりの優しさなのかもしれない。
「黒みーは?」
「俺もこんな所では死なねぇ。帰らなきゃならねぇからな、日本国に」
力強く棒を構える黒鋼の脳裏には大切な姫君の姿が浮かんでいるのだろうか。
「白まんじゅうは、あの姫の羽根が見つかるまでは移動しねぇだろ。だったらさっさと済ませて次の世界へ行く」
「オレもあんまり一箇所にはいたくないからねぇ」
「なんでだ?」
間を空けたファイの顔からは笑顔が消えていた。
「元にいた国の水底で眠っている人がもし目覚めたら、追いつかれるかもしれないから」と再び、浮上した仮面が笑う。「オレは逃げなきゃならないんだよ。色んな世界を」
ファイを見ていると時々、どうしようもない衝動に駆られる。
脱着可能なあの仮面を引っぺがしてみたくなるのだ。
「てめぇはどうなんだ?」
黒鋼の無愛想な声が降ってき、名前は一度開いた口を躊躇うように閉じた。
疲れているのだろうか、ずっと心臓が煩い気がする。
高波が迫っているのに悠長な二人の異質さに警鐘を鳴らしているのかもしれない。
「とりあえず、ここにはいたくない」
このまま鼓動が早くなり続けるのだけは困るのだ。
「死にたくないもの」
名前は、無邪気に笑った。
「最後の話は終わったか?」
律儀なのか、嫌味なのか、死を留めていた女が最終通告を告げる。
「さーて、どうしようかー。絶体絶命ってかんじだよぉ。あははー」
言葉とは裏腹に気楽に笑っているファイに名前は上を見上げた。
穴の開いた空が黒い目玉のように見下ろしている。
「空が飛べたらよかったのに」
――空が飛べたら彼も――
「おい」
黒鋼が視線だけをファイに送る。
二言三言交わした後、二人が不敵に微笑した。
「では――さらばだ」
残酷なほど簡単に告げた女に、留まっていた波が一斉に押し寄せてくる。
轟々と唸る高波を背にファイが飛び上がり、女へ攻め込んだ。
「死に急ぐ気か、童よ」
女が身構えた瞬間――背後に隠れていた黒鋼がファイの背を踏み台に前へと躍り出る。
「何!?」
ファイに集中していた女が驚愕するが、次の判断は早かった。
攻撃を仕掛けた黒鋼の腹部に鋭利な五本の爪が突き刺さる。
黒鋼の刃は届かぬまま、嫌な音が響いた。
「……なかなかの策士だな」
女が笑みを深める。
勢いよく引き抜かれた女の爪には、マガニャンなる雑誌が突き刺さっていた。
「俺ぁ、雨が嫌ぇなんだよ」と満足げに黒鋼が鼻で笑う。「だから、さっさととめろ」
振り下ろされた棒が女の額に叩きつけられる。硬い衝撃音とともに額の宝石が砕け散った。
秘術によって創り出された幻想が解け、ただ広いだけの無機質な部屋に戻っていく。
天蓋の中で女と黒鋼が対峙していた。
「また妙なことしやがったら――」
警戒する黒鋼の頬に女が手を添える。と、赤い唇が黒鋼の頬に触れた。
「あぁ……」
名前の顔が悲嘆にくれる。
「てめっ! 次は何の術かけやがった!」
「今のは礼だ。私はあの石に込められた秘術で領主に囚われていたのだ」
優美に微笑む女とは裏腹に黒鋼がわななく。
「あー、なるほど。それを黒ぽんが壊したんですねぇ」
天蓋へと近づいたファイの隣で名前がよろめく。
「だからって、手を出すなんて……」と、口に手を当て瞳を潤ませていた。
「出してねぇよ!」
冗談だと悟った黒鋼が顔を真っ赤にしていきり立つ。
黒鋼がどちらの意味で真っ赤なのか考えていた名前の頬に、冷たいなにかが触れた。
遠のいていく細い指先が視界の端に映り込む。
ファイの仮面は新品と遜色なく、疲れも知らずに笑っている。ただ、仮面にぽっかりと空いた二つの穴だけは裏に潜む寂しさを覗かせていた。
いったい何がそんなに悲しいんだろう。時折、滲む彼の寂しさはいつだって原因不明で、何を返せばいいのかもわからない。なにより、それを気に食わないと感じる自分のことすら理解できなかった。
返せないものを求められるのが嫌いだからだろうか。
八つ当たりのように頬を引っ張ろうと伸ばした手がファイの頬に触れる。
「また、引っ張られるのは痛いなー」
“痛い”だけやけに感情がこもっているファイに手が止まった。
さすがにあれから身は守れない気がする。
首が痛くなるほどに上を見つめる名前の横で、ファイがからからと笑った。
「わー、これ最大のピンチとか言うやつかなぁ」
「まぁ、このままあれ食らったら死ぬだろうな」
「えーっと、それは困るかもー」とファイの笑顔がよりピエロに近づく。「オレ、とりあえず死ねないもん」
中身のない笑顔を浮かべ影を背負うファイに、黒鋼は視線を外した。
「死にたくねぇのにこの事態になっても魔法とやらは使わねぇか」
「うん、ごめんねぇ」
ファイの瞳が明後日を見つめる。
「俺にゃあ関係ねぇがな」
淡々と返す反面、追求しないのは黒鋼なりの優しさなのかもしれない。
「黒みーは?」
「俺もこんな所では死なねぇ。帰らなきゃならねぇからな、日本国に」
力強く棒を構える黒鋼の脳裏には大切な姫君の姿が浮かんでいるのだろうか。
「白まんじゅうは、あの姫の羽根が見つかるまでは移動しねぇだろ。だったらさっさと済ませて次の世界へ行く」
「オレもあんまり一箇所にはいたくないからねぇ」
「なんでだ?」
間を空けたファイの顔からは笑顔が消えていた。
「元にいた国の水底で眠っている人がもし目覚めたら、追いつかれるかもしれないから」と再び、浮上した仮面が笑う。「オレは逃げなきゃならないんだよ。色んな世界を」
ファイを見ていると時々、どうしようもない衝動に駆られる。
脱着可能なあの仮面を引っぺがしてみたくなるのだ。
「てめぇはどうなんだ?」
黒鋼の無愛想な声が降ってき、名前は一度開いた口を躊躇うように閉じた。
疲れているのだろうか、ずっと心臓が煩い気がする。
高波が迫っているのに悠長な二人の異質さに警鐘を鳴らしているのかもしれない。
「とりあえず、ここにはいたくない」
このまま鼓動が早くなり続けるのだけは困るのだ。
「死にたくないもの」
名前は、無邪気に笑った。
「最後の話は終わったか?」
律儀なのか、嫌味なのか、死を留めていた女が最終通告を告げる。
「さーて、どうしようかー。絶体絶命ってかんじだよぉ。あははー」
言葉とは裏腹に気楽に笑っているファイに名前は上を見上げた。
穴の開いた空が黒い目玉のように見下ろしている。
「空が飛べたらよかったのに」
――空が飛べたら彼も――
「おい」
黒鋼が視線だけをファイに送る。
二言三言交わした後、二人が不敵に微笑した。
「では――さらばだ」
残酷なほど簡単に告げた女に、留まっていた波が一斉に押し寄せてくる。
轟々と唸る高波を背にファイが飛び上がり、女へ攻め込んだ。
「死に急ぐ気か、童よ」
女が身構えた瞬間――背後に隠れていた黒鋼がファイの背を踏み台に前へと躍り出る。
「何!?」
ファイに集中していた女が驚愕するが、次の判断は早かった。
攻撃を仕掛けた黒鋼の腹部に鋭利な五本の爪が突き刺さる。
黒鋼の刃は届かぬまま、嫌な音が響いた。
「……なかなかの策士だな」
女が笑みを深める。
勢いよく引き抜かれた女の爪には、マガニャンなる雑誌が突き刺さっていた。
「俺ぁ、雨が嫌ぇなんだよ」と満足げに黒鋼が鼻で笑う。「だから、さっさととめろ」
振り下ろされた棒が女の額に叩きつけられる。硬い衝撃音とともに額の宝石が砕け散った。
秘術によって創り出された幻想が解け、ただ広いだけの無機質な部屋に戻っていく。
天蓋の中で女と黒鋼が対峙していた。
「また妙なことしやがったら――」
警戒する黒鋼の頬に女が手を添える。と、赤い唇が黒鋼の頬に触れた。
「あぁ……」
名前の顔が悲嘆にくれる。
「てめっ! 次は何の術かけやがった!」
「今のは礼だ。私はあの石に込められた秘術で領主に囚われていたのだ」
優美に微笑む女とは裏腹に黒鋼がわななく。
「あー、なるほど。それを黒ぽんが壊したんですねぇ」
天蓋へと近づいたファイの隣で名前がよろめく。
「だからって、手を出すなんて……」と、口に手を当て瞳を潤ませていた。
「出してねぇよ!」
冗談だと悟った黒鋼が顔を真っ赤にしていきり立つ。
黒鋼がどちらの意味で真っ赤なのか考えていた名前の頬に、冷たいなにかが触れた。
遠のいていく細い指先が視界の端に映り込む。
ファイの仮面は新品と遜色なく、疲れも知らずに笑っている。ただ、仮面にぽっかりと空いた二つの穴だけは裏に潜む寂しさを覗かせていた。
いったい何がそんなに悲しいんだろう。時折、滲む彼の寂しさはいつだって原因不明で、何を返せばいいのかもわからない。なにより、それを気に食わないと感じる自分のことすら理解できなかった。
返せないものを求められるのが嫌いだからだろうか。
八つ当たりのように頬を引っ張ろうと伸ばした手がファイの頬に触れる。
「また、引っ張られるのは痛いなー」
“痛い”だけやけに感情がこもっているファイに手が止まった。