Crying - 210

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「行きます」
 一際高い足場から黒鋼が持つ棒の上へと小狼が着地する。瞬間――空めがけて棒が振り上げられた。乗っていた小狼が反動を利用して空高く飛び上がる。
 空中で蹴りつけた小狼の足が空を砕き、幻ごと天井をぶち破った小狼はそのまま姿を消した。
「二人ともカッコいいー。“ひゅー”」
「だから、やめろ!」

「一人逃がしてしまったのだな、仕方ない。残った童に少々灸をすえるとするか」
 妖しげな声に毒が混じる。
 水の池から浮かび上がった幾千もの水の球が肥大化し頭上を覆う。と、風船が割れるような音とともに一斉に弾けた。
 降り注ぐ篠突く雨に名前の顔が歪む。
 ひりひりと痛む身体が悲鳴を上げていた。溶け落ちた服の隙間から入り込んだ雨が肌を伝う度に焼けるような痛みが伴う。

「なかなかマジなピンチだねぇ」
「……ふん」
 水の球を避ける手段を行使したところで、持続する雨が体力を奪っていく。
 ファイは円を描くように棒を振り回しては水の球を壊し、黒鋼は叩き潰すように棒をしならせる。

 名前は側にある岩の柱を行き来し、辛うじて躱し続けていた。
 足場が消えないことがわかっていれば、移動は容易い。対象物に集中砲火するだけの水の球は、二ヶ所一片に攻撃することがない為、ただ、無作為に移動するだけでも幾つかは外すことができた。
 でも――

「この水、やっぱ痛いねぇ」
「当たったら服も体も溶けちまうみてぇだからな」
「それにあんまり、のんびりはしてられないみたいだ」
 ファイの声に右上から視線が突き刺さる。

「平気です」
 岩の上にへたり込んだまま、名前は億劫そうに声を吐き出した。
 集中力が完全に切れてきた。頭が真っ白になる感覚が狭まってきている。空白の時間に水の球に当たったのか、左足が疼いていた。


「先程の童と同じ方法では逃げだせんぞ」
 女の声に名前が緩慢に立ち上がる。
 飛びかかってくる肥大化した水の塊をファイが棒で叩き潰した瞬間――塊がぐにゃりと歪みファイに覆いかぶさった。

 弾けた塊から多量の液体が飛沫する。触れれば火傷じゃすまない。
 目を瞠ったまま動かないファイに、名前の心臓が早鐘を打った。
 液体がファイに流れ込む。
 咄嗟に伸ばした手が空をかいた。

 寸でところでファイが後方に吹き飛ぶ。
 黒鋼がファイの腹部へ棒を滑り込ませ、そのまま後方へ薙いだのだ。衝撃でファイが遠くへと飛ばされたらしい。
「黒むー、ひどいー」
 噎せたのかファイが咳き込む。

「ああしなきゃ、おまえ今頃溶けてるぞ」
「そうなんだけどー、もっと優しく移動させて欲しかったよぅー」
 ファイがへらへらと笑う。

 名前は触れることのなかった手のひらをきつく握り締めた。
 余計な感情が邪魔をする。煩わしいことが脳を支配しようとしている事実が疎ましかった。
 助けるなんてご都合主義もいいところだ。現実の距離は一時的な感傷には左右されないのだから。

 瞼に影を落とす水の塊が証明するかのように弾け飛ぶ。
 飛び散った液体が肩にかかり、肉の焦げるような臭いが鼻を突いた。
 ファイに手が届かなかったように、黒鋼の救いの手が名前に届くことはない。
 助けられない人間に、助けられる価値はないのだ。

 それでも――

 氷の鏡が名前を庇うように立ちはだかり、
「お前――」
「違う。オレじゃない」
 液体の奔流を防いだ氷の鏡が溶け落ちていく。

 ――生きたいと思ったんだ。


「てめぇがやったのか?」
 側に近寄ってきた黒鋼の怪訝な眼差しに、名前は視線を逸らした。
「わからない」
 自分の意思が反映されたことはわかってる。でも、なぜ“今”なのかはわからなかった。巧断の国でも、それ以前にも使うタイミングはあったはずなのだ。
 自身の死が引き金じゃないのか――

「とにかく、無事でよかったよー」
 ファイの言うとおりだ。
 名前は挙動のおかしい心臓を抑えて小さく笑った。

「なかなかやる童達だ。これは久しぶりに退屈せずに済みそうだ」
 浮上した水の塊が視界に収まらないほどに巨大化する。
 取り囲むように渦巻く塊が振り回したシャボン玉のように横に伸びていた。
「あー、あんなに速く動く上に、変形されたんじゃたまんないなぁ」
「けっ。ぶよぶよ膨らんだり縮んだりしやがって」
 悪態つく黒鋼に、女が思慮深げに口にする。

「ここまで耐えた人間は童共と、過去戦ったことのあるこの蓮姫の女秘術師だけだ」
「それって、春香ちゃんのお母さんかな?」とファイが返す。
「そういう名前の娘がおると言っていたな。この国に真に必要なのはあの馬鹿な現領主達ではなく、童達やあの女秘術師だろうが」と女の顔が口惜しげに歪んだ。「今、私はここから出られぬ身。理不尽にも私を意のままに操ろうとする者の身の程を弁えぬ令を聞かねばならん。名残惜しいが童達。そろそろお別れだ」
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