Crying - 209

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「幻か」
 黒鋼が周囲を見渡す。
「いいや、秘術だ。幻は惑わせるだけだが私の秘術は」と長い爪が水の球を弾く。「ただ美しいだけではないぞ」
 弾き飛ばされた水の球が小狼へと襲いかかり、咄嗟に庇った腕が焼けるような音を立てて蒸気を立ち上らせた。瞬く間に溶けだした服の袖が崩れ落ちる。

 ――水じゃないのか
 名前は目を瞠った。
「私の秘術によって出来た傷はすべて現実のものだ」
「ってことは大怪我をするとー」
「死ぬ」

 冷笑を浮かべた女が両手を頭上で絡ませた途端、浮上していた水の球が一世に飛び散る。
 弾丸の如く放たれた水の球が名前達を襲った。
 三人が攻撃を避けるため岩の柱を蹴って頭上高く飛び上がり、次の柱へと飛び移っていく。

 名前は着いてきたことを心底後悔した。あんなに高くジャンプできるわけがない。
 小狼の服が溶けた時は焦ったが、数発ならおそらく服が焦げるだけだ。
 足場を一瞥する。幸いそれほど狭くない。
 ――足は引っ張らない
 ぐっと息をつめた。

 飛び交う水の球が体を翳める。一瞬で肩や腹部、足の衣服が焦げ落ちた。
 当たってはいるが、皮膚への損傷は少ない。
 二、三本なら乗り移るのも不可能ではないだろうが、水の球によって変形していく柱の上では着地した際バランスを崩しやすくなる。
 それに――

 水の球を避け、石の柱に飛び移った小狼の顔に焦りが浮かぶ。
 着地したはずの柱が消え、足が水に浸っていた。
 咄嗟に側の柱をつかんで飛び上がったものの、焼けつくような音が耳につく。小狼の顔が苦痛で歪んでいた。

「この池もこの珠と同じもので出来ている。そして、この中の目に見えるものすべてが本物とは限らない」
「池に落ちたら溶けちまうってことかよ!」
 黒鋼が眉間に皺を寄せる。

 無闇に飛び移ればかえって命取りになりかねない。
 止まない水の球の嵐に名前の足がもたついた。
 気を張ったまま避け続けているせいか、倦怠感が襲ってきていた。だいぶ集中力が切れてきている。
 意識を保てているのは、存外、翳めた時に感じる小さな痛みによるものかもしれない。


「黒みん、これ壊して」
 頭上高い街灯の上にしゃがみ込んだファイが促す。
「ああ!? なんでだ!?」
「素手じゃいつまでも避けるしか出来ないでしょ?」
「自分でヤレ!」

 煩わしそうに黒鋼が街灯を蹴りつける。
 分断された細い柱をそれぞれ引っつかむと、長い棒のように振り回したファイが余裕げに笑った。
「これで触らずに珠を壊せるよ」

 避ける一方だった黒鋼が棒全体で水の球を切るように潰していく。
「“ひゅー”。黒さま、すてきー」
「口で言うくらいならやめろ!」

「さて」と棒を回転させ盾に見立てて回避していたファイが徐に口を開いた。「ここでずっと球遊びしてても仕方ないよねー」
 ――こんな遊びはごめんです
 名前は水の球を避けながら、内心吐き捨てた。

「小狼君ー。モコナと一緒に先に進んでー」
「まだ決着は付いていません」
「うん。でも人数いっぱいでかかってもあんまり効果なさそうだしー。それに、足が動くうちに先に進むべきでしょう。小狼君にはやるべきことがあるんだから」
 それでも誰かを残して自分だけが先へ行くことに抵抗を感じるのだろう。
 羽根を手にすることは彼の願いで、それに巻き込むことに負い目を感じているのかもしれない。

「大丈夫! ここは黒ぴーがなんとかするから」
「また俺かよ!」
 満面の笑みで黒鋼の肩を叩くファイに、
「有り難うございます」と小狼はようやく頷いた。
 ファイの意思を汲み取ってのことだろうが、最終的な目的が一つなら迷いはいらない。

「あの上の方が魔力が薄い。小狼君なら出られるよねー」
 指差された先には、終わりの見えない空が広がっていた。
「すごく高いー。小狼届く?」
 小狼の服の胸元から顔を出したモコナが表情を曇らせる。

「おめっ! そんなトコに隠れてやがったのか!」
「私も隠れたいです」
 やかましく吠え立てる黒鋼の背中に名前が張り付く。
 水の球の攻撃が止んだのを機に、這う這うの体で三人の元へ飛び移ってきていた。
 水の球に当たり続けたせいで服はぼろぼろになり、額にはうっすらと汗が滲んでいる。

「暑苦しいーんだよ! 離れろ!」
 あっけなく引き剥がされた名前は、隣の柱に投げ落とされた。
「それも大丈夫だよー。あのね――」

 ひそひそと脱出方法を語るファイに、痺れを切らしたのか女の不服そうな声が飛んでくる。
「何の相談かは知らないが、私をあまり退屈させてくれるな、童達」
「すみませーん。すぐ終わりますからー」
 女に相槌を打ちつつ、ファイが黒鋼を奥へ押しやっていた。
「なんで俺が!」
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