Crying - 502
壁や窓を突き破った鉤爪のように鋭い三本の指にごつごつとした黒い体。長い髪を垂れさせた巨大な化け物が、崩壊した壁から我が物顔で侵入する。
鎌のように手を振り被った角の生えた化け物に、舌打ちが耳を翳め、視界がぶれた。腕で突き飛ばされた身体が後方へよろめく。
――避けなきゃ
無意識に傍観していた名前は、足で床を蹴りつけ飛びずさった。
「わー、お家を借りたらいきなりお客さんだー」とファイの呑気な声が右手から飛んでくる。
「招いてねぇがな」
その側には桜を瞬時に脇に抱えた黒鋼が飛びずさっていた。
なんか最近こんなのばっかりだ。
名前は物騒な来客に目を擦った。乾いた瞳がしぱしぱする。
化け物は二人の間にいた小狼に襲いかかっていた。
両手をポケットに突っ込んだままさらりと避けたファイが、さり気なく人任せにする。
壁を伝って飛び上がった小狼は右後方からの攻撃で肩を切りつけられるも、化け物の頭上目掛けて足を降り下ろしていた。
衝撃で化け物が床に崩れ落ち、静けさが戻る。
「おつかれさまー」
距離を取っていたファイが小狼の前に顔を出し、肩に乗っているモコナが繰り返す。
黒鋼はその様にじっとりとした視線を向けていた。
明らかに確信犯だ。
「可愛い女の子が出迎えてくれたり、綺麗な家紹介してくれたり、親切な国だと思ってたけど結構アブナイ系なのかなー」
ファイの視線の先にいた昏倒した化け物が音もなく消え去る。黒い粒子のように溶けて消えた化け物に緊迫感が漂った。
「やっぱり、危なそうな国だねぇ」
「なんで避けなかった」
不意に黒鋼に凄まれて名前はたじろいだ。
「よくわからないんです」
「あ?」
「今なら必死に逃げると思うのですが」
足が竦んで動けなかったわけじゃなかった。なぜだか逃げようと思う感覚が麻痺していたように思う。眠いからだろうか。
「大丈夫ですか?」
具合が悪いのではと心配する小狼に、両手を横に振った。
全然平気だと言いかけて、小狼へ身を乗り出した。
「ケガ……、それに頭に血が上ります」
黒鋼の脇に抱えられ床を向いた桜を指差すと、腑に落ちない顔をした黒鋼が半壊した場所の手前にあるソファーに寝かせていた。
「おれは大丈夫です。ただのかすり傷で」
「ダメですよ。小さなことでも自分を大切にしないと」と、名前はソファーへと目をやった。「なにより彼女が悲しむ」
意図を理解したらしい小狼に、
「手当てするものがないか、探してきます」と別室へと向かう。
「あ、おれが」
「オレが行くよー、小狼君はサクラちゃんを見てて」
小狼の意思に被せ桜をやわらかな眼差しで見つめたファイが、
「また出たら危ないからー」と付け加えながら名前の隣に来ていた。
玄関を右手に正面の壁側に設けられたカウンターの隣にある扉から別室に移ると、左側に一つ、正面の壁に二つと右壁に張り付いた二階へ続く階段の上には三つの扉があった。
一階から探した方がよかったが、位置的にファイの右にいたため「私は上を探します」と階段へと足を進める。ついでに彼女にかけるものを持って来ることにした。
階段を数段上って、木霊する足音に顧みる。
「なんでついてくるんですか」
「危ないでしょー、また来るかもしれないしー」
「今度は大丈夫です」
「わざとだったから?」
ファイの表情も口調もいつもの飄々としたものだ。
突然、読めなくなった彼の言動に不安が頭をもたげた。
必要性がないと背を向けようとして、狭い階段、足を滑らせ彼に倒れ込む。支えてくれたファイから慌てて離れようとし体制を崩したせいで、そのまま階下に叩きつけられた。
ファイへの衝撃を和らげようと後頭部に両手を添えた為、ファイを下敷きにして倒れた名前は抱きつくような形になっていた。ファイはファイで名前の腰に手を回して受け止めていた為、理が非でも人様には見られたくない状況だった。
運悪く、物音を聞き付けた小狼と黒鋼が飛び込んで来る。
「なにしてやがんだ」
ひきつく黒鋼に、なんとも言えないいたたまれない空気が流れた。
「襲われちゃったー」
上から響いた楽しげな声に面食らう。
「階段から落ちただけです」と名前は眉をしかめた。
ファイの頭に敷かれた手を引き抜き身を起こす。
二階へと上がると手近な部屋に入り込んだ。
クローゼットやベッドなど最低限の家具しか置いていないが、綺麗に管理されているのかシーツも毛布も新しかった。
彼女にかけるものはすぐに見つかったけれど、肝心の救急箱は見当たらない。やはり一階だろう。
持ち運びやすいよう畳んだ毛布を小脇に置く。
ファイはなんであんなこと。
死にたがっていたとでも言いたかったんだろうか。寧ろ、怖くて足が竦んでいたと考えるほうが自然だと言うのに。
なんだかどっと疲れた名前はベッドに倒れ込んだ。
キィ、と扉が開き、金色の髪が顔を覗かせる。
「救急箱、下の部屋で見つかったから」
寝ているのかと一瞬、ファイが躊躇った。
「手当てしてきたよ」
「ありがとうございます」
身体を起こすと、顔だけ出していたファイが中に入って来ていた。
「眠くなったー?」
「いえ」と首を振る。
戻る気配のないファイに少し迷って口にした。
「気をつけます」
不思議そうな顔をするファイに付け加えた。
「さっきの来客のことです」
「あー」
「コレをお願いしてもいいですか」と憂いだ空気を断ち切るように立ち上がると、側においていた毛布をファイに差し出した。「彼女にかけてあげてください」
「名前ちゃんは下りないの?」
「別室で眠りますので」
「じゃ、オレも一緒にいるよ」
「構いませんが、布団からはみ出しても知らないですよ」
ファイはよほど嫌だったのか、張り付けた笑顔のまま階下へと下りて行った。
自身の寝相が悪いかどうか知らなかった名前は確認の為に言っただけだったが、ファイの反応に今後は確認するのを辞めようと肝に銘じた。
ショックを受けている自分に気づいて、あぁ、と頭を抱える。
勝手な時を刻む箱を見つめて、どさっとベッドに体を倒した。
――呪いだ。
腕で視界を塞いでため込んだ息を吐きだした。
鎌のように手を振り被った角の生えた化け物に、舌打ちが耳を翳め、視界がぶれた。腕で突き飛ばされた身体が後方へよろめく。
――避けなきゃ
無意識に傍観していた名前は、足で床を蹴りつけ飛びずさった。
「わー、お家を借りたらいきなりお客さんだー」とファイの呑気な声が右手から飛んでくる。
「招いてねぇがな」
その側には桜を瞬時に脇に抱えた黒鋼が飛びずさっていた。
なんか最近こんなのばっかりだ。
名前は物騒な来客に目を擦った。乾いた瞳がしぱしぱする。
化け物は二人の間にいた小狼に襲いかかっていた。
両手をポケットに突っ込んだままさらりと避けたファイが、さり気なく人任せにする。
壁を伝って飛び上がった小狼は右後方からの攻撃で肩を切りつけられるも、化け物の頭上目掛けて足を降り下ろしていた。
衝撃で化け物が床に崩れ落ち、静けさが戻る。
「おつかれさまー」
距離を取っていたファイが小狼の前に顔を出し、肩に乗っているモコナが繰り返す。
黒鋼はその様にじっとりとした視線を向けていた。
明らかに確信犯だ。
「可愛い女の子が出迎えてくれたり、綺麗な家紹介してくれたり、親切な国だと思ってたけど結構アブナイ系なのかなー」
ファイの視線の先にいた昏倒した化け物が音もなく消え去る。黒い粒子のように溶けて消えた化け物に緊迫感が漂った。
「やっぱり、危なそうな国だねぇ」
「なんで避けなかった」
不意に黒鋼に凄まれて名前はたじろいだ。
「よくわからないんです」
「あ?」
「今なら必死に逃げると思うのですが」
足が竦んで動けなかったわけじゃなかった。なぜだか逃げようと思う感覚が麻痺していたように思う。眠いからだろうか。
「大丈夫ですか?」
具合が悪いのではと心配する小狼に、両手を横に振った。
全然平気だと言いかけて、小狼へ身を乗り出した。
「ケガ……、それに頭に血が上ります」
黒鋼の脇に抱えられ床を向いた桜を指差すと、腑に落ちない顔をした黒鋼が半壊した場所の手前にあるソファーに寝かせていた。
「おれは大丈夫です。ただのかすり傷で」
「ダメですよ。小さなことでも自分を大切にしないと」と、名前はソファーへと目をやった。「なにより彼女が悲しむ」
意図を理解したらしい小狼に、
「手当てするものがないか、探してきます」と別室へと向かう。
「あ、おれが」
「オレが行くよー、小狼君はサクラちゃんを見てて」
小狼の意思に被せ桜をやわらかな眼差しで見つめたファイが、
「また出たら危ないからー」と付け加えながら名前の隣に来ていた。
玄関を右手に正面の壁側に設けられたカウンターの隣にある扉から別室に移ると、左側に一つ、正面の壁に二つと右壁に張り付いた二階へ続く階段の上には三つの扉があった。
一階から探した方がよかったが、位置的にファイの右にいたため「私は上を探します」と階段へと足を進める。ついでに彼女にかけるものを持って来ることにした。
階段を数段上って、木霊する足音に顧みる。
「なんでついてくるんですか」
「危ないでしょー、また来るかもしれないしー」
「今度は大丈夫です」
「わざとだったから?」
ファイの表情も口調もいつもの飄々としたものだ。
突然、読めなくなった彼の言動に不安が頭をもたげた。
必要性がないと背を向けようとして、狭い階段、足を滑らせ彼に倒れ込む。支えてくれたファイから慌てて離れようとし体制を崩したせいで、そのまま階下に叩きつけられた。
ファイへの衝撃を和らげようと後頭部に両手を添えた為、ファイを下敷きにして倒れた名前は抱きつくような形になっていた。ファイはファイで名前の腰に手を回して受け止めていた為、理が非でも人様には見られたくない状況だった。
運悪く、物音を聞き付けた小狼と黒鋼が飛び込んで来る。
「なにしてやがんだ」
ひきつく黒鋼に、なんとも言えないいたたまれない空気が流れた。
「襲われちゃったー」
上から響いた楽しげな声に面食らう。
「階段から落ちただけです」と名前は眉をしかめた。
ファイの頭に敷かれた手を引き抜き身を起こす。
二階へと上がると手近な部屋に入り込んだ。
クローゼットやベッドなど最低限の家具しか置いていないが、綺麗に管理されているのかシーツも毛布も新しかった。
彼女にかけるものはすぐに見つかったけれど、肝心の救急箱は見当たらない。やはり一階だろう。
持ち運びやすいよう畳んだ毛布を小脇に置く。
ファイはなんであんなこと。
死にたがっていたとでも言いたかったんだろうか。寧ろ、怖くて足が竦んでいたと考えるほうが自然だと言うのに。
なんだかどっと疲れた名前はベッドに倒れ込んだ。
キィ、と扉が開き、金色の髪が顔を覗かせる。
「救急箱、下の部屋で見つかったから」
寝ているのかと一瞬、ファイが躊躇った。
「手当てしてきたよ」
「ありがとうございます」
身体を起こすと、顔だけ出していたファイが中に入って来ていた。
「眠くなったー?」
「いえ」と首を振る。
戻る気配のないファイに少し迷って口にした。
「気をつけます」
不思議そうな顔をするファイに付け加えた。
「さっきの来客のことです」
「あー」
「コレをお願いしてもいいですか」と憂いだ空気を断ち切るように立ち上がると、側においていた毛布をファイに差し出した。「彼女にかけてあげてください」
「名前ちゃんは下りないの?」
「別室で眠りますので」
「じゃ、オレも一緒にいるよ」
「構いませんが、布団からはみ出しても知らないですよ」
ファイはよほど嫌だったのか、張り付けた笑顔のまま階下へと下りて行った。
自身の寝相が悪いかどうか知らなかった名前は確認の為に言っただけだったが、ファイの反応に今後は確認するのを辞めようと肝に銘じた。
ショックを受けている自分に気づいて、あぁ、と頭を抱える。
勝手な時を刻む箱を見つめて、どさっとベッドに体を倒した。
――呪いだ。
腕で視界を塞いでため込んだ息を吐きだした。