Crying - 109

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 後ろから伸びてきた手に口を覆われ、体に回された腕が名前を後ろに引き戻す。
 細く華奢に見えるファイの腕はぴくりともせず、密着する生ぬるい温度に名前は正体不明の焦燥感に襲われた。
 息苦しくて、首がやけに熱い。
 どんなにもがいても変わらず、生ぬるい温度は離れなかった。

「黒ぷー、今忙しいから、また後でねー」
 相変わらず悠長にしゃべるファイに、目の前がくらくらする。
「……聞かない、から、離して」
 するりと離された腕に、思わずその場にへたり込む。


「だ、大丈夫ですか?」
 心配げに小狼が覗き込んでくるも、
「おまえの巧断は何級だ!?」
「知らねぇし興味ねぇ。ごちゃごちゃ言ってねぇで掛かって来いよ」
 向こうから聞こえてくる会話も気がかりそうにしていた。

「平気です」と力なく笑う。「それより、彼、大丈夫でしょうか。刀が不要のようには言っていましたけど」
 黒鋼へと視線を投じた名前の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「小狼くーん!」
 どうやら電話が終わったらしい。戻ってきた正義は今の状況に焦りを隠せずにいた。
 にもかかわらず、ファイはあくまで飄々としている。

「正義くん、あれ知ってるー?」
「この界隈をねらってるチームです! ここは笙悟さんのチームのナワバリだから!」
「あのひと強いのかなぁ」
「一級の巧断を憑けてるんです! 本人はああだけど、巧断の動きはすごく素早くて、それに!」
 興奮した正義が語調を強めた瞬間、首魁の男が叫んだ。

「くらえ! おれの一級巧断の攻撃を! 蟹鍋旋回!」
 回転しながら突っ込んでくるカブトガニを、黒鋼が軽やかに躱す。
 尚も減速しないカブトガニの尾が背後の柱に衝突した瞬間、柱が真っ二つに切れていた。
「切れた!?」と小狼が目を丸くする。

「あの巧断は体の一部を刃物みたいに尖らせることができるんです!」
「いけいけー!」
 丸腰の相手に圧制し気分が高揚しているのか、向こうの野次に熱がこもる。
 手を緩めることなく断続的に襲いくる攻撃に、黒鋼はひたすらすんでのところで躱し続けていた。

「危ない!」と思わず小狼が身を乗り出す。
 それをファイが手で制した。
「手、出すと怒ると思うよー。黒たんは」
 動じることなく笑みを絶やさないファイに、浮かない顔ながらも小狼はその場に留まっていた。よほど、心配なのだろう。今にも飛び出してしまいそうなほど、食い入るように見つめていた。


 名前は立ち上がり、衣服をはたくとぽつりとこぼした。
「私には出したくせに」
「あれぐらいじゃ出したって言わないでしょー」
「どれぐらいなら出したって言うんです。基準が緩いのでは」
「緩くないよー。それに、ああでもしないと止まらなかったでしょー?」

「……」
「そんなに大切なものなんだー」
「違います。私が大切なのは昔、出会った蒼い――」
 言いかけて、大きく見開かれたファイの瞳とぶつかった。
 蒼い――


「蟹動楽!」
 男のがなり声に、同時に視線が逸れる。
 攻撃が直撃したらしい黒鋼が吹き飛ばされ、勢いよく壁に叩きつけられていた。
 衝撃で崩れてきた瓦礫に埋もれ、姿が見えなくなる。
「黒鋼さん!」と小狼の声が建物内に反響した。

「巧断はどうした! 見せられないような弱いヤツなのか!?」
 男が嘲るような声で嘯く。
「うるせぇ」
 瓦礫の下から出てきた黒鋼は、全身に傷を負っていた。
 しかし、好戦的な瞳はより一層煌めき、口元には絶えず笑みが浮かんでいる。

「ぎゃあぎゃあ、うるせぇんだよ」
「おれの巧断は一級の中でも特別カタイんだぁ!」
「けど弱点はある。あー、刀がありゃてっとり早く――」
 波打つような音とともに黒鋼の背後に、水で形作られたような竜が聳え立つ。

「なに!? おまえ、夢の中に出て来た……」
 水の竜は黒鋼を見とめると、水飛沫とともに大剣へと姿を変えた。
「使えってか? なんだ、おまえも暴れてぇのかよ」
 目の前に据えられたそれに笑みが深まる。
 大剣を構えた黒鋼はひりつくような気配を纏っていた。

 気圧されてか首魁の男がどもり出す。
「そ、それがおまえの巧断か! どうせ見かけ倒しだろ! こっちは、次は必殺技だぞ! 蟹喰砲台!」
 甲羅の表面を針山の如く尖らせたカブトガニが、黒鋼に向かって猛スピードで突っ込んで行く。

「どんだけ体が硬かろうが、刃物突き出してこようがな、エビやカニには継ぎ目があんだよ」
 悠然と構えた黒鋼が剣を振り下ろし、
「破魔・竜王刃」
 放たれた剣戟がカブトガニを貫く。
 巧断が負った痛みは宿主である男に貫通するのか、断末魔の叫びとともに男が崩れ落ちていた。

「だいじょうぶっすか!? しっかり!」
 連れ立っていた男達が心配げに駆け寄って来る。
「も、もうチームつくってんじゃねぇか」と介抱されていた首魁の男が息も絶え絶えに言葉を吐き出す。「おまえ、“シャオラン”のチームなんだろ!」

「誰の傘下にも入らねぇよ」
 剣を担ぐ黒鋼の瞳には今ここにいる誰の姿も映していないのだろう。

「俺ぁ生涯、ただ一人にしか仕えねぇ。知代姫にしかな」

 世界を跨いで見ているもの。それがきっと、彼の大切なもの。
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