Crying - 101

≪Prav [3/72] Next≫
 ぽつりと悲しみを含んだ声が耳元に落ちてくる。どこか憎しみにも似た響きがぼんやりとした頭の中で反響した。
 夜の海に似た不安を煽るような蒼の瞳に、呆然とした自分の姿が収まっている。
 ふいに頬に触れた指の冷たさに身を竦ませた。肌に張りついていた髪をよけてくれたらしい。
 いつの間に水浴びしたのか、全身しとどと濡れている。

「目覚めたみたいだねぇ」
 何事もなかったかのように涼しげな笑みを浮かべて身を引く、彼の金色の髪から雨の匂いが漂った。
 彼の頭で遮られていたらしい蛍光灯の明かりに、顔をしかめながら身を起こす。

「どなたですか」
「オレは――」
 奇妙な間が空いた。
 躊躇っていると言うよりは、どこか皮肉っているような眼差しだった。
「――ファイ」と冷めた瞳が名前を見返す。「まだ濡れてるみたいだから、これ使って」
 愛想笑いを浮かべるファイからタオルを受け取った名前は、ひとまず膝の上に置いた。


 狭い和室にファイの他に三人、見知らぬ人間が集まっている。
 アパートだろうか。板間を入れて六畳程度の室内は片隅に古びた小さなブラウン管テレビが置いてあるだけで、生活感が微塵も感じられない。
 今いる四人の部屋というわけではなさそうだ。

 正面にある大きな木窓からは夕暮れ時の街並みが覗いていた。見慣れないビルやタワーなどが乱立し、大小さまざまな明かりが夕焼けを霞ませる。
 ここはいったいどこなのだろう。
 中途半端な時間眠っていたような、熟睡中に無理やり起こされたような鈍痛が、眠る前の記憶を曖昧にさせていた。

 そばにいるファイに既視感を抱くのは、この状況となにか関係があるのだろうか。
 二十代前半から半ば程度だろうか、色白の痩躯の青年は常にへらへらと笑っていた。
 顔立ちはそれなりにいいほうだろうが、頼りなさそうな、軟派な雰囲気が端正な顔立ちとは言い難くさせる。なにより、ひと時も崩れない笑顔は本心を隠す時に使うものだ。

「ここはどこですか」
「オレもよくわかんないんだー」
 困ったように笑った彼に、唯一、知っていることを尋ねた。
「どうして濡れているのですか? 雨が降っていたようには見えませんが」
「そうだねー。この世界で降ってたわけじゃないからねぇ」

 本当に異次元――異世界へ来たのだろうか。
 願ったのは自分だがどうも半信半疑だった。
 同居人が異世界の人間と精通していること自体が嘘みたいな話なのだ。

 しかし、ぶつくさ言ったところで仕方がないだろう。どの道、自分には帰る場所がない。
 ――“本当”の持ち主に会ってきてほしい
 探して突き返してやろう。あんたのせいでだいぶ蝕まれたとでも因縁つけて。



 ファイの意味深な視線に気づいたのと、どこか幼さの残る少年の声が耳を打ったのはほぼ同時だった。

 窓際で眠る少年の頭にいつの間にか変なものが張りついている。
 ゆで卵のお尻を押し潰したような形をした白くなめらかなそれは、少年の傍らにひとりでに動くと、頭部――上部――から生えたうさぎに似た耳を垂らしてさめざめと泣いていた。
 右耳には緋色の珠がついたピアスがはめられ、額には光沢のある紅玉が埋まっている。

「あー、目覚めたみたいだねぇ」
 抱き上げたファイに頭を撫でられ、白い物体が嬉しそうに糸目を細める。落ち着きなく短い尻尾が揺れていた。

「さくら!」
 慌てた様相で飛び起きた十代半ばの少年が、自身の腕の中で眠る同じ歳ぐらいの少女に安堵の表情を滲ませる。束の間、体温が感じられなかったのか悲痛な表情でひしと抱きしめていた。

 少女が“さくら”らしい。
 血管が透けて見えそうなほど青白い肌に、紫色の薄い唇。固く閉じられた瞼は二度と開くことのない死人のそれによく似ていた。人形よりも温かみの感じられない少女は、今にも消えてしまいそうなほど存在感が希薄だった。

「一応、拭いたんだけど。雨で濡れてたから」
 ファイが人当たりのいい顔で笑いかける。
「モコナもふいたー!」
 白い物体はファイの膝の上に飛び移っていた。

「寝ながらでも、その子のこと絶対離さなかったんだよ。君――えっと……」
「小狼です」
「こっちは名前長いんだー。ファイでいいよー」と相変わらずへらへらと笑ったまま木窓の手前――右隅に鎮座している男を指差した。「で、そっちの黒いのはなんて呼ぼうか―?」

 三十間近だろうか、前科二犯という看板を顔面で掲げている無愛想な男は不機嫌そうに声を荒らげた。
「黒いのじゃねぇ! 黒鋼だ!」
 抜け目のなさそうな鋭い真紅の瞳がファイをねめつける。
 黒い外套に身を包んだ黒鋼は、無造作な黒い短髪の下に真っ赤な額当てをしていた。
「くろがね、ねー。くろちゃんとかー? くろりんとかー?」
 ファイが愉快げにかわいらしいあだ名を列挙する。露骨な嫌がらせだ。

「てめえは、なんなんだ」と、怒りの矛先が名前へ向く。「一人だけ名乗らねぇってのが気に食わねぇ」
「名前です」
 にわかに笑むと、しょうもない名前だと言いたげに鼻で笑っていた。


 土気色の顔で一心に少女を見つめる小狼の願いは、本当のところは知らないが今にも潰えてしまいそうに見えた。
 彼女は確実に死に近づいている。このままなら彼女が物に変わる日もそう遠くないだろう。

 視界の端をゆっくりと動いた人影が小狼の深緑色の外套に手を突っ込む。
 うわっと小狼がうわずった声を上げた。澄んだ琥珀の瞳を白黒させている。
 ファイは素知らぬ顔で口元をゆるめると、小狼の背中と外套の間をあさくっていた。
「なにしてんだ、てめぇ」
 黒鋼の呆然としたつぶやきから、しばらくしてファイの手が止まった。
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