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 なまえさん、来てくれたんだ。
 そう口にした瞬間、吸った息が狭い喉を通る音が聞こえた。オレは薄暗いところからなまえさんの腕を掴むと、ぐいと引っ張ってその矮躯を胸の中に収めてしまった。少し遠くにあるキッチンの明かりだけが光源となって、なまえさんの狭い背中を照らしている。
 オレはなまえさんが今度こそ逃げていかないように、その細くて白い腕を強い力で握りしめた。すげー、親指と人差し指付いてる。本当に細いなあ、ちゃんと飯食ってる? 少しでも場の雰囲気を和らげようと適当な会話を盛り込んでみても、なまえさんが暴れるのをやめることはなかった。

「キバナくん、気分悪いんじゃなかったの。お水そこ置いたから、飲みなよ」
「なまえさんが来てくれたから酔いなんか覚めたぜ」
「なにそれ、それならわたし帰るね」
「えー、なんでだよ、オレはなまえさんに用あるし」
「やだ、帰るよ。キバナくん、なに、嘘吐いたの」

 嘘なんか吐いてねえよ、傷つくなあ、とぼやきながら、目を凝らして部屋の壁掛け時計を見遣る。後二分もすれば、オレは二十歳の誕生日を迎えるだろう。オレが早く到達したくてたまらなかった地点。スタートラインが、向こうからやってくる。
 なまえさんの柔らかい肌に、オレの指が食い込んでいくのがわかる。痛がらせるのもよくないよな、と彼女の腕を引っ張って、その小さい身体を優しく抱きとめる。昔よりもオレのほうが幾分も背が高くなって、鍛えたお陰で体格も良くなって、なまえさんなんか腕の中にすっぽりと包み込めるようになるまで成長した。大昔に聞いた、「大きくなったらね、」という言葉なんか、これだけで跳ね返せるくらいには、彼女の言霊通りのすがたになった。
 腹のあたりになまえさんの胸が当たっているのが分かる。布越しだからほとんどその感触はわからなかったが、どうせもうすぐ体温も感触も、分かるようになる。
 見飽きるほどになった小さなつむじ。甘いシャンプーの香り。なまえさんの柔らかいからだ。ここがなまえさんの部屋だったらなあ。けれども、日々の見慣れた風景の中になまえさんがいるというのも、すごくいい。それは異物感ではなく、新鮮、というのだろうな。ふわ、と胸の奥のあたりが温かくなる。

「なまえさん」
「わたし、キバナくんとは付き合えないよ」

 それらを堪能する間も無く、災厄は降って来た。
 オレの読みには無い言葉だった。なに、とか、離して、とか。そんなことばかり言われるものだと思っていたから、一瞬、怯んでしまう。
 今までのなまえさんだったら、絶対にそう言う筈だ。こんな明確な拒絶をするのは、オレが彼女の言う大人だと、やっと認識されたからか。はぐらかすのもやめたのか。それはそれで、胸を杭で三度は突かれた気分だな。

「……はあ、そりゃなんでだ。オレさまが大人になって、まだなまえさんのことが好きだったら、付き合ってくれるって約束だったろ?」

 なあ?
 少し牙を剥いて彼女の耳に低い声を垂らしてみれば、なまえさんは黙り込んで、オレの服を握りしめた。
 かわいい。すげえかわいい! オレは急に身体が熱くなって、またなまえさんのことを抱き寄せた。
 ずっとずっと待ち続けていた。国が定めた成人の概念ではない、身体も心も成熟するまでの長い期間を、オレは待ち続けた。他の女に心が揺らいだことは一度もない。オレが付き合う相手はなまえさんだけだし、ずっと昔からそう決めていたのだから、そうなって然るべきだ。
 ガキの頃からはぐらかされてばかりだった。然しもうオレは大人なので、なまえさんの言う落ち着いて物事を考えられる歳なので、心身共に成熟した男なので、なまえさんと付き合っても良いのだ。だってオレは彼女が出した条件をすべて満たしたのだから、もう、そうなって然るべきだろう。
 腕の中に熱を押し込んで幸せを噛み締める。けれども、なまえさんがオレを抱きしめ返してくれることはない。抱擁の代わりに飛んでくるものと言えば、明らかに焦燥を含んだ声ばかりだ。

「ちょっと、ねえ、くるしい」
「なあ、だから今日来てくれたんじゃないのかよ」
「キバナくん、彼女いるでしょ。この前見たよ。あんまりからかわないで」
「んー?」

 少しばかり考える。けれども何の覚えもないため、事実のみを伝える。

「……アレはセフレだし、もう解消したからカンケーない。あ、妬いてんだな」
「は……?」
「ただの練習相手だよ。なまえさん以外と付き合おうと思ったことはないし、オレさまは昔からずっとフリーな男だぜ」

 なまえさんのために空けてたんだけどなあ。そう続けると、彼女はなにやら黙り込んだ。くそ、かわいい、かわいい! あんな女に嫉妬して、恋人だと勘違いして、だからオレとは付き合えないとか言ってたのか?
 あいつは他の女と比べて少し長く一緒にいたが、まあ、それだけの関係だ。なまえさんに横顔が少しだけ似ていたから、隣を歩くのも特に苦ではなかったな。まあ、昨日セフレも解消したし、全く問題はない。あの女が泣き出す意味がわからなかったが、良い練習相手にはなったと思う。初めからセフレだと伝えてあったのだから、妙な期待をするほうがおかしいのだ。
 もうすぐ、あと少し。十代から二十代へ。この国では年齢が二桁になった瞬間から成人として認められる。なまえさんがそれを認めてはくれることは終ぞ無かったが、もう、許さざるを得ない。「セフレって……」「オレさまかなり特訓したんだぜ、腰抜かすなよ」ゆっくりと、なまえさんの腰を撫でる。なまえさんは一瞬びくっとして、またオレの服を握りしめた。離れていこうとしないのは、オレが右腕でしっかりとなまえさんの身体を引き寄せているからだ。こちらが行動を制限しているからと分かっていても、やっぱり、しがみつかれるというのは、いい。
 今までオレにしがみついてきたのは、なまえさんではない、別の女ばかりだ。その手のぬくもりも、心音も、オレに吐かれる言葉さえも、なに一つなまえさんのものであった試しはない。いつか訪れるこの瞬間のために、オレはその下準備に明け暮れていた。なまえさん以外の女の前で愛を囁いたことはないし、なまえさん以外の女で抜いたことはないし、いや、罪悪感から趣向を変えてみたことはあったが、微々たる差だろう、そんなものは。

「なまえさん、オレと付き合ってよ」

 オレはもうすぐ、なまえさんの恋人として認められるのだ。だって二十歳だぜ、オレ。誰がどう見ても大人だしな。なまえさんに言われた条件も全部クリアした。これ以上文句があったら笑っちまう。
 腕の中で黙り込んで震えているなまえさんは本当に可愛くて、オレを押し退けようとする手なんか死ぬほど非力で、脚をふんばる力もなくて、されるがままになっている。細い髪の先に指を絡めてみると、するんとオレの指からすりぬけていった。

「付、き合えない、キバナくんとは……」

 なまえさんはこの期に及んで、まだ先延ばしをしようとする。いや、既に断られているようなものなのだが、このオレさまをここまで待たせておいてやっぱりだめでした、なんてことは、許される筈が無いだろう。

「ふうん……。十歳になったら。来年になったら。もう少し大きくなったら。ジムリーダー試験に合格したら。オレがもう少し成長して、落ち着いて、まだなまえさんのことを好きだったら」

 彼女によって破られた口約束の数々を並べ立てると、なまえさんは少しだけ大人しくなった。それらの言葉の末端には、もう少し考えてみてね、という残酷で曖昧なものが付け加えられていたこともあった。
 もう少しってなんだよ。いつまでだよ。そう噛み付いた時期もあったが、彼女は逃げるのがうまいので、今日まで野放しにしてしまっていた。けれども、もう逃げられることはない。なまえさんはオレに捕まるしかないのだ。
 嬉しくて鼻を鳴らした。その場で時計回りにくるり、踊ってみる。それから抱き締め直して、その小さな耳に声を落とす。

「オレはまだなまえさんのことが好きだ。っていうか、ガキの頃からずっと好きなまんまだよ。それで、オレは今二十歳になった。約束通り付き合ってくれるよな。なっ」

 時計の針の先はてっぺんへと向き、ふたつの影も重なったらしい。机の上に置きっぱなしにしていたスマホがけたたましく通知音を鳴らしている。「キバナくん、通知」「いつものことだからいいんだよ。今はどーでもいい」返事をするのは後でいい。今日はオレにとって特別大切な日なのだと、オレの周りの奴らはみんな知っている筈だから。あれは、オレのことなんかなんにも知らないやつらからの祝いの言葉群である。そんなものに興味はない。

「き、キバナくん、ほんと、有名人でしょ。わたしよりも綺麗な人とか可愛い人とかたくさん会って来てるでしょ。わたしじゃなくてもいいでしょ、意地張らないで」
「つまんねーこと言わないでくんない?」

 なまえさんの肩が跳ねる。声を低くしすぎたか。別に怖がらせたかった訳でも叱りつけたかった訳でもない。それらはよくある台詞だし、そう言われるだろうことも予測していた。
 過去の練習相手たちにも同じようなことを言われて来た。どいつもこいつも次の関係を期待してきてウザかった。そして遂には聞き飽きた。オレはどうでもいい相手を安心させるための言葉を選べるほど器用ではないので、そうだなと言って泣かせたこともあるが、実際にそうなのだから、他に言いようがない。
 結局は、また、引き延ばそうとしている。はぐらかして、誤魔化して、それで、延長期間中にオレが別の女を好きになればいいと期待しているのだ。
 オレはそれが気に入らない。ここまでしておいて、そんなことが認められる筈がない。
 オレはあなたがいいんだよ、なんて優しい台詞も吐ける筈がない。オレは昔から今にかけてなまえさんしか見てこなかったのだから、もうあなた以外に欲しいものなんかないのだ。言わなくたって分かる筈。逆説は、考えたくもない。

「キバナくん有名人だから、わたしみたいなの横にいたら、炎上しちゃうよ。それに、わたしいっぱい嫉妬してめんどくさい女になっちゃうかも」
「からかうなよ」

 それは現実的ではない。なる筈がないだろう、だって今までそうだったのだから。持て囃されるオレを見て安心していたのだろう。いつかわたし以外の誰かを好きになってくれるだろうって、思っていたんだろうな。
 そんなもので満たされるほどオレは小さな男ではない。代用品を揃えた環境で満たされておけば良かったのかもしれないが、オレがこんなふうになったのはなまえさんのせいでもあるのだから、そろそろ許されてもいいだろう。
 まあ、なまえさんがめんどくさい女になるのもいいかもな、と思いながら、またなまえさんの髪に指を絡ませる。何か手違いがあって、オレのことを好きすぎるあまりになまえさんがおかしくなるのも良いかもしれない。有り得る話では無いが。知っている、分かりきっていることだから辛い。
 指に髪束を巻きつけると、また、すぐにすり抜けた。
 オレがここまでしているのだから、そろそろなまえさんも観念してくれたっていいだろう。オレももう限界である、こうやって無遠慮に彼女の身体に触れようとしてしまったくらいには。正直言うと、このまま押し倒して食ってやったって良いのだ。けれども、それをしないのは。しっかりと言質が欲しいのと、待たされた分だけのご褒美が欲しいからに他ならない。

「なまえさんさあ、」

 今まで、たった一つの言葉を求めて来た。その後の展開も。ずっと先のことも。そのために練習を重ねてきて、そのためだけにここまできた。だからもう、オレに手順を回すべきだろう。
 今日は、何年も待たされて、耐え抜いてきたご褒美をもらう日なんだ。
 だから逃がさない、絶対に逃がさない、何があってもこの腕の中から出すことはない。既に影は踏んでいる。あとは、捕まえるだけなのに。膠着状態が続いている。もう一生このままでもいいかもしれないな。

「オレに何か言うこと、あるんじゃないか」

 スマホの通知音がうるさい。なまえさんの声が聞こえなかったらどうしてくれる。この時間ロトムは眠っているので、既にボールの中だ。だからオレがスマホに声をかけることはないし、余所見をすることもない。腕だけ伸ばしてミュートにして、画面を伏せる。それだけ出来れば十分だ。
 なまえさんは震えた声で、ええと、と言ったあと、「誕生日おめでとう」と場を繋いだ。そういうとこなんだよなあ。それに溜息を付けて、また抱き寄せる。もう騙されない。
 冷静に。その場の勢いなどもってのほかだ。言おうと決めていた言葉だけを連ねる。

「なまえさん。オレと付き合ってください。これ以上は、たぶんもう無理だ。待てないよ、もう」
「……、」
「本当に好きなんです。だから、オレと付き合ってください」

 誠実に、己の心に忠実に。また一年間溜め込んできた想いを伝える。総量はもっと多い筈だ、こんな部屋なんか埋め尽くしてしまえるくらいの。
 どき、どき、どき、一番嫌な時間だ。心臓の音が一際大きく聞こえるように感じる。それを捻りつぶすためにも、腕に力を込める。なまえさんのつむじなんか何回見たかわからない。目を瞑って祈る。昨日で最後だ、昨日が、我慢の最後の日。その筈。
 ……なまえさんはなにも言わない。
 ああ、これ、この感じ。一年前と同じだ。二年前も。三年前も。嫌だ。ずっと前からおんなじだ。なまえさんがあと二回息を吸って吐いたら、「ごめんなさい」って、ほら。
 また、だめなのか。何度やってもこうなのか。オレが毎回、あなたのためを思って諦めてしまうから。

「もういいよ」

 即座にそう吐き捨てて、瞳を燃やす。
 どれだけ指を絡めてもすり抜ける。ならば、もう首を掴んでその身体ごと引き寄せる他にない。ずっと触れたかった後頭部をとっ掴み、なまえさんの喉を反らせる。二つのまなこがオレを見る。それももう歪んで、あれほど正面から見つめていたかった顔も、視界が滲んでぼやけていく。「ふう、」辛くて苦しくて、あまりにも残酷な現実に歯を噛んだ。
 傷つけたくなんかなかったのに。それすらもおっかないってのに、どうして、最後まであなたって人は、オレにひどいことばかりするんだろう。知ってるんだよ、オレみたいな歳下に興味ないってことくらい。知ってるさ! オレが承認欲求だけ人一倍大きくて、本来の目的さえ見失ってしまうくらい不安定な男だってことくらい! ずっとあなた一人に固執して、本当にオレを必要としてくれる人を蔑ろにするような奴だって!
 オレは、自分勝手で利己的で、欲まみれで意地汚い、どこまでも卑しい奴なんだ。だから、もう。あなたにだけは、どうかそんなオレを認めて欲しい、許してほしい。せめて、こんなに待ったのだから、少しの間だけ夢を見せてくれたって、いいだろう。
 これほどまでに焦がれた人に、牙など突き立てたくはなかった。抱きとめて、恋人のそれを味わいたかった。それすら許されないのなら、もう、懇願だってしてやらない。「なまえさん、」涙で詰まった喉からは、ひどく掠れた声が出た。

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