月を背に、街の明かりを背に、そいつはそこにいた。
承太郎がそいつに気が付いたのは、DIOが降りてくるほんの少し前の事だ。
闇夜にもよくよく目立つ緋色の瞳が、ひたりとこちらを見ていた。
その顔に覚えがある。金の髪に透けるような白い肌、ゾッとするほど整った顔立ち。事もあろうに、そいつはDIOによく似ていたのだ。口元に鋭い犬歯さえ見えるような気がして、承太郎はそこで一度思考を止めた。そいつが一体何であるのかは分からない。しかし、おそらくは敵だろう。隙を見せる訳にはいかない。空条承太郎は、先ほどのDIOの攻撃で心肺停止状態にあるのだから。
そうこうしているうちにDIOが追いついてきた。どうやら背後にいるそいつには気が付いていないらしい。倒れたままの承太郎を一瞥すると、何か思う事があったのだろう。おもむろに口を開いた。
「念には念を入れておくとするか…。ジョースターの血統は強運だからな」
死んだふりをしているだけかも知れん、という言葉に背筋に妙な汗が流れてきた。勘のいい奴、というよりはジョースター家と戦ってきた実績がそうさせるのだろう。後ろにいる奴は未だに動きを見せない。ただ、DIOを見て酷く驚いたらしくかすかに目を見張った。口は小さく動く。何を言っているかは遠くて聞こえない。DIOの立てる音が不気味で、不愉快で、何より恐怖だった。
その後ろに控えるそいつは、せわしなく左右へと目を走らせて痛みを耐えるかのようにぐっと息をのみ込んだ。一度瞳を閉じて開くと、そこにはもう迷いなんて感じられない。
じゃり、と砂を踏む音が聞こえて、耳ざといDIOはそれだけで背後の存在を感じ取ったようだ。だがもう遅い。初動はすでに始まっていて、蹴られた地面を抉り素早くDIOの懐へ入りこむ。そこから勢いよく足を振り上げるが糸も容易く防がれ、その隙に標識が斬り裂いてくる。それを察知するや否や手はまっすぐに標識の柄の部分を捉える。だが力任せに止めたりはしない。そいつは相手との力量差を把握しているかのごとく振るわれた標識の下をくぐりぬけ、逆上がりの要領で一回転すると上空へ舞い上がった。
そこで上からの攻撃…と思いきや、そのまま後方へ舞い戻り、ふたたび距離を取る。空気は一瞬緊迫し、しかしDIOがふっと息を吐いたことでそれも崩れた。
「己の細胞に働き掛け、体を最適化する…なるほど、いくら幼子とはいえ吸血鬼。その位はできたのか、メリル」
そいつはメリルというらしかった。DIOから目をそらさず、じりりと距離を保つ。
「…パパ」
その言葉に、承太郎は一瞬己の置かれている状況さえも忘れた。
いま、メリルと呼ばれた男はDIOを「パパ」とよんだ。それは、どうあがいても彼らの間に血のつながりがあると言うことだ。確かに二人は体格と年齢は違えどよく似ている。敵が増えるのは厄介なことだ。それが血縁ともなればなおさら。…しかし、こうして対峙する二人の仲は決して良好には見えない。メリルがどちらの味方であるのか、今この状況では判断が付けづらかった。
「テレンスに飼いならされた木偶かと思ったが、存外そうでもないようだ」
ククッと喉で笑うDIOは不愉快この上ないが、そんな彼に何を言う訳でもなく、メリルはひたすらに父を見つめている。深紅の瞳はまっすぐにDIOを射ぬき、その意志の強さは何処かジョースター家の血筋を思い起こさせた。
「パパ、今すぐ止まって」
「……ほう?それは、どういう意味でだ?」
メリルはその言葉に少し固まって、それからぐっと息を吐きだした。
「今すぐ止まらないと、パパ、死んじゃう」
それは切実な声音だった。まるで未来が見えているかのような、未来からやって来たかのような真実味も乗せられている。
「それで?」
だがDIOはそんなことでは動じない。自身の勝利を確信しているからだ。こうして承太郎を窮地に追いつめた、あるいは殺したという事実が彼の自信を後押ししている。
「お前からみた私はどうだ?メリル。お前の安い言葉一つで止まるほど、薄弱な意思でもってこんな事をしていると思うのか?」
「思わない」
メリルはぶんぶんと頭を振る。
「でも、パパが止まらないなら…俺が止める。力づくでも!」
そう言って再び戦闘態勢に入った息子に、父はすこしばかり口角を上げて見せた。
ぐっと足に力をためる。ぴりりとした緊張感があたりを支配し、双方共に一言も口を利かない。メリルはぐっと腰を落とし姿勢を低くする。彼は戦い方なんてさっぱり分からない。だから本能のままに動くか、あるいは昔見た戦い方を真似するしかない。
何がきっかけになったのか、あるいはきっかけなど無かったのか。メリルが勢いよく地を蹴った。もう不意打ちはできない。純粋な力量差と、戦いのセンスが物を言うレベルになってしまった。
一直線にDIOへと向かう…と思いきや、その手前で地面に手をついた。その勢いのままにぐるりと回転して上空へと再び身を投げる。
上からの一撃!飛び出した勢いと重力も込めた重たい蹴りは、しかしDIOにはお見通しだったようで、あっさり足を掴まれてしまう。そのまま地面にたたきつけられて、メリルは短く息を吐いた。
だがタダでやられる気はない。激しく打ち付けた後頭部を庇うこともせず手を地面についてバランスを取りながらDIOの腕をもう片足で振り払う。そのままバク転で距離を取ろうとするが、それよりも早く標識がメリルの腹を襲った。金属の板に腹を抉られ、ぶしゃりとあたりに血が飛び散る。大きく横に吹っ飛んだ細見の体躯は、そのまま壁にぶつかって血の海に沈んだ。
「がっ…う…」
息も絶え絶え、だがメリルはゆるりと立ち上がる。
「流石は吸血鬼、我が息子だ。その耐久力は目を見張るものがあるな」
DIOは思案するように指をあごまで持ってくると、血まみれの標識を肩に担いだ。それとは相対的に自身を血に染めたメリルはうつろな瞳で、それでもなお父を見つめている。
「は…っ…ハァー…」
息をするのもやっとだ。メリルはぼやける視界に叱咤しながら身体の震えを押さえこんだ。
死ぬのは怖い。一度死んだ事があるが、その事はよく覚えていない。だが、魂が覚えでもしているのだろうか?死ぬことが現実味を帯びる度、じわじわと、抗いようのないものに繋がれていくことを実感して、それがひたすらに恐怖だった。
たぶん、メリルは死ぬだろう。自分で納得して、理解もしていた。父の"運命"には何一つ変化が無い。ただ一つ、死ぬと書かれているだけだ。
死ぬんだろうなぁ、と思う。仕方がないことだとも思っている。父はたくさん人を殺したし、たくさん、数えきれないほど奪っても来た。因果応報という言葉があるように、いつかその報いを受けてしかるべきなのだ。自分は死ねば天国に行くのだろうか、それとも地獄に行くのだろうか。父は絶対に地獄へ落ちるのだろう、なんて考えて笑えてきた。
死んだら死んだとき考えよう。今はこの、目の前のラスボスを倒すのに精いっぱいなのだ。
父はゆっくりと、見せつけるようにこちらに歩いてくる。
その背後に、ポルナレフが飛び出て来た。DIOの数多にチャリオッツの剣が突き刺さる。
「くたばりやがれッ!DIOO!OOOッ!」
その瞬間、時が止まった。
これが歳のごチャンスだと、メリルは直観した。これ以上の幸運はない。DIOはポルナレフに意識を向けているし、たぶん息子は時が止まっているからと見向きもしないだろう。その息子が、まさか止まった時の中を動けるなどと知らずに。
彼がポルナレフを叩くと同時に地を蹴った。最悪首を落とせるだけで構わない。100年前DIOは首だけになっても生きていたそうだが、身動きが取れなく慣なれればそれでいいのだ。
ゴッと鈍い音がして、ひたりとメリルの足が止まる。何か腹部に重たい衝撃が走って、それがなんともいえぬ熱を生んでいた。恐る恐る下を見て、あれ。と首をかしげる。黄色い腕が、腹部から生えていた。
ああ、そう言えばすっかり忘れていた。目の前のこの男は、スタンド使いなのだ。
スタンド「世界」。その存在を全く眼中に入れいなかった。腕を引き抜かれ、視界が揺れる。痛みはすでに超越していて何も感じない。足に力が入らず、その場に膝をついた。倒れる訳にはいかない。手でなんとか状態を支えると、頭をDIOに踏みつけられて崩れ落ちた。
「ン〜?躾が足りなかったようだなぁ、メリル」
酷く楽しそうに男がそういうので、全く悪趣味なと内心罵った。
構えられた標識が見える。滴る血は全てメリルのものだ。
「私だって血肉を分けた息子を殺す事に、良心が痛まないでもないぞ?だが…いたずらが過ぎたな」
死ねばいい、とむき出しの殺意が言外に語る。彼が標識を振り上げ、そして。
メリルの意識は、そこでぷっつりと途絶えた。
bkm