非常に見目麗しい女性は相変わらず櫂の上に悠然とたたずんでいる。あしもとにぶわっと広がる波紋はジョセフ兄ちゃんの比では無い。こえー。俺なんか一発で殺されちゃいそうだ。
「いきなりオールで痛めつけられては許せねェぜ…」
同じく水面に立ちながら、ジョセフ兄ちゃんはうらみがましく言った。
「こんな場合…俺は…女だろうが容赦はしねぇ!」
「やめろJOJO!その人が俺の先生だ!」
あ、やっぱりあの人がシーザー兄ちゃんの先生なんだ。はー。
っていうか、ジョセフ兄ちゃんもその人に羽向かうはやめた方がいいと思うけど。その台詞は明らかに負けフラグだなぁ、なんておれは一人そんな事を思った。手持無沙汰に日傘をくるくる回す。今日の俺はちょっぴり冷静だ。まぁ目の前で起こることにすでに頭が付いて行かないと言うのは、もちろんあるけど。
いやだってさ。考えても見てくださいな。目の前で人が水面に立ってるんだよ??昔バラエティ番組でそういう企画あったよね。御座かなんか広げてさ、その上を芸人さんがダッシュするの。ようは右足が沈む前に左足を出して左足が沈む前に右足を出せばいいとか、そういう話だったんだけどさ。不可能だからね?でも目の前の人たちはそれをいとも簡単にやってのけてる訳で。そんな脳筋的方法ではないけど。お前ら人間じゃねぇ。あっ!俺も人間じゃないや。
シーザー兄ちゃんの先生(長い!けど名前も知らないからなんて言っていいか分からないんだよぅ)は足で櫂を持ち上げる。櫂から滴り落ちる水が波紋によってまるで固体のように(ジョセフ兄ちゃん曰く"鉄棒のように")ピシリと固まって櫂が上の方で固定された。先生は反動をつけてジョセフ兄ちゃんの元へと飛んでいき、そして体操選手も真っ青な見事な宙返りを決めながらジョセフ兄ちゃんの顔に何かを装着した!
俺から言わせれば、それは犬が噛みつくのを防ぐ口枷のように見える。こう言ったら怒られるかもだけど、兄ちゃんはどことなく大型犬みたいな印象があるからなおさらだ。しかし、それは先生曰く「呼吸法矯正マスク」というらしい。要は波紋の呼吸をしていなければ呼吸が出来なくなるマスクのようだ。それを100キロ走ったあとだろうと呼吸が出来るようになれと言う。…そもそもさ…100キロ走れないよね…。少なくとも俺は無理。ていうか…嫌。ひょっとしたら今のこの吸血鬼の体なら走れるかもしれないけど…いやな物は嫌だ。ていうか走るのあんまり好きくない。
激昂した兄ちゃんは波紋の呼吸を乱したのか先ほどまでたっていた筈の水面に沈んでしまう。その間に先生は陸地に上がってきていた。食事と歯磨きの時は外してもらえるんだって!ヤッタネ兄ちゃん!なんか歯磨きの時にも外してもらえるって可愛いよね…なんだろうね…。
「JOJO!リズムを整えろ!そうすれば風邪のマスクみたいになんてことはない!」
なんて言い出すのはシーザー兄ちゃんで、たぶんシーザー兄ちゃんもあのマスクつけたんだろうなぁ。ジョセフ兄ちゃんにはこれからいっぱい辛いことが待っているんだと思う。俺は一人で小さく頷いた。
じゃあ、俺は?
それは不意に現れた疑問だった。俺は…これから先、どうなるんだろう。ずっとジョセフ兄ちゃんにくっついてるのか?別に戦える訳でも、役に立つ訳でもないのに?そう思うと俺ってやっぱりすごくいらない立場の人間だ。迷惑ばっかりかけてる。
しょぼん、と落ち込んでいると強い視線を感じた。顔を上げれば、まぁ案の定というか、先生がこちらを見ている。
「あなたは…」
カツ、と先生の靴が鳴る。
一歩一歩近づいてくる音っていのはどうしてこうも恐怖をあおるのだろう。俺が日本人だからだろうか?段々と近づいてくる、と言う情景に言い知れぬ恐怖を覚えるのは。
不意に彼女の掌がきらめいた。ん?と思う暇もない。ばちりと酷い音がして、彼女は手を振りかぶった。
「…ぐ…!」
それを受け止めたのは、いつの前にか前に立っていたジョセフ兄ちゃんだった。俺はぱちくりと瞬きをするだけで、何が起こったのかまでは頭が付いて行っていない。
「兄ちゃん…?」
「は…メリル、大丈夫かよ?」
「う、うん…」
えっ…なにこれ。えっ!?ひょっとして、いやひょっとしなくても!俺今殺されそうになってたの!?あのばちって言ってた火花は波紋で、この人は俺にその一撃をくらわそうとしてたの!?な、なんで!?
「テメェ!どーいうつもりだ!!」
ジョセフ兄ちゃんが吠える。
「知れたこと!」
先生の声は凛とよく通る。どっかに一本ピンと筋の通った人だなぁ、なんてことをのんきに考えた。カッコいい人だ。
「彼は吸血鬼なのでしょう。処分するのがふさわしい!」
「待てよ!確かにメリルは吸血鬼だ!だからっていきなり殺すって言うのか!?こいつは人を襲ったりなんかしねーよ!」
「事が起こってからでは遅いのです!」
そう叫ぶ先生の瞳には、確かな憎悪が見て取れた。俺に対する憎しみじゃない。吸血鬼、って言う種族に対する憎しみだ。
そんな目で見られたって、俺は別に好きで吸血鬼に生まれた訳ではない。人を襲った事はないしこれから襲う予定もない。確かに俺は滅茶苦茶に危険な存在だろう。かと言って「人類のために死ね」と言われて「はい」とあっさり答えられるほど世捨て人でもないのだ。俺は。
「リサリサ先生!俺からもお願いします!メリルは、俺の友人を…マルクを助けてくれました!こいつは人を襲ったりなんかしません!」
シーザー兄ちゃんも助太刀してくれる。
先生は未だに首を縦に振ろうとしなかった。ううん、そりゃそうだよね。だって人を助けたからって人を襲わないかって言われたら、それはそれで別問題だもん。
「…………もし、何か起こったら」
ジョセフ兄ちゃんは低い声でいう。
「俺が、こいつを殺す」
それはいつだったか、そうだ。ジョセフ兄ちゃんが俺を引き取ると言ったときにも言われた言葉だ。
何かあったら、波紋使いのジョセフ兄ちゃんが俺を殺す。
なんにも変わらない。前からの約束だった。
俺は人を襲った事はないし、襲う気はないし、襲いたいと思った事もない。そもそも血の味は好きじゃないしあんまり飲みたくだってないのだけれど、飲まなきゃ死んでしまうから仕方がなく飲んでいるだけだ。自分から積極的に生き血をすするなんて真似はしたくない。
なんていう俺の思いはもちろんジョセフ兄ちゃん達には伝わらないし、リサリサ先生にはもっと伝わらないだろう。それでも、兄ちゃんの誠意は伝わったらしい。俺も一緒に修行の場へ行くことになった。
…他の波紋使いの人とか、いるのかなぁ。そうなると俺はずーーーーーーっと!ずっと命の危機にさらされているような状況な訳だ。なるほど帰りたい。帰るってどこにだよ。
bkm