そこを通ったのは、何となくでたまたまで偶然だった。
調理実習室からふんわりと漂う甘い香りに、紫原はぴたりと足を止めた。
普段は気にも留めない特別教室だが、今日ばかりは違って見えた。ぴたりとしめられた扉から隙間を縫うように広がるバターの香りに、砂糖の焦げるような匂い。お菓子を作っているのだろうか。
あまり記憶にないが、確かこの学校には名ばかりの調理部があった筈だ。名ばかり、というのはその部員のほとんどが幽霊部員であるからである。
帝光中は必ずどこかの部活に所属しなければならないのだ。が、運動部に入ると厳しい。文化部はコンクールやら何かあるたびに部活動をしなくてはならない。しかし、調理部は特にそう言ったコンクールも無くほぼ顧問の趣味のようなものなので、参加しなくても何か言われることもない。部活に入りたくない生徒の逃げ場所のようなものだ。
だから活動しているところなど見たことがない―――筈なのだが。この実習室から漏れる香りは間違いなく現実で。紫原は一瞬考えたもののなんの躊躇もなくその扉を開けた。
扉を開けると、さらに甘い香りが強くなる。オーブンの稼働する音、金属と金属が触れる鈍い音、誰かの鼻歌。
教室の中には一人、少年がいた。色素の薄い水色の髪、小さい体に似合わない大きなヘッドフォン。酷く楽しそうに鼻歌を奏でながらボウルの中の何かをかきまぜている。
どうやら紫原が入ってきた事には気付いていないらしい。それもそうだろう。なにせ相手はヘッドフォンをして音が気を聞いているのだ。ぐう、と腹が鳴ったのだって気付いていないだろう。
にもかかわらず、彼は振り返った。帝光中の白いブレザーの上から黒いエプロンを身に纏った彼は、そのソーダのような水色の瞳を緩ませる。ほほえましい、と表情が語っていて、紫原はすこし癇に障った。しかしそれよりも驚きの方が勝っていた。
「黒ちん…?」
だって、彼は同じ部活の黒子テツヤ。そのひとだったから。
前述のように、調理部とは部活に所属したくない生徒の逃げ場所で。しかしバスケ部で同じくレギュラーを張る黒子がその調理部に所属している筈もない。部活のかけもちはできないのだ。となれば、答えは一つ。黒子はバスケ部を、やめた…ということになるのだろうか。
いや、そんな話は全く聞いていない。やめるにしても何か前触れがあるだろうし、黒子は昨日も楽しげにバスケに精を出していた。
目の前の彼はヘッドフォンを取る。小さく笑って
「こんにちは」
と酷く他人行儀にあいさつをしてきた。
「黒ちん部活やめたの?」
「へ?いや、俺は…」
俺?黒子の一人称は僕だったはずだが。
首を傾げると、ふと数日前の事を思い出した。
屋上に何やら忘れ物をした、という青峰に付き合って部活終わりの疲れた体を引き摺って屋上への階段を上ろうとしていた矢先に。触れることも無くすれ違った黒子に良く似た後姿の少年。もしか、これが。
「はじめまして。黒子テツヤの弟の、ヒロヤです」
弟。
おもわず口の中で反芻した。
弟。まぁ確かにそっくりだ。というかもう同じだと言っても過言ではないのでなかろうか。ドッペルゲンガー、いや、クローン?そんな単語がぽんぽんと頭の中に浮かぶ。
それも束の間、紫原の視線はある一点にそそがれた。ヒロヤもそれに気づいたのだろう、小さく笑った。
「たべる?」
差し出されたのはクッキーだ。いわゆるアイスボックスクッキーなのだろう。きれいな市松模様になっている。
「たべる」
差し出されたそれを口で受け取って咀嚼する。
おいしい。素直にそう口にすれば、気の抜けた様な笑みをうかべた。
「そりゃ良かった」
そういって再び差し出してくるので、以下略。餌付けされているかのようだ。どうやら食べっぷりがつぼに入ったらしい。次々と消費されているのが面白くて仕方がないらしく、笑いながらクッキーを差し出される。
「すげー、良く喰うな」
「うん」
「栄養価が全部背丈に行ってんだろーなー、いいなー」
もごもご。気付けばクッキーの入っていた皿は空っぽ。ヒロヤは楽しげにそんなことを言った。
たしかに、彼は小さい。というか、紫原と比べれば大抵の人間は小さい。ヒロヤは平均身長なのだが。背が高い、というのはそれだけで羨ましいのだろう。
「あ、そういや部活大丈夫か?」
「んー」
ちらり、備え付けの時計を見る。急げば、まぁ大丈夫だろう。
「そうか。引き止めて悪かったな」
「ねぇ、ヒロちん」
「ん?…なんだそのあだ名」
いつもバスケ部員に使うような愛称で呼べば、苦笑される。
「あしたも食べに来ていい?」
「おう、紫原なら大歓迎だ」
間髪置かずそう答えられたので、紫原は少し笑ってその教室をあとにした。
実習室を出てからもしばらく、バターの匂いが離れなかった。