王とは、

唐突だが、貴方にはこんな経験があるだろうか。

夜道を一人で、考え事をしながらふらふら歩いていたら突然首根っこを掴まれ体が宙に浮き、そのまま空飛ぶ牛車に乗せられる。そんな経験が。

…少なくとも、二度目の人生を謳歌しているノア・ベルベッドには、どんな経験一度もなかった。

「ぎゃあああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!」

だからどれほど叫んだところで、許して欲しいものである。

「なんだ!!!何が起こった!?今、今何が!!!???」

「はーーーっはっはっは!そう叫ぶな、小僧!」

「い、いいイスカンダルさぁんん!?」

ごうごうと耳元で風の音がする。牛車の騎手であるイスカンダル、もといライダーは何故か楽しそうに笑っていた。

「これは一体!!どういう!!!」

「なぁに、お前さん弟に会いたがっていただろう?だから会わせてやろうと思ってな」

どうやら彼の中ではノアは「弟に会いたがっていた兄」という位置づけになっているらしい。いや、別に間違ってはいない。ノアだって、いつかはウェイバーに会いたいとは思っていた。が、いまではない。断じて今このタイミングで会いたかったわけではないのだ。
急に引き合わせるものだから、ぜひ感じてほしい、この空気。この、弟から発せられる明らかな敵対心と嫌悪感。もうノアのHPはゼロである。まさしく「小さな親切大きなお世話」だ。もっともこのライダーに何を言ったところですでに出会ってしまった訳で、時間は元には戻らない。少なくとも牛車を降りるまで、このギスギスとした空気は続く訳で。

ライダーが何処に向かっているのか、おおよその見当は付いている。牛車に乗せられた大きな樽、匂いからしておそらくワインが入っているのだろう。で、あれば。行く場所はただ一つ。アインツベルンの居城だ。

「ど、どうしてこんなことに…」

聖杯問答などに関わる気はなかったというのに。がっくりと膝をつく。そこはウェイバーも同意見なのだろうか、同時に大きくため息をついた。





*********





アインツベルンの城へと侵入してからのノアの怯えっぷりは、そりゃあもう酷いものだった。まずライダーの背中から離れようとしない。常にブルブルと震えている。何もしていないにもかかわらずずっと泣きそうで、これは流石のウェイバーも可哀そうになってきた。一体、何にそんなに怯えているのか。
結論からいえば、彼がおびえているものはセイバーだ。セイバーとは一度顔を合わせたことがあり、ノアがアーチャーのマスターであるという事も知っている。その事を今ばらされては、非常にまずいのである。何故って、彼は今全くの丸腰だからだ。こんなことなら明日のご飯の買い出しをアーチャーに頼むんじゃなかった。あとは帰るだけだし大丈夫とか言うんじゃなかった。もう後悔しかない。

ともかく、彼らの視界に映らないように。見切れるどころか影も形も視認されないように、ノアはライダーの大きな背中に隠れることにしたのだ。こういうとき、ライダーの察しの良さと懐の大きさに感謝してもしきれない。自身のサーヴァントであったならば、まぁ察してはくれるだろうがあとで何を言われるか分かったものではない。

しかしまぁ、当然のようにそれは徒労に終わった訳であるが。

「貴様…アーチャーの…!?」

いくらライダーの背中が大きいからといって、ずっと潜んでいるにはいささか無理があるという訳で。割とあっさりセイバーに見つかってしまったノアは、再び敵意むき出しの視線に耐える羽目になったのである。

「お…俺は、今回何もしないんで…もう勝手に…問答でも勝負でも…はじめてくれ…」

ひっそりと、ふたたびライダーの背中にその小さな体を預けながらノアはなんとかそれだけを絞り出した。
サーヴァントは皆英雄であるからして、その殺気たるや一介の人間には辛いものである。場を包む何とも言えない雰囲気をぶち壊したのは、タイミングよくか悪くか現れた彼の金ぴか。アーチャー、もといギルガメッシュであった。

彼にここまで近づくのは初めてだ。その殺気だった態度には恐怖を禁じえないが、初見の頃よりは幾許か、そのプレッシャーはマシである。一瞬だけ、その赤と目があったが、すぐに一寸の興味もないとばかりに逸らされてしまった。心から安堵したのは言うまでもあるまい。

聖杯問答は滞りなく進む。ライダーもギルガメッシュも、そしてセイバーも。王を名乗るだけあってその言い分は一本筋が通っていた。もちろん、個人個人によってその言い分に差異はあるが、それは育ってきた経歴の違いではなかろうか。セイバーの意見も、ノアにはわからなくはない。
ギルガメッシュのセクハラじみた(というか、完全にセクハラである)発言に憤慨したセイバーが杯を地に叩きつけ、その見えざる剣を構えた時、不意にノアに違和感が襲った。

「…えっ」

違和感というにも違う。これは、何だろうか。背中が熱い。体中の力が抜けて、その場に倒れた。何とか視線を上に上げると、ライダーの白いTシャツにはべっとりと赤が付いていた。

なんだこれ。

声は出ない。ただ自分の荒い呼吸だけが耳につく。

「……ノア?」

ウェイバーの、茫然とした声が聞こえた。

いたい。

自覚した瞬間、全身を駆け巡るような痛みが襲ってきた。何かが、背中にささっている。痛い、苦しい。ノアは酸欠の金魚のようにあえいだ。ともかく、この背中のものを排除しなければ。震える手で背中に手を伸ばし、その手を誰かに取られた。ライダーだ。

「やめておけ。血が噴き出すぞ」

彼は、怒っていた。いつの間に武装したのやら、あのむやみにはためく赤いマントが風にひらひらと舞っている。

ああ、そうだ。これはアサシンだ。「百の貌」のハサン・サッバーハ。多重人格の、その人格一つ一つが固有の体をもった、群にして個のサーヴァント。ノアは彼らのうちの一人に攻撃されたらしい。彼らはこの周りをぐるり囲っている。攻撃されても何ら不思議ではないのだ。

「はっ…」

痛い。痛い痛い痛い痛い痛い。息をするにも、体中がずきずきと痛む。もう呼吸を止めてしまいたい。そうすれば、少しは楽になるのだろうか。いや、でもそれは、呼吸を止めるという事は、この状況下においては死ぬということだ。

それは、いやだ。

「…たく、な…」

しにたくない。

死にたくなんて、ない。

生きぬかなければならないのだ。生きぬいて、聖杯戦争も終えて、それで、自分の研究を満足いくまでして、安らかに笑って死にたい。

「ノア!」

ウェイバーの声がする。どうやら心配されているようだ。長年なってもいない兄だというのに、彼はどうにも優し過ぎていけない。魔術師であるならば、もっと情を捨てなくては。立派な魔術師等にはなれないだろう。

「しっかりしろ!おい!!」

ああ、でも、痛くて仕方がない。

歩みを止めてはいけない。でも痛い。痛くて痛くて痛くて痛くて、死んでしまいそうだ。

一瞬、すべての音と光が途絶えた。





かちん、と、自分の中の歯車がかみ合う音がした。





意識を取り戻したのは、背中に激痛が走ったからだ。

「ぐあああああああっ」

眼前に突き付けられたのは、おそらく先ほどまで背中に深く突き刺さっていたであろう、血みどろの刃物。そして、それを手にして不敵に微笑む金の鎧をまとった英雄王。

「雑種」

ああ、彼の声はいくら死の淵にある人間であろうともよくよく体にしみ込んでくる。スキルカリスマA+。ある種宗教のようなその統率力はこんなところに現れているのだろうか。

「貴様の業、中々に深い。良いぞ、こんなところで死なれてはつまらん」

彼は宝物庫の中から小さな瓶のようなものを取り出して、それを瀕死のノアにぶちまけた。

「精々、我を興じさせよ」

刃物を無造作に投げ捨てると、彼は悪役然とした表情で嗤う。

あれだけたくさんいたアサシンは、いつの間にかいなくなっていた。いつの間にライダーの固有結界が発動したのだろうか。ノアの記憶には一切ない。惜しい事をした、あれほどの軍勢、そうお目にかかれるものではないというのに。

ライダーが伐採したアインツベルンの庭は妙に見晴らしがよく、空が綺麗だった。月に手を伸ばしたら届きそうだと、血の足りない頭でそんな事を思った。周りの音が聞こえない。月しか見えない。手を伸ばした。深い意味はなかった。

「マスター!」

黒い手がその手を掴む。白銀の髪に灰色の瞳。呼吸が随分と荒い、走ってきたのだろうか。この男が息をきらせて走ってくるシーンなんて、全くもって想像できなくてなんだか笑いそうになった。

「馬鹿者!何故私を呼ばなかった…!令呪でも使えばいいものを!大体君は…」

「エミヤ…」

小さな呟きだったが、彼の耳には届いたらしい。

「おまえ、やっぱ…正義の味方なんだな」

そこから先の記憶はない。




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