少女の冒険


胸を抉られたような痛みが襲う。

いや、実際に胸が抉れているのだ。血を流し続けるそこに手を突っ込んだら、この痛みを生み出し続けるだけの心臓が取れるのだろうか。

息が出来なくて苦しい。

熱い、苦しい、痛い。

きっと自分は、このまま死んでいくのだろう。周りの人のように黒くなるのだろう。この状況下で死を覚悟するのは、酷く容易なことだった。
でも、死にたくない。死にたくなんか無いのだ。

空に手を伸ばした。

その手が、誰かに取られるなど夢にも思わなかった。





*************




「そっちは危ないよ」

聞こえてきた声は酷く優しいものだったが、臨戦態勢にあった凛にとっては恐怖の対象でしかなく。優雅とはほど遠い大仰な叫び声を上げた。

「ちょ、だからそっちは危ないって!」

思わず走り出したが、手を掴まれて足が止まる。柔らかいが荒れている、ごつごつとした男の人の手だ。声音からして男性であることは分かっていたが、触れられることによってより恐怖が増した。ともかく、手を振り払わなければ…そう思うのも束の間、不意に暗闇の向こうから枝の様な手が伸びてきた、ような気がした。

「アーチャー!」

ぐいと手を引かれ、男の胸元に飛び込んだ。凛はか細い悲鳴を上げたが、男の方はどうやら構っているほどの余裕も無いらしい。抱え込んだ凛を強く抱きしめると、そのまま後退した。目の前にはいつの間にか、赤い服を着た男がいた。白髪に褐色の肌、良く分からないが魔力的なものを感じる服。人間でない事は一目でわかった。

「早く行け!」

「言われなくても…!!」

人間では無い男に促され、男は走って月明かりの元へ逃げ出す。月に照らされた男の顔は何処か女性めいていて、先ほどはあんなにも怖いと感じた手も酷く頼りない、細くて白いものだと気がついた。
幾許か走っただろうか。男は公園の前で立ち止まった。肩で息をしている。凛を抱えている腕が少し震えていた。

「はぁーーーーーっ…」

そして、大きなため息をひとつ。いや、深呼吸だったのかもしれない。男の息はそれほど乱れていたから。

「…危ないから、あんまり軽はずみにああいう場所に入り込むんじゃない」

「でも」

そうだ、でも、コトネがいるのだ。きっとどこかに。探し出さなければ。そう口に出そうとしたが、男の緑の瞳が思った以上に真剣なことに気づいて口をつぐんだ。危ない、というのは良く分かる。凛だって、今この冬木の地で何をやっているのか全く知らない訳ではない。目の前の男が魔術師で無かろうと、きっと幼子の一人歩きは危険だと言うだろう。

「友達が」

しかし、どうしても諦めきれないのだ。一度は閉じた口を再び開いた。

「君じゃ、むざむざ殺されに行くようなものだ」

男はどこまでも冷静にそう言った。公園に設置された自販機から購入したココアを手渡され、凛は何にも腑に落ちていないような顔で不貞腐れていた。実際、何も腑に落ちていない。

「…もう少し大人になったら、きっと君でも助けられるだろうけど」

「おとなに?」

「…そうだな、あと10年くらいしたら君はきっと立派な魔術師になる。俺なんか足元にも及ばない天才に。…でも、今は無理だ」

「…そんなの」

今助けられなければ意味がないのだ。コトネは何処かで、じっと助けを待っているに違いないのに。みすみす見捨てることなんてできない。そう口にすれば、男はなんとも言えない表情で、今度は間違いなくため息をついた。

「そもそもその前提からして間違ってる。君は魔術師の卵だから、この際はっきり言うけど。きっと君の友達はすでに死んでいる」

一瞬、思考回路が停止した。

死というものは、魔術師にとっては比較的身近なものだが、それでもまだ幼い凛には遠い存在だった。
でも、薄々感づいていた事でもある。先ほど暗闇から伸びた、あの得体の知れない腕。アレにつかまったら、きっと抵抗する事も出来ないに違いない。圧倒的な力の差でもって殺されてしまうに決まっている。…何となく分かっていたことだった。

「…死んじゃってるの?コトネ…」

「死んでなくても、いっそ死んだ方がましだという状況にある」

男は遠い目をしてそう言った。

「だから早く帰った方がいい」

「…あの、貴方は、あぶなくないの?」

「…うん、俺は、大丈夫」

「どうして?」

「………魔術師だから、かな」

随分とあいまいな答えだと思ったが、凛はそれ以上追及しなかった。ココアをちびちび飲んでいけば、ゆっくりと眠たくなってくる。気が抜けたのだろうか。

「…寝てていいよ」

「うん…」

出会ったばかりの男のそばで眠ることは到底優雅とは言い難いだろうが、それでも凛は眠気に逆らえなかった。




*********




その男があまりにも嬉しそうな顔をしていたから、

ああ、俺もこうなりたいと、ただ漠然と、この空っぽの心に刻み込んだのだ。




*********



辺りを虫が飛んでいる。

ただの虫ではない。これは間桐の刻印虫だ。間桐の術者が近くにいるということである。そしてそれが誰だか、ノアはおおよその見当がついていた。

間桐雁夜。破綻した理想を掲げて聖杯戦争に参加した余命一カ月の男。一体何時から見ていたのか知らないが、ともかく凛が心配らしい。過保護というか、ストーカーというか。まぁ、ここは危ないにもほどがあるのだ。過保護という単語はおそらく当てはまらないだろう。

「マスター」

実体化はしないままに、アーチャーが話しかけてくる。
通常であればサーヴァントが何処にいるのか、霊体化していてもサーヴァント同士は分かるものだ。しかし、彼のサーヴァントにはたとえサーヴァントが近くにいると分かっても伝える術は無い。彼のサーヴァントは理性を失った狂戦士、バーサーカーなのだから。

「どうする」

「………」

ふむ、果たしてどうするのが正しいのか全く分からない。ノアは少しばかり困っていた。ここにいればいずれ遠坂の奥方が来るのだろうか。正直会いたくはないが(この状況も説明できる気がしないし)かと言ってここに凛を放置していくことも戸惑われる。

「…いっそ」

そうか、いっそすべてを彼に押し付けるか。しかし、なんて声をかけようか。

「おい」

ふいに話しかけられて、ノアはぱっと顔を上げた。そこにはフードを目深にかぶった男が一人、立っていた。考えずとも分かる。間桐雁夜、そのひとだ。

「こんばんは」

「えっ…ああ、こんばんは」

戸惑いながらもきっちり挨拶を返す雁夜に苦笑した。先ほどまでの嫌悪感丸出しの雰囲気はどこへ行ってしまったのか。

「じゃなくて!お前、魔術師か」

「…どうだろうな」

「まさか…キャスターのマスターじゃないだろうな」

「それは無い」

ノアは断じて快楽殺人者などではない。一緒にしてもらっては困るというものだ。
もっとも、マスターであるという考察は何一つ間違っていないが。

「俺、そろそろ帰ろうと思ったんだけど…お兄さん、この子の知りあい?ストーカーしちゃ駄目だよ」

「ストーカーじゃない!」

「そう」

この人に任せれば何も心配はいらない。それがわかりきっているからこそ、ノアは凛を抱きかかえて雁夜に渡した。

「じゃ、気をつけてね」

good luck,などと流暢な英語を投げかけて(何せ今世ではイギリス人。英語など話せて当然なのである)、とっとと姿を消すことにした。

しかし、彼はすっかり忘れていたのだ。

間桐雁夜は暗殺者に見張られているという事を。
そして、凛もまた彼らに見守られているという事を。



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