「愛していた」ではなかったから
「喜助さん、私たち別れましょう」

「はい?」

「ごめんなさい。さようならっ」

「えぇ!?いやいや!はいそうですねって帰すわけないっスよ!」



愛らしいその睫毛を濡らして俯く彼女の手首を掴んで引き止める。ボクの手にすっぽりと収まる手首が震えている。



「急にどうしたんです?」

「ごめんなさいっ」

「謝られても分かんないっス。何があったんです?」

「やっぱり、私たち上手くいくはずなかったんです…!」

「さくらさん…」

「私があんな家に生まれてしまったばっかりに、喜助さんとお付き合いするのも憚られるなんて」

「そんなこと言わないでくださいよ。さくらさんがどんな身分であろうとも、必ずボクがあなたを幸せにする。そう約束したじゃないですか」



それでも尚ふるふると首を横に振るさくらさんは、ボクの大事な恋人であると同時に、上級貴族の一人娘。本来ならば、ボクなんかがこうして彼女の腕を掴むことさえも許されないこと。彼女は名家の一人娘ということもあり、花よ蝶よと育てられてきた。



「そんなの、できっこありません。どんなに愛があっても結婚は親が決めてしまうものなのです」



ポロポロと切なげに頬を伝う雫をそっと掬う。

彼女はついに見合い結婚が決まったのだ。分かってはいた。いつかこんな日が来ることは分かっていた。貴族の大事なお嬢様なのだから、政略結婚のために使われることなんて自明だった。
だけどあまりにも早すぎるとも思った。ボクたちが恋仲になってまだ1、2年しか経っていなかった。いつか別れが来るとは分かっていても、それまでは真実の愛を育んでいこうと話した矢先のことだった。



「お相手はどちらの方なんスか?」

「古くから交友のあった上級貴族のお家の長男だそうです」

「会ったことは?」

「ありません。ですが、来週には見合いの場が設けられていて、結納の準備も進んでいるのです。もう断わりたくても断れないのです」



本当は嫌だと嘆く姫を抱き締める。このまま腕の中に閉じ込めてしまえたら、ボクもさくらもきっと幸せなれるのに。



「お父様が、もう喜助さんと会うのを止めなさいと仰ったんです」

「…まあ、そうなりますよね」

「嫌だと言っても聞き入れてもらえず、お前は一人娘なのだから上級貴族に嫁がなくてはならないとお説教をされてしまいました」



貴族だから金持ちだから、さぞ裕福で幸せな暮らしを送っているのだろうと思ったら大間違い。ほとんどの貴族が好きでもない相手と結婚させられる。そこに愛情などなく、あるのは互いのお家の繁栄。家同士の結婚のために使われることを余儀なくされる運命にある。



「だから、こうして会うのも今日が最後です。今日は最後の挨拶に参りました」

「…どうしようもできないんスかね」

「お父様が決めたことですから。どうしようもありません」

「ボクが五大貴族くらいの階級だったら、あなたを奪えるだろうに」

「…そうして欲しかったです。愛ある結婚が夢でした」



腕の中の温もりがもぞもぞと動いて、ボクを見上げた。



「一瞬とも呼べるほど短い時間でしたが、本物の愛を知ることができてよかった。一時だけでも夢を叶えてくださってありがとうございました」

「さくらさん…」

「この人生で最初で最後に愛したのがあなたでよかった。本当にありがとうございました」



離れていく温もりを抱き留めることもできたのに、それができなかったのは潤む彼女の目の奥に決意が見えたから。彼女は女としてではなく、一貴族の一人娘として嫁に行く覚悟ができている。それを今更引き留める権利がボクにあったのだろうか。たかが一隊長。相手は貴族。超えられない身分の壁が、見えないだけでたしかにあったのだ。気付くのが遅すぎた。

掛け替えの無い温もりが離れていく。息が詰まる思いに、思わず涙が込み上げる。それとは裏腹に声がうまく出せない。



「喜助さん、愛しています」





少し距離を置いた彼女が今にも泣きそうな笑顔で最後の言葉を紡いだ。こんな状況にも関わらず、ボクは微笑む彼女を美しいと思った。最後だからこそ、その姿を目に焼き付けたかったのかもしれない。それを抜きにしても、やはりボクのさくらは間違いなく、ボクの世界の中で一番美しいものだった。



あのとき、無理にでも繋ぎ止めておけばよかっただろうか。嫌だとそんなことはできないと我儘を貫けばよかっただろうか。今も見つからない答えを探し続けながら、過去形ではなかった彼女の最後の言葉をボクはこの先もずっと信じて生きていく。

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