名前の家を訪ねるのは、いつもなんとなくだった。
気が向いた時にメールして、返事があったらふらりと訪ねる。そんな関係を始めてから、もう随分と経つ。
一々メールなりなんなりをしなければならないのは面倒だが仕方がない。だって阿含は、この家の鍵を持っていないのだ。連絡をせずに来て待ち惚けなど馬鹿らしすぎる。
阿含と関係を持った相手は、大概いつでも来てねなどと甘えた顔で言いながら、家の鍵を渡してくる。正直それが煩わしいと思っていた。
そもそも、阿含は同じ相手とそう何度も関係を持たない。女なんていくらでもいるのだから、長く関わって面倒を作るよりも、何度か遊んで取り替える方がずっと建設的だと思っている。そのため、今までの女から渡された鍵はその女の家に置いてくるか、酷い時は適当に捨てていた。
思えば、阿含に鍵を渡さないのも、これだけ長く関わっているのも名前が初めてだ。
そんなことを考えながら、通い慣れた道を行く。もう冬を越えたはずだが、夜になるとまだ冷える。具体的に何とは思い浮かばないが、温かいものが食いたい。
人の少ない夕暮れの道。すぐそこまで宵闇が近づいている。通りから離れ家々の間を抜けると、一人暮らしの女が住むには少しお高い、それなりにセキュリティの整ったマンションが見えた。扉を潜り慣れた手つきで一つの部屋番号を入力する。
『はーい?』
「俺だ」
『今開けるね』
笑みを含んだ声が聞こえた少しあとに、入口が開く。名前の家は4階で、わざわざエレベーターを待つのも面倒な中途半端な高さ。エレベーターを待たずに階段を上るのもいつも通り。4階右の角部屋。そこのインターフォンを鳴らして少し待つ。どうせすぐ上がってくるのだから予め鍵を開けておけば楽だろうに。そう思いつつも、そのことについて阿含が何か言ったことはない。
一々連絡を入れるのが面倒だと思いつつも、鍵を寄越せと言ったことはなかった。
「いらっしゃい」
阿含は、こうやって緩く笑う名前に迎え入れられるのが、存外気に入っていた。

阿含が名前と出会ったのは、例によって阿含のナンパによってだった。その頃まだ(そうは見えないが)高校生だった阿含が、いつもの様に派手な美人か、はたまた頭の緩そうな女ではなく、十人並みよりちょっと上程度の名前に声を掛けたのは、ぶっちゃけると、真面目そうな名前をからかってやろうと思ったからだった。
少し固めの服装をしていた名前が女にしては早い足取りで、随分と綺麗な姿勢を取りながら歩いている様は、阿含の目を惹いた。
こういった女は、声を掛けられれば思い切り嫌悪の目で見てくるか、困り果てておろおろとするかのどちらかだ。そう考えた阿含の読みは外れた。
名前はくっついてくる阿含を横目で眺めると、
「別に遊んでもいいけど、援交はごめんだな」
と、言い放ち、そのまま歩みを進めたのだ。その時の阿含は私服。神龍寺の道着も制服には見えないが、知っている者が見ればそれが神龍寺の制服だとわかる。しかし阿含は、私服の時に高校生だと思われたことがなかった。
 これで名前が30代くらいであるならまだしも、見たところ20代前半から半ばほど。これくらいの女は阿含を同年代だと思い込むのが常だった。
「ちなみに、いくつに見える?」
「高校生くらい?20はいってないでしょう?」
「根拠は?」
「なんとなく」
 その答えにからかいから興味へと変化した阿含は、そっちが金を貢ぐんじゃなけりゃ援交にはなんねぇだろうと言って名前を捕まえるのに成功した。

 関係を持ってみても、名前は他の女とはどこかずれていた。関係を持ったからと言って不躾に踏み込んでは来ず、しかし突き放してもこない。阿含が他の女と遊んでも何も言わないが、かと言って自分も阿含以外と遊んでいるというわけではないようだった。
 名前の傍は妙に居心地がよく、阿含はふらりとこの女の元へやってきては、イイコトに及ぶこともあれば、何をするでもなくただダラダラと話しをして時間を使うことも多くなっていった。
 そういった日はそのまま名前の元に泊まっていく。そんなことを繰り返せば次第に名前の家に阿含用の物も増えてきて。一つ所に長く留まったことのない阿含にとって、自分の存在が他者の家に染み込んでいく様は何だか他人事の様に感じられ、同時に面白くもあった。そんなことを名前に言えば、
「これだけうちに馴染んでおいて、今さら言うの?」
と、笑われた。馬鹿にするのではなく、ただ可笑しそうなそれは不愉快ではなかった。
「まぁ、いいんじゃないの?これだけ入り浸ってるのにまったく形跡残らないとか怖いから」
「あ゛−?そういうもんか?」
「そういうもんだよ。いいじゃん、気が向いたときに遊びにくれば」
「遊びねぇ。タノシイコトに付き合ってくれんだろ?」
「まぁね。他にも話し相手になってあげるのと、ご飯を食べさせてあげよう」
「ククク、そりゃどーも」
「というわけで、ご飯食べてく?」
「食う」
 名前の家に来たときは泊まる泊まらないに関わらず、飯を食うのがパターンとなるのに、そう時間は掛からなかった。
 名前の作る飯はプロ並みという訳ではないが、阿含の口に合った。有り合わせであってもそれなりの味に仕上げられるそれは、家庭の味というだろうか。母親の味付けがいつも薄味だったという名前のそれは、きっちりと受け継いで薄味だった。
ジャンクフードに慣れた阿含には当初物足りなく感じられたそれ。何時しか逆にこの味が基本となって、外食するとその濃さに閉口するようになってしまった。
 お前の味に慣れちまったんだから責任取れと、入り浸る回数を増やした阿含は普通に考えれば迷惑であろうに。食べっぷりが見てて面白いと迎え入れる名前は、阿含から見ればやはり変な女だった。

 世間一般の言う友人と括るには不健全で、恋人というにはあっさりしている曖昧な関係。名付けるにも妥当なものがないこれが始まって、何年経ったか。
今日もまた、なんとなく名前の顔が見たいと思い訪ねてきた阿含は、実を言うと名前が自分の中のどの位置にあるのか把握しかねていた。
いつもの様に勝手知ったる人の家と、だらりと座り込んで寛いだ阿含は、そろそろ何らかの変化を起こした方がいいのかもしれないと考えるのだが、さてどう変えたいのかとなるとそこで止まる。阿含にとって今の関係は居心地がよく、無理に変えたいとも思わないのだ。取り敢えず他の遊び相手の女とは違う位置にあることだけは確かなのだから、今まで培ってきたそれが役に立つはずもない。
まぁなるようになるだろうと思考を放棄した阿含は、料理を終えた名前に呼ばれて腰を上げた。

「肉じゃがか?」
「そー。私の得意料理」
「珍しいじゃねえか得意料理って宣言するの」
「ふっふっふー。これだけはお母さんに仕込まれたからねー」
 そういって名前は愉快そうに含み笑いをした。
「なんだそりゃ」
「得意料理は肉じゃがですっ!っていうのに男は弱いわよ〜ってさ」
「そんなもんか?」
「男のきみに聞かれても答えかねるよ」
「つーか甘えなこれ」
「私の作る煮物系は甘いのだよ。ていうかつまみ食いしないで運んでって」
「はいはい」
 こうやって俺を顎で使える女なんて、こいつぐらいだろうな。そんなことを考えながらも阿含は素直に従って食器を運んだ。正直かなり空腹だったのだ。
 全ての料理を運んで、名前が食卓に着くのを待ってから食べ始める。別に待てと言われてるわけではないがなんとなくだ。
「そういや」
「うん?」
「さっきの男は肉じゃがに弱いってやつ。誰か食わせたことあんのか?」
「ああ。いいや、ないよ。そもそも手料理なんてきみ以外に振舞ったことないし」
「……へぇ?」
 何だか、面白いことを聞いた気がする。そうか、俺以外にこれを食べた奴はいないのか。
件の肉じゃがを口に運ぶ。普通のものよりも大分甘い気がするそれは、美味いと思う。
「おかわりいる?」
「おう」
「ヘイ、お茶碗パース」
「おら、受け取れ」
「ばっか本当に投げようとしないでよ!?」
「冗談に決まってんだろバーカ」
こんな下らない、掛け合い染みたやり取りなんて他のやつとはしない。これが他の男に取られると思うと少し、いやかなり面白くない。
「はい。どうしたの急に不機嫌になって」
「あ゛−、なんでもねえよ」
「そう?」
面白くない。なら他のやつに取られない様にすればいい。だったら、やることは一つだ。
「なぁ」
「相手いないんだったら俺が貰ってやろうか?」
 勝算しかなかったから出た台詞だった。名前はどうでもいい相手を家に上げ、料理を振る舞い、あまつさえ関係を持つような女ではない。そうなれば阿含の言葉に首を横に振るとは考えられなかった。
 しかし、初めて会ったときから阿含の予想を外した所を突く名前は、にっこり笑うと、
「い・や」
と、きっぱり言った。
 流石に阿含もこの返答は予想していなかった。
「あ゛−!?なんでだよ!?」
「だって別に付き合ってないし?」
「殆ど付き合ってるようなもんじゃねえか!」
「殆ど、でしょ。まだ付き合ってないじゃん」
「じゃあ付き合え!」
「い・や」
「おい!!」
 おかしい。この流れはなんなんだ。今までの関係から考えれば、あっさりとじゃあ付き合おうか、と乗ってくるものと思っていたのに。まさか全力で拒否されるなんていくら天才金剛阿含でも想定できるか。正直に言うと、このとき阿含は柄にもなく本気で焦っていた。
 と、ここで名前がくすくすと笑っていることに気付いた。それは馬鹿にしたそれではなくて。ああ、こいつ冗談だと思ってやがる。そう気付いた阿含は俄かに普段の落ち着きを取り戻し、だったら条件を聞き出して外堀を埋めてやる。と、居直った。
「じゃあ俺の何が不満なのか言ってみろよ?」
「んー、別にこれと言った不満はないけど、きみ学生でしょ?ただ付き合うならまだしも結婚はねえ」
「他には?」
「あとは、女癖悪すぎ。遊び相手だったらいいんだけど、付き合うとなると論外。他を綺麗にしてから出直してきて」
「そりゃハードル高えな」
「でしょ?」
 そう笑った名前は食べ終わった食器の前で手を合わせ、ごちそうさまでしたと言って席を立った。
「おー、お粗末様」
「作ったのはきみじゃないでしょうが。お風呂洗ってくるから下げといてねー」
「分かった分かった。名前、」
「ん?」
 浴室へ向かうため背を向けていた名前は、阿含に呼び止められて振り返った。そんな名前に阿含は、ニヤリと悪人面で笑うと、
「楽しみにしてろよ?」
と、告げる。
 そんな阿含に驚いた顔をしていた名前だが、同じ様に笑い返すと、
「うん。楽しみにしてる」
そう告げて浴室へ入って行った。

 やっぱ食えねえ女。そう笑った阿含は、さて、手始めに誰から切って行こうかと算段を立て始め、一方その頃の名前はというと、閉めた浴室の扉に凭れ、なんなのいきなり……と、赤く染まった顔を抑えていた。





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