唇までのキョリ | ナノ

唇までのキョリ



「ここにもいらっしゃらない――」

 猫のように気まぐれな彼の人の行く先を、まだ幼さの残る少年が額に焦慮の汗を滲ませながら訪ね歩いていた。だがしかし、少年と言うのは仮の姿で、その実は少女である。
 彼女の名は雪村千鶴――悪名高い壬生の狼に囚われた、不運な娘。

「沖田さん…いったい何処に行かれたのかな」

 事の起こりは数刻前。
 泣く子も黙る新選組の、さらにその中でも鬼と畏怖される副長、土方の小姓を任ぜられた千鶴は、ある重大な任務を仰せつかっていた。それは一番組の組長を誰にも気取られぬよう極秘のうちに連れてくる事。
 一番組組長、沖田総司は剣戟師範も務める手練れの剣豪で、近藤局長からの信頼も厚い。人目を憚るような土方の様子から、よほど重要な案件が待っているのだろうと千鶴は思っていた。そう言えば、心なしかいつもより土方の眉間の皺も深かったような気がする。

「早くお連れしないと。…って………あの声……」

 遠くの方から聞き慣れた笑い声がする。屯所中はくまなく探し回った。そして声は壬生寺の境内から聞こえたように思える。八木邸から一人で、しかも許可なく足を踏み出す事に一瞬躊躇した千鶴だったが、許可を得に戻っている間にまた沖田は違う場所に行ってしまうかもしれない。叱責を受ける事への不安と任務完遂の可能性を天秤にかけた千鶴は、少し悩んだあと後者を選択した。
 

 思った通り、壬生寺へ来てみると、広い境内で沖田が近所の子供達と楽しそうに遊んでいた。
 以前にもこんな光景を千鶴は目にした事がある、結果やりすぎて泣かせてしまったが、その時は随分と沖田に対する印象が変わったものだ。
 いつも飄々としていて何を考えているのか解りづらい。唇は三日月のように弧を描き笑んでいても瞳は鋭いまま笑っていなかったりもする。事あれば斬るだの殺すだの物騒な言葉を口にする、そんな沖田に年若い乙女が苦手意識を持つなと言う方が無理だろう。
 けれどしばらく屯所で沖田に接するうちに、きつい言葉の裏に隠された優しさのようなものを、千鶴はその素直な心根で感じ取れるようになっていた。本人は至って真面目なのに『君って変な子だね』と困ったような笑顔で頭を撫でられる度、妙に胸が騒いだりもする。
 ――かと言って、出逢った頃と比べ距離が近づいたかと言えばまったくもってそんな事はない。近付いた分だけ遠くなる。刻を重ね理解したと思った事が、さらに刻を重ねてもっと解らなくなる。
 気になって…意識などしていないのに何故か目で追ってしまう。千鶴にとって沖田総司とはそんな相手だった。

「沖田さん、こんな所にいらしたんですね」
「……誰か探しに来るかなとは思ってたんだけど、まさか君だなんてね」

 少し驚いたよと、全く驚いてなどいない様子で沖田がくすくすと笑った。

「…っ!!笑ってる場合じゃないですよ。早くひじ…」
「総司ーーのんびり話なんかせんと。鬼なんやから、はよ探しに来なあかんて」
「そうそう。もう待ちくたびれたー」

 隠れ鬼の途中だったのか、鬼の襲来をわくわくしながら待っていた子供が一人、二人と木の幹や物陰から顔を覗かせ、呑気に立ち話をしている沖田と千鶴に不満そうな顔を向けた。

「ごめんね、沖田さんは急用ができてしまって」

 申し訳なさげに口を開いた千鶴を「いいんだ」と、沖田が軽く制する。

「でっでも!」
「僕がいいって言ってるんだから。…それとも何?たかが小姓の君が組長に歯向かおうっていうの?」
「そっ…そういうわけではありませんが」
「『男』らしく力づくで言う事を聞かせたいなら、勝負してあげてもいいよ」

 と、沖田が刀の柄に手を掛ける。冗談に決まっている――だなんて思えないのが沖田総司の怖ろしいところだ。

「う…」

 妙に『男』を強調されたけれど自分は『女』である。地力も、剣の腕だって雲泥の差以上。それはきっと沖田も解りきっているだろう。つまりこれは、面白半分ではあるが覚悟を試されているのだ。自分を信頼して与えられた任務を『脅されて怖かったから』という理由で放棄しても良いのだろうかと千鶴は自分に問い掛けた。
(逃げちゃ…だめだ)
 結果が見えている勝負でも、せめて窮鼠の抵抗でも示さなければ土方に対して面目が立たない。
 それこそ命がけの真剣な表情を浮かべ、沖田に倣って小太刀の柄に手を伸ばした千鶴を見て、今度こそ沖田は声をあげて笑った。

「君の意地と忠誠は認めてあげても良いけど…これじゃ僕が弱いもの苛めをしているようにしか見えないね。だいたいさ、そんなにがちがちに固まってたら斬れるものも斬れないんじゃないかな」
「――っ」
「解ったらさっさとそんな似合わないものから手を離しなさい」

 途方もない勝負を吹っ掛けたのは自分のくせに、これではまるでこちらが言い出しっぺのようで思いきり釈然としない。笑いすぎて目の端に滲んだ涙を拭いながら、もう少ししたら帰るからと軽くいなされて、しぶしぶ千鶴は言いつけに従った。

「では…沖田さんが一緒に来て下さるまで、私もお傍を離れません」
「こんな事でむきになっちゃって。ほんと…君って変わってるね、千鶴ちゃん」
「――ちづるちゃん?」

 沖田の言葉に子供達の中の紅一点、ひときわ可愛らしい小さな女の子が首を傾げる。そして見分するようにくるっと千鶴の周りを一周して回った。

「ねぇ…ちづるちゃんは女の子なん?」
「ち…っ違うよ」
「でも着物も桃色やし、髪紐かて紅いよ?桃色と紅色は女の子の色と違うん」
「ぷっ…確かにそうだね」
「お…沖田さんまで何をおっしゃってるんですか!」

 いくら子供相手だと言っても、どこから正体がばれるか知れたものではない。必死に否定しようと焦る千鶴をしりめに、子供達は集まって何やら相談事を始めた。



「隠れ鬼は止めて次はおままごとー!」

 やんちゃな男の子達はさほど乗り気ではないようだが、皆この小さなお姫さまを可愛がっているのだろう。大人ぶって「しゃあないな」などと口々に言いながら、ままごとの準備に取り掛かり出した。まずは配役決めからのようだ。

「わたし赤ちゃん!」
「ほな俺達が兄ちゃんで、総司はお父さんな」

 いいよと簡単に頷いた沖田に千鶴が目を白黒させる。性別の話がうやむやになったのは有難いが、これから重要な任務が待っているというのに、ままごとなんてしている場合ではないだろう。どうにかして沖田に解ってもらおうと思案を始めた千鶴だったが『お母さんはちづるちゃんがいい!!』の一言でそれはあっけなく霧散した。

「おおおお母さん?!」

 お母さんという事はお父さんの奥さんという事で――それはつまり……

「よろしくね、僕の…お嫁さん」

 突然の宣告にわたわたとしている千鶴の思考を読んだのか、取ってつけたような甘い声音で沖田が更に煽ってくる。初恋もまだ未経験の千鶴は耳元で囁かれた【お嫁さん】の言葉に可哀想なぐらい真っ赤になった。

「でもどうしてこの子がお母さんなの?」
「せやかてちづるちゃん、めっちゃ可愛いもん。総司お兄ちゃんもそう思うやろ」

 総司の脚にぎゅっとしがみつきながら、純粋な二つの瞳がきらきらと――いまや夫婦になった千鶴と沖田を真っ直ぐに見つめている。小さな身体をそっと抱き上げると、沖田は「そうだね」と、幼子の言葉を優しく肯定した。



 起きて、朝餉の準備をして、泥団子や雑草で作った食事を「美味しいね」とみなで囲んで食べる。それは、こんな小さな子供達でも知っているような、どこにでもある他愛ない家族の光景なのだろう。
――千鶴と沖田にとって、そうではなくても。

「じゃあ僕はそろそろ仕事に出かけるかな」
「そうですね。どうぞお気を付けて行ってらっしゃいませ」

 よいしょと立ち上がった沖田に向かい、千鶴が楚々とした様子で居住まいを正す。丁寧に三つ指をついて完璧な見送りをしたはずの千鶴に、子供達がてんでにだめ出しを始めた。

「なんやそれ?うちのお母ちゃんはいつもお父ちゃんに抱き付いて口づけしてるで」
「うちも!」
「私んちも!」

 そう言えばご近所のご夫婦は仲が良いらしく、みな揃って子沢山である。「くーちづけ!くーちづけ!!」とぐるぐる回りながら囃し立てられ、困り切ったお嫁さんは助けを求めるように旦那様を見上げた。
(そうか…この子も――)
 沖田には父母の記憶が無かった。まさかどの家庭もこの子供達の家のようだとは思ってはいないが、所詮絵空事で得た知識しか持ち合わせていない。早くに亡くなってしまった父と母はどんな夫婦だったのだろうと想像してみた事もあるが、今となってはどうでもいい話だ。
 千鶴も、父親はあの雪村網道だ。子に対して愛情をあらわにするような性質には見えない。そんな父に男手ひとつで育てられた彼女もきっと自分と大差ないに違いないと思われた。
 
「わかったよ。すればいいんでしょ」

 こともなげにそう言い放たれて一瞬きょとんとした後、千鶴の頬はまた真っ赤に染まった。

「なっ!!じ…冗談ですよね沖田さん…」
「あれ?口づけって…冗談でしていいものだったっけ?」

 悪戯っぽくそう言うと、沖田は正座したまま地蔵のように固まっていた千鶴の手を取り、目線を合わせるように立ち上がらせた。 

「なるべく早く帰ってくるから…いい子で待っててね。誘われても浮気なんかしちゃだめだよ」

 聞いた事もないような甘い声。怖がらせないよう怯えさせないよう、ゆっくりと近付いてくる春の若葉色の瞳。
 とてもではないが直視などできなくて千鶴がぎゅっと瞳を閉じる。けれど視界を閉ざした事で、日向のような沖田の匂いや額にかかる微かな吐息を、より敏感に感じてしまう。
(もう…だめ)
 きっと沖田の唇は間近に迫っている。
 繋いだままの左手をそっと引き寄せられ、右肩に動かないでというように大きな手のひらが添えられる。子供達の騒ぐ声も屯所から聞こえてくる稽古の声も遠ざかって、ただ風が木の葉と遊ぶ音だけが鼓膜を揺らす。
 ふっ、と、何かが唇を掠めた気がして閉じた瞼に力を籠めると、鼻の頭にちゅ…と柔らかな沖田の唇が押し当てられた。

「――!!!」
「あっはは!鳩が豆鉄砲喰らったような顔ってきっとこんな顔だよね。まさか本当に口づけるわけないでしょ。それともして欲しかった?」
「し…したいわけないじゃないですかっ!」
「したいわけないじゃないって…また回りくどい言い方するんだね。っていうかそんなに嫌なら僕を突き飛ばして逃げれば良かったじゃない」

 言われてみれば確かにそうだ。けれど、あの瞬間は何かに憑かれたように身体が動かなかった。

「お…沖田さんの意地悪…っ」
「悪いけど、君にすごまれてもちっとも怖くなんてないよ。どっちかっていうともっと…」

 そう、もっと苛めて追い込んで泣かせて――その後ほんの少しだけ優しくして…そんな事で機嫌を直す馬鹿みたいに単純な笑顔を見ていたい。

 
 壬生寺に夕暮れを知らせる鐘の音が鳴り響く。
 それを聞いて、今まできゃっきゃとはしゃいでいた年長の男の子が「そろそろ帰らんとあかんな」と呟いた。


「総司に千鶴、また遊んでなー」
「うん。またね」

 無邪気な笑顔で手を振りながら、それぞれの家へ駆けていく子供達を沖田は意外なほど優しげな瞳で見送っていた。

「沖田さんは子供がお好きなんですか?」
「うーん…どうかな。嫌いってわけじゃないけど…」

 そこまで口にすると、続きを千鶴に話していいか迷う様なそぶりを沖田は見せた。

「あ…いいんです。何となく聞いてみたかっただけなので」
「違うよ。別に聞かれてまずいような事じゃないんだ。ただ…ね、子供達はああして笑ってなきゃいけないと思って」
 
 その言葉を、千鶴は心の中でもう一度繰り返した。沖田がどんな子供時代を過ごしてきたか知らないけれど、何か…辛い思い出でもあるのかもしれない。

「沖田さんは…きっといいお父様になると思います」
「何それ?そんな事初めて言われたんだけど」
「な…なんとなくです」
「………君ってやっぱり変な子だね。それよりさ、こんなところでのんびりしてていいのかな?確か、急ぎの用で僕を探しに来たんじゃなかったっけ」
「あっ!!そっそうです!!!早く行かないと、沖田さんにはきっと重要なお仕事が待って…」
「そうだね、あの人にしてみればとっても重要かもしれない。今頃気が気じゃなくて仕事に障りが出てるかも」

 真っ青になった千鶴を見てわざとらしく声の調子を落とすと、沖田は深刻ぶった表情で夕焼け空を見上げた。

「空なんて見てる場合じゃないです!!解ってらっしゃるなら…」
「千鶴ちゃんは僕が土方さんの所へ行くまで傍に居てくれるんだったよね。一緒に怒られててくれたら豊玉宗匠のとっておきの俳句を教えてあげるよ?お気に入りは沢山あるんだけど…千鶴ちゃんはどんなのが好きかな」
「…へ?」
「だから、急ぎの用があるのは僕じゃなくてこれなんだってば」

 まだ蒼白な顔をしたままの千鶴の目の前で【豊玉発句帳】と書かれた帳面がひらひらと揺れる。

「新選組に関わるような要件をさ、他に誰もいないならともかく、屯所に幹部もいるのに君に頼むとかって有り得ないでしょ」
「っ…じゃあ沖田さんは最初から解って…」

 千鶴の絞り出すような台詞を肯定するように、沖田がくすくすと笑う。

「沖田さんはやっぱり沖田さんですね!…せっかく少し――」
「少し…何?」

(少しだけ見直した…なんて言えない)
 そんな事を口にしようものなら、また生意気だなんだと理不尽な仕置きが降りかかるだろう。

「…組長の尋問に黙秘で答えるなんていい度胸だね」

 押し黙ったままの千鶴に黒い笑みを向けどうしてやろうかと考えた沖田だったが、ふと何かに思い当たったのか楽しそうに相好を崩した。

「そう言えばさっきの千鶴ちゃん…」
「さっきって――っ!!ぁああ」

 にやりと細められた瞳の前にはきっとあのままごとの光景が視えているに違いない。無駄だと解っていてもそれを掻き消さずにはいられなくて、咄嗟に踏み出した千鶴は派手に躓き沖田の胸に飛び込んでしまった。

「きゃっ!」
「危ないなぁ…。低い鼻がもっと低くなっちゃうよ」
「すっすみません…」
「それともやっぱり…ここにして欲しかった?」

 指先で唇をつうっと撫でられて、もうそれだけで耐えられなくなった千鶴が声にならない叫び声を上げる。そして今度こそ全力で沖田の腕を払いのけると、真っ赤な顔のまま屯所の方へ逃げ出してしまった。

「あんな事ぐらいで赤くなるなんて。今度はもっと大人のままごとを教えてあげなくちゃいけないかな」

 いちいち反応が初心すぎて…これだから千鶴で遊ぶのは止められない。



 子供だと思っていた少女が大人になって。
 数年後、誰もが羨む万年恋人夫婦になろうとは――この時の二人には知る由もなかった。


(了)


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