片翼の鳥 双眸 第四話
何事もなければいいけれど――
そう願いながら二人の背中を見送った後、千鶴は来賓の為に用意されたゴブラン織りの椅子へちょこんと腰を下ろした。
席に着くと見計らったかのように濃いルビー色の液体を湛えたグラスがすっと差し出される。中に入っているのはワインだろうか?酒など飲んだ事のない千鶴が慌てて断ろうとすると経験豊富そうな年配の給仕は周囲に聞こえないよう気を配りながら、小声で千鶴にそっと耳打ちをした。
「これは葡萄のジュースでございます。一見ワインに見えますので、こちらを手にされていれば無理に飲酒を勧められる事もないだろうと沖田様が…」
「沖田さんが?」
「はい。他にも何かございましたら遠慮なくお申し付けください」
安心させるような笑みを浮かべ一礼する給仕に、千鶴は複雑な気持ちで感謝の意を伝えた。
いつでも沖田が見守ってくれている――それは千鶴にとって嬉しくもあり、同時に申し訳なくもある。いつまでもこんなふうに気を遣わせていてはいけないと、思う。
沖田が軍へ出勤している間千鶴だとてただ遊んでいる訳ではない、少しでも沖田に釣り合えるような女性になりたくて井上から様々な事を教えてもらっていた。こういった社交場での振る舞い方もその一つだ。
『井上さん、私…夜会は初めてなんですが、いったいどんな事をお話すればいいんでしょうか?全く想像がつかなくて…』
『そうだねぇ、これは一般論だが、女性に対してはドレスや装飾品などを褒め合う事が挨拶代わり…といった事が多いんじゃないかな。相手が男性の場合だと通常は先方から会話をリードしてくるだろうから、それに合わせていればいい。まぁ…心配しなくてもそっちは大丈夫だと思うがね』
『どうしてですか?』
そう不思議そうに問い掛けた千鶴に井上は言ったのだ、楽しそうに。
千鶴が他の男性客と会話する機会なんてあの総司が与えるはずがない――と。
けれど今。沖田から離れ一人になった千鶴の事を、皆意識しつつ遠巻きにひそひそと噂するばかり。勇気を出して誰かと会話しようにも、下手に話し掛けて氷の大佐の不興を買いたくはないのか、千鶴の周囲には目に見えない壁ができているようだった。
「私…やっぱり何処か変なのかな……」
居心地の悪さに耐えながらぽつんと小さく呟くと「そんな事は無いですよ」と思いがけない、にこやかな答えが返ってきた。
「…隣、宜しいですか?」
そう断りをいれ腰を下ろした相手の顔を見て千鶴は内心驚いた。今までそんな人は…一人しか知らない――
「私の顔に何か付いてますか?綺麗なお嬢さん」
「いっいえ、そんな事は!」
「隠さなくても良いんですよ。この赤い目、この国ではこんな瞳の色をした人間はいらっしゃらないそうですね、……しかもかなり『縁起』が悪いとか」
嘆くような、けれど気を遣わせないようわざとおどけているようにもとれる口調。男性の容姿はとても整っていて物腰も柔らかく仕草も洗練されている、きっと女性達がほってはおかないだろう――その瞳が血のような緋色でなければ。
(沖田さんの片眼。とても珍しい色だとは思っていたけれど…この国には…いない?)
「あの…っ、貴方は?」
「ああ、申し遅れました――」
男性は西国の使節としてこの国へやってきたのだと言う。なんでも近々国交を開く為主家の皇子が来日するそうで、その下見と調査が仕事らしい。
「さっきからずっとここを見てらっしゃいますね、恐ろしくはないのですか?」
千鶴が赤い瞳から視線を逸らせずにいるのが面白かったのか、笑いながら男性が自分のこめかみ辺りをちょんちょんと指差す。どうやら日本の古い迷信で赤い瞳は『鬼』の象徴として扱われ、見た者に厄災をもたらすと伝承されているらしかった。
「不躾な事をしてしまってすみません。私…何も知らなくて、その瞳の色がこの国に無い事も、言い伝えの事も…」
「そうですか。こちらの国では有名な話だと伺っていたんですが、……この色は我が国の民が持つ独自の遺伝子のせいなのです、まぁ国民全てが同じ瞳の色ではないですけどね。今まで鎖国状態でこちらとは行き来がほとんど無かったので、奇異に思われるのは仕方ないのでしょう」
そのせいで男性も自分と同じように手持ち無沙汰だったのだろう。心なしか男性を見る周囲の目に畏れのようなものが垣間見える。
大切な人に関わる事すら知らない…そんな自分が情けなくて俯くと、男性が沈み掛けた空気を払拭する悪戯めいた表情を浮かべ、内緒話のように千鶴の耳元へ唇を寄せた。
「…ここだけの話、こんな事なら夜会ではなく仮面舞踏会にでも参加させてもらえば良かったって思ってるんです。それならこの目も隠せるし、お相手に不自由してそうな女性達ともっと親密になれた」
「え…っと」
冗談のような軽口にどんな言葉を返せば良いのだろう。社交場での他愛ないやり取りに困惑する千鶴が初々しかったのか、男性の瞳に浮かんだ興味の色が濃くなった。
「貴女が私の相手をしてくださるならこれ程嬉しい事はないのですが、…どうやら嫉妬深いパートナーがいらっしゃるようですね」
肩の辺りに感じる男性の視線。
千鶴は気付いていなかったが、ダンスの時沖田はただ千鶴の肩に口付けたのではなく、その白い肌にしるしを残していた。
本人からは見えない――けれど誰かがその身に必要以上に近付けば否応なしに視界に入る…絶妙な場所に咲いた紅い華。
「まぁそうしたくなるのも解らなくはない。貴女は――…本当に今までお会いした誰よりも愛らしい」
熱っぽく煌めいた紅い瞳と、少しずつくだけ始めた口調。
きっとこれもマナーの一環の世辞なのだろう。口説かれているという認識など千鶴が持てるはずもなく――そんな機微を察せるなら沖田もあれほど苦労せずに済んだのだが――千鶴は井上から教わった知識を総動員してこの場に相応しい答えを必死に探していた。
「――そんな遠回しな言い方、伝わらないんじゃないかしら」
困り果て慌てる千鶴の姿を楽しんでいた男性に、近くを通りかかった沖田の元恋人が見かねて声を掛けた。
「それに、彼女を本気で口説くおつもりなら気を付けなくてはね。ご存じだと思うけれどお相手はあの…氷の大佐よ」
「では貴女が『雪村千鶴』?」
「はっはい。…ご挨拶が遅れてしまって申し訳ありません」
「気になさらないでください、先に伺わなかったこちらも悪いのですから。それにしてもお名前しか存じ上げてなかったが――…まさかこんな可愛らしい方だとは」
千鶴を見る男性の表情と口調が僅かにニュアンスを変える。誰も気付けないようなほんの些細な変化を、この社交界の華は敏感に感じ取った。
(悪そうな顔。何か…企んでるのかしら。この子一人で無事に切り抜けられる相手だとは思えないけれど――)
気にはなっても千鶴を助けてやる義理などこれっぽっちもない。お手並み拝見――と、恭しく控える給仕の銀のトレイから女性がシャンパンのグラスを手に取った。
「そうよ、そんなに緊張せず気楽になさるといいのに。お近づきのしるしに三人で乾杯でもいかが?」
「いいですね。あ…君、私と彼女にもシャンパンを」
「――っ!大丈夫です、私はこれで」
「…赤ワイン?いくら常温で嗜むお酒だと言っても、口も付けてらっしゃらない様だし…放置されてたなら味が落ちてしまっているでしょう。せっかくなのだから新しいものを」
「いえ……あの、私……お酒なんて頂いた事がなくて…」
「…失礼」そう言って、口ごもってしまった千鶴のグラスに男性が顔を近付ける。ふんわり漂った酒とは違う甘い果汁の芳香にくすっと笑うと、男性は「同じものをご用意してきましょう」と席を立って行った。
「それも大佐が?…随分過保護なのね、貴女の想い人は。……それにしては彼の姿が見えないようだけど」
「沖田さんは少し席を外されてるんです。私…いつもご迷惑をお掛けしてばかりで。もっといろいろ覚えていかなくてはと思うんですが」
非難めいた言葉にしょんぼり肩を落とした千鶴だったが、ふいに思い切ったように顔を上げた。
「あ、……あのっ――ひとつお聞きしても良いでしょうか?」
かかってきなさいと言わんばかりに柳眉が片方だけぴくっと上がる。若い女性達が憧れる粋な外国の女優のような仕草で「何か?」と女性は千鶴へ向き直った。
「どうしたらそんなふうに…素敵な大人の女性になれるんでしょうか?」
「千鶴さん、貴女がそれを私に聞くの?……さっきの会話を理解出来なかったのかしら、私は以前沖田大佐と――」
「解ってます、お二人はとても…お似合いだと思いました。多分どんなに努力しても貴女のようになるのは難しい事も。でも…私、少しでも理想に近付きたいんです」
千鶴の言葉にさすがの女性も毒気を抜かれた。過去の、とは言え『恋敵』にこうも素直に出られた事なんて一度もない。下手に出て裏の裏で相手を小馬鹿にするような器用な芸当も、この娘に出来るとは思えなかった。
「……その理想がどう言うものなのかは知らないけれど、そのままでいればいいんじゃないかしら。大佐はきっとそんな貴女を…好きなんでしょうから」
「……?」
「回りくどい言い方は嫌いだからはっきり言うわね。最初貴女を見たときなんでこんな子に沖田総司が?って思ったの。確かに若くて綺麗で可愛らしいけれど、幼すぎてあの人の相手は無理だと思った。けれど違ったのね。まだ少ししか話してないけれど…貴女を見ていると無垢な赤ちゃんを見ているように心が和むような気がする。勿論いい意味で…よ」
今は、ね――心の中で密かにそう呟くと女性は初対面の時の自分を顧みて笑った。
「赤ちゃん…ですか?」
「そうよ、私みたいに子供の頃からこう言った場所で生きていると人の気持ちの裏側まで見えるようになるの。どこでどう純粋培養されたか分からないけれど、貴女の心はまだきっと無垢な赤子なのね。…嫌いじゃないわよ、そう言うの」
――ほら、そうこうしている内にあの人が戻って来た。
そう言われてホールの中央に目をやると、人波をかき分けながら男性がこちらへ向かってくるのが見えた。
「お待たせしました」と葡萄ジュースを手渡され、改めて三人のグラスがカチンと合わさって小気味いい音を奏でる。
あの女性が千鶴を認めたようだ――
現金なもので、それだけで辺りに人が集まり始める。時々助け舟を出してもらいながら談笑していた千鶴だったが、ふと人の顔が幾重にも重なって見え、眩暈の時のように視界が揺れ始めた。
(あれ…どう…しちゃったのかな。何だか…気持ち…悪い)
「千鶴さん?…どうしたの、顔色が」
「大丈夫…です、何でもありませ……」
――ガシャン、と音を立て千鶴の指からグラスが滑り落ちる。割れて飛び散った破片で怪我をしたのか千鶴の足首から鮮血がつぅっと伝った。
「誰か――」そう声を上げかけた女性を千鶴が真っ青な顔で制する。
「少し休めばすぐに治ります、…だから……」
(この子…彼に迷惑を掛けたくないと思って……)
「…二階に婦人用の控え部屋があるわ、長椅子もあったからしばらくそこで休みなさい」
「それなら私が。私ならこの場にいてもいなくても支障ない。こうして出会ったのも何かの縁だ、彼女が落ち着くまで傍に……」
神妙な面持ちで告げられた申し出に女性は少し戸惑った。事を大きくしない為にはこの場にいる者だけで対処するのが一番だが、この異国の男性は何処か信用ならない。けれど千鶴の様態はますます悪くなっていくように見える――
「では千鶴さんを部屋まで送り届けて下さる?部屋付きの召使いが居るはずだから後はその者に任せて頂戴。私は沖田大佐を――」
「こんなご迷惑をお掛けし…て…本当にすみませ…」
「いいからもう喋らないで。騒ぎにはしない、…すぐに貴女が安心出来る人を連れてきてあげるから…大人しく待ってなさい」
ごめんなさい――
どうして自分はいつもこうなのだろう。白い靄がかかったような意識の中で千鶴は沖田に詫びた。
心配する顔が――…見えたような気がした。