片翼の鳥 双眸 第三話
沖田の腕にそっと手を添えエスコートされながら大広間へ入ってきた千鶴は、自分に向けられた値踏みするような視線の数々に思わず身を竦めた。
式典の時も注目の的になってはいたが、その時と今では視線の質が少し違う。あの新聞記事のせいで千鶴はすっかり『沖田大佐の婚約者』とみなされており「あんな小娘がどうやって大佐を」と女性達は更に嫉妬をつのらせ、男性達は「それほどあの娘はいいのだろうか?」と興味と欲を掻き立てられていた。
幼い頃は雪村の隠れ里で、その後は薫によって。人の持つ強すぎる負の感情から隔離され守られて育った千鶴に、それらはあまりに刺激が強すぎる。心なしか腕に掛かった手にきゅっと力が籠った事に、沖田はすぐに気が付いた。
――大丈夫、僕がいるよ、そんな気持ちを込めて手を重ねる。肌から伝わる温もりに安心したのか俯いていた千鶴が顔を上げると、ちょうど音楽が楽しげなワルツに変わった。
「この曲…」
「うん…あの時君と練習した曲だね。――…お嬢さん、宜しければ一曲踊って下さいますか?」
恭しく跪き、差し出された大きな手に重なるほっそりとした指先。
艶めく片眼に見上げられ頬を染めると、教えられた通り千鶴はドレスの裾を空いた片手でそっと摘み了承の合図を返した。
「千鶴ちゃんはほんとに『何でも』覚えがいいね」
リズムにのって軽やかに踊る千鶴を見詰めながら沖田が耳元で意地悪く囁く。覚えがいいと褒められるのはとても嬉しかったけれど、強調された言葉はあきらかに艶事を指していて。――夜毎、そしてここへ来る直前の情事を思い出し千鶴の大きな瞳が恥ずかしそうに潤んだ。
「ほらね…そんな顔して上手に僕を煽るところも堪んない」
「あっ…煽ってなんか…」
照れながら否定する可愛らしい反応に沖田の口角が上がる。もう少し苛めたくなって踊りながら折れそうに細い腰をきゅっと抱き寄せると、むき出しの華奢な肩へ見せ付けるように口付けを落とした。
「っ…今の…」
「いい顔を見せてくれたご褒美」
それと、密やかな牽制。邪な感情で千鶴に見惚れている男達もきっと思い知っただろう、彼女が誰の所有物なのか。
「沖田さんの…意地悪」
涙を湛えた琥珀色の瞳に睨まれるといつだって身体の奥から欲情の波が這い上がる。笑顔と同じぐらい、いや房事に関しては泣き顔の方が嗜虐心と征服欲を煽り立てもっともっと泣かせたくなるのだから性質が悪い。
「そんな僕の事が好きな癖に。いつだって意地悪されて弄ばれるのが好きなんだよね、…千鶴ちゃんは」
「…っ…ぅう」
言い返したい、けれどどんな沖田も好きなのは事実で…嫌いなんて言えない。素直すぎて嘘の付けない千鶴が舌戦で沖田に勝てる日など万が一にも来ないのだろう。
甘い会話とダンスで身体を動かした事で、一曲終わる頃には千鶴の緊張も少しは解けたようだった。
以前教えた時よりダンスも数段上達している。「上手だったよ」と優しく髪を撫でられ嬉しそうに笑う千鶴を愛でていると、どこか聞き覚えのある女性の声が沖田の名を呼んだ。
「こんばんは、沖田大佐」
当たり前のように差し出された白い手。誰だろうと思案するような表情を浮かべた沖田は、その手の主に思い当たったのか儀礼的な笑みを貼り付け指先へ軽く唇を寄せた。
「お会いしたのは何時かの夜以来かしら。すっかりご無沙汰でしたけど、思いのほかお元気そうね」
「…君も」
目に入っているはずの千鶴を敢えて無視しながら交わされる会話。
社交界でも有名なこの女性は一時沖田の恋人だと噂され――事実身体の関係だけはあったのだが、本人もそれを心地よい称賛だと受け止め否定はしていなかった。姦しく騒ぎ立てない大人の対応が楽だったのだろう、事実無根の噂など気にも留めない沖田にとって彼女は互いの利害が一致する、欲の処理には好都合の相手だった。
「ね、良かったらこの後…」
久しぶりに――と、しなやかな猫を思わせる仕草で女性が沖田の肩に手を掛けると、高い位置に両手を掲げた事で豊かな胸の谷間がきゅっと強調された。深紅の牡丹を思わせる鮮やかなドレス、艶肌から漂うオリエンタル系の香り。その強さに密かに眉を顰めると沖田は彼女からすっと身体を離した。
「――それが貴方の答え?」
「相変わらず察しが良くて助かる。そんな所は嫌いじゃなかったよ」
「酷い人。でも私もそんな貴方を気に入っていたんだから仕方ないわね。――そちらのお嬢さんが噂の…?」
肯定するように柔らかく細められた翡翠の片眼。
(っ…そんな瞳、一度だって私には――)
沖田が千鶴に向ける愛しげな瞳を目の当たりにして女性の顔に一瞬嫉妬の色が揺らめく、けれどそれはすぐに押し込められ作り物めいた優しい表情に取って代わった。
人目を惹く華やかな美貌と誰もが羨む『女』を感じさせる身体、子供のような千鶴に本気になるなどとてもではないがプライドが許さない。あくまで優位の姿勢を保ったまま女性が千鶴に会話の矛先を向けた。
「こんな扱いにくい男性、きっとご苦労されてるんじゃなくて」
「そっ…そんな事はないです。沖田さんはいつだってとても優しくて…よくしてくださいます」
「彼をそう思えるなんて…本当に初心で可愛らしいのね」
まるで何も知らない赤子のよう、暗にそんな侮蔑を込めくすくすと笑うと「ではまた――」と女性は二人に背を向けた。
「………あの…」
「ん…?」
「やっやっぱり何でもない…です」
何か言いたげに沖田を見上げ、また諦めたように視線を逸らす。沖田にとってはただ面倒なだけのやり取りだったけれど、関係を推測した千鶴が嫉妬してくれているかもしれないと思うと少し楽しい。
(僕はどうしてこんなに君が好きなのかな)
今まで出会ったどんな女も、今の社交界の華と謳われる女にだってこんな気持ちを感じた事は一切ない。元より女性に何の情も湧かず身体以外の価値など見出せずにいたから、やはり千鶴は他の誰とも違う特別な存在なのだろう。
沖田がそんな事を考えているなど露知らず、千鶴は千鶴なりにショックを受けていた。
(ただの挨拶だって解ってる…けど)
初めて沖田の唇が他の女性に触れる場面を見てしまった。
目の前で交わされた意味深なやり取りも心を乱してはいたけれど、会話の内容が大人びていたせいかそれ程生々しい印象は感じない。
それよりも――
どうすれば良いのか分からないまま千鶴が上着の袖口をきゅ…と掴む。どうしたのかと沖田が屈んで千鶴の顔を覗き込むと何か柔らかなものが微かに唇を掠めた。
「――っ…し…消毒…です」
消え入りそうに小さな声、真っ赤になっている所を見るとやはりさっきのは勘違いなどではないのだろう。
「消毒って……」
自分以外のものが触れたところへ口付けて痕跡を消す事、それが沖田が教えた千鶴の知る消毒。
それを千鶴からしてきた事は微笑ましいけれど、そもそも何故唇なのだろう。そこまで考えてはっと思い当たった。
もしかすると彼女はさっきの礼を気にして――
沖田の口から零れた大きな溜息に、何かいけない事をしてしまったのだろうかと千鶴が顔色を変えた。
「ごっごめんなさ――」
「そんな泣きそうな顔しなくてもいいよ」
怒ってるわけじゃないんだ、そう言いながらちょんと額をつつかれる。では溜息の理由は何なのだろう?そんな心の声が聞こえたのかそのまま指で千鶴の唇をなぞると困ったように沖田が笑った。
「君はいつでも僕に意地悪って言うけど、君も充分意地悪だって気付いてた?」
「私が…ですか?」
「うん。今だって、こんな所であんな可愛い事するなんてずるい。――松平さんの夜会じゃなければすぐにでも君を…抱けたのに」
熱っぽい瞳と耳をくすぐる切なげな声。抱き締められてゆっくりと近付く翡翠の片眼と、腹部に当たるドレス越しに感じる……熱いもの。
魔法でもかけられたように身動きが取れず、魅入られ固まってしまっていた千鶴だったが、聞き覚えのある声にふっと呪縛が消え去った。
「総司!」
「――近藤さん?今夜は来られないって言ってませんでしたか」
「あ…ああ、その事だが」
いつもゆったり構えている近藤の急いた様子が気に掛かる。不安気な表情で佇む千鶴に気付いたのか、近藤がにっこりと安心させるような笑顔を浮かべた。
「千鶴君、久しぶりだな。それにますます綺麗になって…総司は本当に幸せ者だ」
幼子にするようにぽんぽんと頭を撫でてくれる大きな手、それはいつも優しくて心地いい。
「ちょっと急ぎの用が入ってな。…悪いが少しの間だけ総司を借りていっても構わないだろうか?」
「はい」
「はい…って千鶴ちゃん、君――」
「せっかくの夜会なのに申し訳ない。さ、行くぞ」
こんな近藤の姿は小さな頃から傍に居る沖田ですらあまり見た事はなかったし、何となく顔色が悪いようにも見受けられる。
近藤を気遣う気持ちと、世間知らずの自分をこの場に一人残す事への不安の板挟みになっている沖田の心情を千鶴は敏感に察した。
ならば今自分に出来る最善を――
せめて少しでも心配を掛けないよう千鶴はいつも通りのふんわりとした笑みを浮かべた。
「大丈夫です。私、ちゃんと待ってるので沖田さんは心配せずにゆっくりとお仕事をなさってください」
「――ごめん。すぐに戻るから向こうに用意された席でじっとしてて。…僕が戻るまで絶対に動いちゃだめだよ」
慌ただしくそう告げると沖田は近藤の後を追うように広間を出て行った。