片翼の鳥 第十一話
そして迎えた式典当日――
煌びやかな会場に足を踏み入れた二人を中心にして、ゆっくりと波紋を描くようにざわめきが広がった。
沖田が見立てた淡い桜色のドレスを身に纏う千鶴は清楚で可憐なのに内側から輝くような艶やかさを兼ね備えていて、花のように色とりどりな女性達の中でも一際目を惹き居並ぶ男性達の視線を集めている。
ふんわりと自然に降ろした髪型は沖田の好みで、元来の絹糸のような美しさを引き立てており、恥ずかしそうに伏せた長い睫毛が桜色の頬に影を落として、淡い色合いの紅がぷるんとした唇に艶を添えていた。
少し大人びたように見えるのは薄く施された化粧のせいか、それとも夜毎甘く愛されているからなのか。
そんな千鶴の手を取って優しげに微笑む、深い緑に金の飾緒をあしらった正装姿の沖田もまたいつもの事ながら熱い視線に囲まれていた。
「沖田さん…」
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。この間いろいろ勉強したじゃない…それとも誰もいない所でもう一度教えて欲しい?」
くすりと笑いながら耳元で囁くと「勉強」の内容を思い出して千鶴の頬が赤く染まった。
そんな親密そうな二人の様子に周囲の女性達から悲鳴があがり、嫉妬混じりの突き刺さすような視線が千鶴に集まる。
けれどそんな反応も無理はなかった。沖田大佐と言えばその麗しい容姿と危うい雰囲気に興味を惹かれ、群がる女性は数知れない。だが誰にも決して本気にはならないと有名で、言い寄る側も一夜限りでも関係を持つ事ができれば充分だと割り切らざるを得なかった。ましてこんな公の場所に同伴してもらえるなんて夢のまた夢で。そんな憧れの沖田大佐がどこの馬の骨とも知れない小娘を愛しそうに見詰めているのだから。
(女なんて煩わしいだけだと思ってたけど…)
目の前の千鶴はなんて綺麗なのだろう、ドレスに隠された身体もその心も。そしてそれを知っているのは自分だけだと思うと尚更愛しさが込み上げた。
「…知らない人と話しちゃだめだよ」
特に男とは、そう付け足されたどこをどう取っても独占欲でしかない台詞を千鶴は少し違う意味で受け取った。
「解ってます。私、黙ってたら変装した薫にも見えますよね。本人が見付かれば一番なんですけど、そうでなくてもこれ程人が居れば誰か兄を知る人が接触してくるかもしれません。そうすれば私でもきっと少しはお役に立てます」
「……うん、そう…だね」
きっぱりと言い切って、頑張りますねと凛々しい表情を浮かべる千鶴に沖田は苦笑しながら答えた。
確かに二人は双子だが今の彼女は出会った頃よりとても綺麗になっていて、とても男が女装しているようには見えない。このような社交場に初めて姿を見せた初々しい千鶴に興味を持った男はきっと多く、声を掛けてくるとすればそれは薫絡みではなく気を引くのが目的だろう。
(男の下心に気をつけてって言いたかったんだけど…。やっぱり君は面白いね)
自分の容姿がどれ程注目の的になっているか全く気付いていない、無自覚で純粋な可愛い千鶴。けれどそんな所も気に入ってるのだから仕方がない。どんな目的であれ、もし彼女を害そうとする者がいれば自分が駆除すればいいだけの話だ。
「総司!おお、その娘さんが千鶴君か」
「近藤さん、お久しぶりです!元気にされてましたか?」
快活な声の主、近藤中将を目にして沖田の表情がとても嬉しそうに綻ぶ。その無邪気な笑顔を見て千鶴の心に思わず「可愛い」の一言が浮かんだ。
(ほんとに近藤さんが大好きなんですね)
沖田が楽しそうだと千鶴も楽しくなる。慌てて近藤に挨拶するためにドレスの裾を持とうとしたけれど、大きくて温かな手が両手をがしっと包む方が早かった。
「歳や源さんから話は聞いている。君は行方不明の兄上を探しているそうだな」
「はっ…はい」
「たった一人の肉親と連絡が取れないのはさぞかし辛いだろう、俺に出来る事があれば何でも言ってくれ」
「…っ…ありがとうございます」
表情と言葉の節々に気遣ってくれる優しさが滲み出ていて、聞いていた通りの温かな人なのだと実感する。沖田を始め皆が近藤を慕うのが解るような気がした。
「近藤さん…彼女驚いてますよ。とりあえず手を放してあげてください」
「おっ…おお、すまなかった。今日は珍しい催しもある、ぜひとも気晴らしをしていってくれ」
千鶴からぱっと手を放し申し訳なさそうに頭をかいてにっこりと笑うと、また後程、そう言って近藤はその場を立ち去っていった。
「素敵な方ですね。いらっしゃるだけで何だか周りが明るくなるみたい」
「うん…とてもね」
近藤の背を見送る穏やかな表情に千鶴の心も温かくなる。
(…あの人が沖田さんの太陽なんだ)
幼い沖田を闇から引き出してくれた人。きっと自分にとっての薫と同じように彼にとってなくてはならない大切な存在なのだろう。
――近藤さんが居てくださって本当に良かった。
そう胸の内で感謝しながら、千鶴は来賓や知人達と談笑する沖田を後ろからそっと見つめた。
(大変そう…)
けれどこれも大切な仕事なのだろう。
そう考えて、邪魔にならないよう少し人の輪から距離を取った千鶴の周りにぷんときつい香水の匂いが漂った。
香りの主は着飾ったきらびやかな女達で、気付くと小柄な千鶴はまるで沖田の視界から隠されるように取り囲まれている。何か用なのだろうかと顔を上げると、憎々しげな値踏みするかのような視線が向けられた。
「…大佐が最近飼い始めたペットって貴女?」
「大人しそうな顔をして…いったいどんな手を使ったのかしら」
「どうせただの玩具でしょ。すぐにぼろぼろにされて捨てられるに決まってるわ」
口々に嘲るような言葉を投げ掛けてくるこの人達は?
(もしかして――)
以前から棘のように心に刺さっていた沖田の恋人がこの綺麗な人達の中に居るのかもしれない。ならば、彼の為にも誤解を解いておかなければと千鶴は意を決して真っ直ぐ視線を返した。
「私は…っ」
――彼女に何か?
見えないようにしていたのに。気付かれる筈などないと思っていた女達は突然背後から聞こえた冷たい声に固まった。
「大勢で一人を吊るし上げるなんて楽しそうだね、僕にもぜひ拝聴させてくれないかな」
「私達は…ただ少し…お話を」
「話、…ね。――言っておくけど…僕は大事なものを傷付ける人間は絶対に許さない」
大の男でも怯んでしまいそうな漏れ出す殺気がじわじわと辺りを包んでいく。
さすがの強気な女達も身の危険を感じたのか、顔色を変えるとわらわらとその場を逃げ出して行った。
「……いいんですか」
「何が?」
「だって…あの中にいらしたんじゃ……」
いきなり泣きそうな顔で責めるように見上げられてわけが解らない。自分は何の謂れもなく嫉妬して絡んできた連中から千鶴を助けたのではなかっただろうか?
「いるって…?」
「………沖田さんの…恋人…です」
涙を堪えながら発せられた言葉に唖然とする。口には出せずにいたけれど、ずっと態度で身体で…大切に想う気持ちを伝えていたつもりだったのに。
「……どれだけ鈍感なんだか」
「…え?」
「僕には君が考えているような人はいない」
(心まで欲しいと願うのは――千鶴ちゃん、君だけなのに…)
口をついて出そうになるそんな言葉をぐっと堪えて、沖田は罰を与えるように千鶴をぎゅうぎゅうと抱き締めた。人目がなければ今すぐに、その白くて甘い身体の隅々にまで伝わるようこの想いを刻み付けるのに。
「…っう…沖田さん…苦し…」
「帰ったらもっと酷いお仕置きするから…覚悟しといた方がいいよ。今夜は泣いても止めてあげない」
一体今のやり取りの何が悪かったのだろう。不機嫌にそう宣告されて蒼ざめた千鶴を庇うように斎藤が現れた。
「その辺で許してやったらどうだ」
「…一君、いつから見てたのさ」
「そんな事はどうでもいいだろう、それよりゆきむ…千鶴が苦しそうにしている」
雪村の姓を出すのは拙いと判断し、斎藤が千鶴を名前で呼び直す。けれどその事が沖田の神経をさらに逆撫でした。
「千鶴って、…この子の名前を気安く呼ばないでくれるかな」
「いちいち呼び方ぐらいで目くじらを立てるとは…」
「とは……何?」
二人の間に不穏な空気が立ち上る。
「あっあの…斎藤さん、配慮してくださってありがとうございます。でも私なら大丈夫なので…」
「君は「あんたは」
黙っていろ、と口を揃えて言われてしまうともう何も言えなくなって。
助けを求めて辺りを見回した千鶴だったが二人を止めてくれそうな人は見当たらない。むしろ双璧の戦いを期待して集まる男達や、見目麗しい沖田と斎藤が揃っていると楽しげに集まる女達で大きな人垣が出来始めた。
「沖田大佐!斎藤大佐!お取り込み中まことに申し訳ないのですが」
そろそろ準備くださいと、人波を掻き分けて係りの者が必死に声を張り上げた。
「剣舞のお時間が近付いています、どうか早く控え室の方へ!」
広間に掛かる時計に目をやり軽く舌打ちすると沖田は斎藤に向かって不敵な笑みを浮かべた。
「この間から邪魔ばっかり入るけど…」
「ああ…、今日は形式だけの打ち合いの予定だが…手元が狂う事もあるかもしれんな」
「沖田さん…斎藤さん……」
心配そうな顔をする千鶴を安心させるように、斎藤がふっと優しい微笑を浮かべる。
「一君って無表情だと思ってたけど…そんな顔も出来たんだ」
沖田が千鶴に心を惹かれたように、もしかすると斎藤も彼女に絆されかけているのかもしれない。
千鶴にはきっと人の心を惹き付ける不思議な力があるのだろう。
会ってまだ少し言葉を交わしただけ……なんて事は何の言い訳にもならないと、沖田は身を持って知っていた。
「千鶴ちゃん」
拗ねたように名を呼ばれ千鶴がぱっと顔を上げる、すると待ち構えていたように唇が触れ合い「ちゅっ」と可愛らしい音が微かに響いた。
「おっ…おき…っ」
「うん、……可愛い」
こんな人前で…そう思ってぷるぷるしているのだろう。触れられて真っ赤になってもらえるのはいつだって嬉しくて、苛々していた気持ちが少しだけ晴れやかになる。
「応援してて……僕の事」
唯一この剣舞の間だけは、どうしたって傍に居てやるわけにはいかない。沖田は耳元でそう囁くと会場で最も安全だと思われる場所。帝の近くに控える近藤中将、そしてその隣に並ぶ土方准将に千鶴を託し、久々に好敵手と戦える悦びを露にしながら庭に造られた闘技場へと降りて行った。
(どうかお二人とも怪我をしませんように…)
土方の隣にちょこんと座り両手をぎゅっと組んだ千鶴は、向かい合って挨拶をする沖田と斎藤に祈るような視線を向けた。
「千鶴君、大丈夫だ。これは舞のようなもので実際に戦うわけではない」
「いや……近藤さん、あの馬鹿共…本気かもしれねえ」
「なっ!」
きいんと鋭い音を立て刃が合わさると、すっかり陽の落ちた暗い野外に蒼白い火花が舞い散る。もうそれは生ぬるい剣舞などではなく真剣勝負で、攻守入れ替わりながら負けず劣らずの戦いを繰り広げる沖田大佐と斎藤大佐にわあっと大きな歓声があがった。
沖田の天然理心流、そして斎藤の一刀流。
さすがに軍の式典だけあって剣術に興味を持つ人間は多く、白熱する双璧の勝負に誰もが魅せられている。
そしてそんな興奮の最中、会場の電気系統を預かる重要な部屋へ黒い人影がそっと侵入した事に気付く者など、一人としていなかった。
突然会場中の照明が落とされ、辺りが暗い闇に包まれる。
「近藤さん、あんたは帝を!」
軍人の責務は主君を守る事。土方が声を掛けた時、既に近藤は帝の元へ駆け付けようと動いていた。
「心得ている!歳、千鶴君の事は頼んだぞ」
「――千鶴、お前は俺の傍を離れんな!」
悲鳴や怒号が飛び交う中照明は数分で復旧した。けれどそこに居るべき少女の姿が見当たらない、――雪村千鶴は忽然と消え去っていた。
式典は一時中断となり貴賓を避難させ、今は万が一を考え会場内に怪しい人物や物が紛れ込んでいないか捜査が行われている。
沖田も異変と同時に闘技場を離れ観覧席へ戻って、そして大切なものの不在を知らされた。
「近藤さんは……無事ですか」
「…あれからずっと帝の警護にあたってる」
近藤の安否を確認して少しほっとした表情を浮かべた後、沖田は土方に鋭い視線を向けいきなり胸元を掴み上げた。
「彼女を……何処へやったんですか」
「……どう言う意味だ」
「とぼけないでください!全部土方さんの差し金ですよね」
もし薫が千鶴に接触するなら当然沖田が傍を離れた時を狙うだろう。それを見抜けない土方ではない。それなのにまんまと千鶴を連れ去られたと言う事は、恐らく故意にその行いを容易にするような手助けをしたのだ。
「近藤さんもこの謀から大義名分と一緒に遠ざける事が出来て一石二鳥ですよね。……もしかして一君に僕を煽らせたのも…」
俺の指示だと認め、土方は沖田の手を振り払った。
「事前に話してたらどうした?悪いが…あいつの事になるとお前はいつものお前じゃなくなる。南雲薫だって馬鹿じゃねえ、こんな所に大事な資料を持ってきている筈もないだろうし、既に外国の奴らに薬の精製方法が渡ってる可能性もある。妹と言う餌に喰いついてきたところを泳がせて全ての根源を叩くのが最善だろうが」
「…っ」
「心配しなくても山崎が後を追ってる。…それに千鶴の服に発信器を付けさせてもらった」
そう言って差し出された機器には小さな赤い点が点滅しており、某国の大使館付近を移動しているのが映し出されていた。
「――総司、お前…何処へ行くつもりだ」
「決まってるじゃないですか。……あの子を奪還して資料を取り戻して、全ての企てを片付けに行くんですよ――」
「お前一人で何が出来る、あれだけ妹を溺愛してる兄が一緒なんだ、滅多な事があるわけねえだろうが。今は山崎の連絡を待て!」
「山崎って土方さんの私設部隊の新入りですよね、そんな奴に任せっきりなんて出来るわけ…」
余裕のない表情を浮かべ声を荒げる、そんな沖田に座席周辺を検分していた斎藤が声を掛けた。
「此処には争った形跡がない。千鶴が望んで兄と行ったのなら…准将の言われる通り危害を加えられたりはしないだろう」
「…あの子が自分の意思で逃げた…って言いたいの?」
争った跡?非力な千鶴が抵抗出来ない理由なんていくらでも思い付く。斎藤は自分を気遣っているのだろうがそんな事はどうでも良かった。
傍に居ると約束してくれた彼女を信じたい…なのに心のどこかで信じきれなくて、また自分は捨てられたのだろうかと――そんな疑念が暗く胸の内で渦を巻く。
どこかでお兄さんと幸せに…なんて祈ってあげられない。
(千鶴ちゃん……君がいないと僕は…翼をもがれた鳥みたいだ)
「もし仮にそうだとしたら、あんたは…どうするつもりだ」
斎藤の言葉に少し考えて、沖田は暗い笑みを浮かべた。
「その時は…最初に交わした約束を守るだけだよ」
もうどこへも飛んで行けないように
――僕が君を殺してあげる