片翼の鳥 第九話
数日後、沖田は約束通り千鶴を『お出掛け』に誘った。
向かう先は美しい花が年中咲き乱れる植物園で、この季節ならではの紅葉が艶やかな庭も大層人気があるらしい。
いつも籠の中の鳥のように窓から外を眺めている千鶴に沖田は気付いていて、今日は自然の中で少しでも気晴らしをさせてやりたいと思っていた。
「準備は良い?」そんな声と同時に扉を開けた沖田の目に、真っ白な下着姿の千鶴が飛び込んでくる。シフォンが光に透け薄く身体の線を映し出し、そのシルエットはまるで絵画から抜け出してきた天使のように見えた。
「きゃぁっ!おっ…沖田さん、ノックぐらいしてください」
「ノックって…いつも一緒に…」
千鶴の裸なら毎晩見ている、それに下着がある分晒される肌の面積は少ないと言うのにいったい何がそんなに恥ずかしいのだろう。そんな沖田の心の声が聞こえたのか千鶴が身体を…主に小さな胸を隠すように縮こまった。
「……お風呂とは…違うんです」
何とかそう小さく反論すると千鶴は真っ赤な顔でさっと分厚いカーテンの中へ隠れてしまった。
微妙な乙女心を理解出来なくて首を捻った沖田だったが、今の反応は男として意識してもらえているようで少し嬉しい。
そして下着姿だった理由は辺りに散乱する服の様子から容易に察せられた。
(何を着ようか迷ってたんだ?)
きっと今日の約束を楽しみにしているのだろう。こんなささやかな外出でこれほど喜んでもらえるなら、誘った甲斐もあると言うものだ。
「隠れてないで出ておいで。そしたら僕が服を選んであげる」
くすくすと笑いながらそう促され拗ねたように小さく唸ると、頬を赤く染めたまま千鶴がおずおずと顔を出した。
そんな可愛らしい姿はどうしたってからかわずには居られなくて、笑みをかみ殺しはっとした表情を浮かべると沖田が気遣わしげに言葉を掛けた。
「…顔が赤いよ千鶴ちゃん、風邪でも引いたんじゃないかな?残念だけど…熱があるなら外へは連れて行けないね」
「だっ大丈夫です!それにこれは熱なんかではなくて…」
一瞬、心配を掛けてしまったと顔色を変えた千鶴。けれどよく見ると沖田の翡翠のような片眼は悪戯が成功したようにきらきらと輝いている。
「うぅ…沖田さん…意地悪です」
謀られたと気付いて抗議するように琥珀色の瞳が沖田を睨む。
そんな千鶴がやっぱり可愛くてひとしきり笑った後「これなんかどうかな?」と沖田が淡い黄色のワンピースを手に取った。
それは背に花をあしらったボタンが並んでいる以外取り立てて飾り気のない一見シンプルなもの。けれどよく見ると布地に細かな模様が編みこまれており、その光沢は光の加減で黄から淡い薄紫へと色を変えた。
「わあ…」
「きっと似合うよ」
そう言ってワンピースを手渡すと沖田は嬉しそうに笑う千鶴をふわっと抱き締めた。
*******
他愛ない話をしながら植物園へ馬車を走らせている途中、沖田はふと重要な案件を思い出した。一応副官に指示は出しているが任せっきりにするのはやや心もとない。
「千鶴ちゃん、少し用を片付けてきてもいいかな?」
悪いねと苦笑を浮かべながら沖田は御者に行き先の変更を告げた。
普段足に使っているのは馬か馬車。数年来使えてくれている御者は馬丁も兼ねた、馬の扱いに手馴れた気のいい年寄りだ。
「ごめんね、少しだけ待っててくれる?」
すぐ戻るから絶対ここから出ないで、千鶴にそう言い付けると沖田は陸軍本部の門前に馬車を着け念のため御者にも周りに気を配るよう申し付けた。
門前警備の兵士も居るこのような場所で滅多な事はないだろう、それでも漠然とした不安を感じて沖田は足早に執務室を目指した。
「あら、沖田大佐…何だかお疲れのようね。寝不足かしら?」
すれ違いざま、珍しく伊東陸軍参謀が声を掛けてくる。
この中性的な容貌の参謀は外見通りなかなかの曲者で、表だって近藤と敵対はしていないものの腹の底では何を考えているのか解ったものではなく、倒錯的な嗜好の持ち主と言う噂もあってどちらかというと関わり合いになりたくない相手だった。
(寝不足…ね)
確かに指摘通り最近千鶴が気になって眠りが浅い。無垢で愛らしい寝顔や触れる身体の柔らかさ、ほんのり香る甘い匂いが夜毎沖田を楽しませそして悩ませてもいたからだ。
けれど今はそんな世間話に付き合ってはいられない。馬車に残してきた千鶴の事が気掛かりで、伊東との会話を長引かせるなどごめんだった。
「いえ、気のせいじゃないですか」
急いでいるので…と、そっけなくその場を立ち去りかけた沖田だったが続く言葉に思わず足が止まった。
「ごめんなさいね、てっきり昨夜もお楽しみだったのかと思って。…雪村の女は格別だと言いますものね」
「それは……どう言う意味でしょう?」
ここでどうしてその名が出てくるのだろう?意味深な言い方に疑問がうずまく。
振り返り身構えながら低い声で問いを返すと沖田は真意を探るような冷えた視線を伊東に向けた。
「沖田大佐ともあろう者がまだ手を付けてないなんて事はありませんわよね。……それとも案外あれなのかしら?
存じ上げてましてよ、あなた『雪村千鶴』と言う娘の面倒をみてらっしゃらるんでしょ。近藤中将と芹沢大将…水面下の争いをわたくしが知らないとでも思って?」
「――っ」
やはり侮れない。
ぎりっと唇を噛んだ沖田を面白そうに見やると、口元に手をやりふふっと伊東が笑った。
「ま…可愛らしい顔。氷の大佐の貴重な表情を見せて頂いたお礼に一つ忠告して差し上げるわね。あなた方が懸命に探してらっしゃる『南雲薫』彼はどうやら外国と手を組んだようでしてよ。大使館辺りに匿われているんだとすれば、普通に捜してもまず見つからないでしょう」
「……どうしてそれを僕に」
伊東の言葉を信用してもいいものだろうか?
見返りもなしに重大な情報を提供するなど狡猾な参謀に似つかわしくない――けれど、もし今の内容が事実なら芹沢派を大きく引き離す事が出来る。
警戒心を顕にした沖田を見て伊東の口角が上がった。
「わたくし、近藤中将はあまり好きにはなれませんの。だって何もかも理想論過ぎて」
煽るように敬愛する近藤を批判され、沖田の顔色がさっと変わる。それに気付いてわざとらしく肩を竦めると伊東はそのまま言葉を続けた。
「誤解なさらないでね、近藤中将は良い方だとは思ってましてよ、ただ遣り方がわたくしとは合わないだけ。でも芹沢大将は大嫌い。……これで答えになるかしら?」
(…的は芹沢か)
要は邪魔な芹沢を失脚させたいという事なのだろう、近藤の事も実際はどう考えているか知れたものではないが、現時点での目的が同じなら今語った内容にも信憑性が出てくる。
「ご忠告感謝します、伊東参謀殿」
「どう致しまして、少しでもお役に立てたなら幸いです。…おせっかいついでにもう一つ、雪村千鶴という娘の身辺にも気をつけた方が良いのではないかしら。雪村一族の生き残りとしての価値の他に、女性特有の…と申し上げればおわかりかしらね、下種な男共の欲を掻き立てる特性があるようですから」
それではごめんあそばせ…と、含み笑いを浮かべ立ち去る伊東の後姿を沖田は呆然と見送った。
千鶴の身体に特性が?
これまで一緒に過ごして身体の隅々まで見てきたけれど、一際可憐で美しいと思う他はとりたてて他の女性と変わりはないように思えた。
それに雪村の生き残り?――自分には知らない情報があまりに多すぎる。
「土方さん!」
挨拶もなしに苛立った様子で飛び込んできた沖田に土方が苦い表情を浮かべる、いくら旧知の仲でも一応ここでは自分が上官にあたるのだから。
幸い部屋には自分一人だったが本来軍の上下関係は厳しいものであるし、大佐がこうでは下士官にしめしがつかないだろう。
「総司!何度も言うがな、俺はお前の上官で――」
「面倒なお説教なら改めてゆっくり拝聴します、それより土方さんに聞きたい事が」
「…何だ」
「千鶴ちゃんの事ですよ、彼女が雪村の生き残りってどう言う意味ですか」
「お前…それを誰に」
沖田の剣幕を目の当たりにして土方に渋い表情が浮かぶ。眉間に寄せられた深い皺から出来るなら千鶴の件は知られたくなかったとの本音が察せられた。
「教えてください!僕には…知る権利がある、彼女を預かってるのは…僕なんですから」
余裕の無い表情で沖田が土方に詰め寄る。氷の仮面など微塵も感じられないその様子に沖田が抱いている千鶴への感情が見て取れた。
「――芹沢派が極秘に行っていた実験を知っているだろう」
「ああ…なかなか死なない兵士、ないしその為の秘薬を作る、ってやつですよね。でもあんなのは一部の頭のいかれた連中の研究じゃ…」
「それが完成間近までいってたとしたら…?」
集団での戦闘において怪我人ほど厄介な存在はない。戦力にもならず、かといって切り捨てて放置するわけにもいかず、苦しむ様を見ているだけで他の兵士の戦意まで喪失させかねない。
もしどんな怪我をしてもたちまち回復する事ができたなら、それは理想の軍隊を作る事に繋がるだろう。
「東北の隠れ里に『雪村』姓を冠する一族がいる――いや、いた…だな。彼らは一見普通の人間と変わりないが一点だけ妙な体質を持っていた」
それは人並み外れた治癒能力なのだ、と土方は語った。
彼らは多少の傷なら数時間で傷口が塞がってしまうのだと言う、深い傷でも回復力は数段に早い。それはただの特異体質と言ってもいいようなものなのだが、雪深い地で暮らす人々は都会の人間より迷信深く排他的なのだろう、気味悪がられ阻害され雪村一族は人目を避けるように山中にひっそりと隠れ住んでいた。
そんな噂を聞きつけたのが芹沢派の新見だ。
彼は執念と言ってもいいしつこさで彼らの里を見つけ出すと一人、また一人と里の人間を秘密裏に攫って非人道的な実験を繰り返し、彼らの体液から新薬を精製する事に成功した。
「ちょっと待ってください、一族がいた…ってどうして過去形なんです?」
「…もう彼らの里は存在していない。研究が成功した新見はその画期的な技術を独占したくなったんだろう、実験によって雪村の人間がいなくても薬が量産出来る仕組みを新見は確立していた。用無しになった村を焼き討ちすると男は皆殺し、女は…ある利用目的で生け捕りにしようとしたそうだが結局は皆…」
「そんな…それに女を利用って…どうして」
「これ以上は現地で調査してきた俺にもわからん。新見は殺され、研究資料は盗まれて…恐らく今は南雲薫が所持している。新薬の精製方法も、雪村一族の体質についての研究日誌もな」
「そこまで知っていて…何故僕に隠してたんですか」
「……お前が雪村千鶴に執着してるからだよ。この前はああ言ったがな、俺達はただであの娘の兄探しをしてやるって訳じゃねえ。奪われた資料をどちらが手にするかで近藤さんと芹沢の均衡は一気に崩れる。あいつは南雲薫をおびき寄せるための餌で取引に使える貴重な手駒だ」
「く…っ」
土方の言わんとしている事を理解して沖田が唇を噛んだ。
余計な感情を制御出来ない人間は役立たずとでも言いたいのだろう。そして更に腹立たしい事に土方はおそらく自分を気遣ってもいたのだ、彼女に心を寄せ始めたのを悟って。
「…あの子をどうするつもりですか?僕は何を……すればいいんですか」
「雪村千鶴の件を知る人間には既に緘口令を引いている、ただ目敏い連中にも芹沢派にも南雲薫の血縁の娘が沖田大佐の元にいる事は当然ばれているだろう。お前はあの娘を守りつつ人目につく場所を連れ回せ、可愛い妹を心配して南雲薫が我慢出来ずに飛び出してくるようにな」
「近藤さんは…何て」
「話してない。こう言う汚い話は…あの人には似つかわしくねえからな」
「……ほんとお似合いですよ、土方さん…貴方には」
力が抜けたように沖田が嗤う。
近藤にこんな遣り方が似合わないように千鶴にだってこんな話は聞かせたくない、けれど当事者で在る限りいつか事実を知る日がきっと来るのだろう。
その時彼女は――
「総司…」
「わかってますよ。…僕は近藤さんの為ならなんだって出来る。ああ…さっき誰に聞いたかって言ってましたよね」
伊東の名前を出すと沖田は新たに入手した情報を土方に話して聞かせた。
南雲薫が外国と手を結んで具体的に何を画策しているかはわからない、だが新見が彼らの一族に対してした事を思えばある程度の想像はつく。
それはきっと――復讐。
千鶴の兄がどう言う人物かは判らないが、新見をだまし討ちにして殺害した事を考えると、たとえ双子の兄であってもあの純粋無垢な彼女とは似ても似つかない性格なのだろう。
目的の為に手段を選ばないその遣り方は、むしろ自分に近いと思えた。