「おっせーよ!」

掃除に遅れてきたわたしは同じクラスの丸井ブン太にほうきで威嚇された。実際に叩かれないだけましだが、ごめんと告げたわたしにいつまでもジト目を向けてくる。
昼休みに友達の恋バナを聞いていたわたしはヒートアップする友達につられて時間を忘れてしまっていた。チャイムが鳴ってからバタバタと駆け出しても掃除の時間には間に合わなかった。
わたしたちの班は今週いっぱいまで中庭の掃除当番になっている。掃いても掃いても葉っぱは落ちてくるし、抜いても抜いても雑草は生えてくる。人通りもない中庭でのこの作業に意味はあるのだろうか。ほうきに腕を乗せて寄りかかりため息をつくと、近くにいたブン太に今度は本当にほうきでお尻を叩かれた。

「あいた!」
「サボんなよ」

叩かれたお尻を擦りながらわたしはしぶしぶこの無意味な掃除を再開する。いつもはブン太の方がサボっているくせに、人がちょっとでも遅れてきたりサボっていると目敏く注意してくるんだから。むうっとした顔をしてもブン太にまた文句を言われるだけなので我慢をする。今日は確かにわたしのミスで掃除に遅れてきたので真面目にきちんと掃除に取り組むことにした。





掃除の時間が終わり、教室に戻る途中でわたしは塵取を一つだけ外に置きっぱなしにしてきたことを思い出した。「ごめん、先に行ってて!」ブン太にそう告げてわたしはもう一度中庭へ走り出した。
回りはもうすでに掃除を終えて教室へ向かう生徒達ばかりだ。その中で逆走をしているのはもちろんわたしだけ。塵取くらいそのままにしてきてもよかったのだけれど、中庭の掃除にただ一つしかないあの塵取が万が一なくなってしまったら最後に使ったわたしが怒られてしまう。それは嫌だ。
中庭までダッシュして塵取を置いてきた場所に到着するとわたしはすぐに塵取を掃除用具入れに押し込んで来た道をダッシュで戻ろうとした。そのとき。わたしは視界の隅に違和感を覚えて振り向いた。
ここ、立海の中庭の隅っこには放置された花壇があった。花壇とは言えきちんと整えられていないので、花は咲き放題でそして様々な種類の花がごちゃ混ぜになって咲いていた。わたしは中庭の掃除をしながら、その花壇を眺めるのが好きだった。特に世話をしているわけではない。もしかしたら教頭先生が手入れをしていたりするのかもしれないけれど、花壇にしては広範囲のその場所を管理するのはとても大変なことだと思う。
そして、そんな花壇の中に誰かが倒れているのだ。無作法に咲いた花と花の間から立海の制服と足が見えている。

「きゃー!」

わたしは両手を頬に当てて叫ぶと同時に花と花の間から覗いている足の持ち主に駆け寄った。ズボンの裾が見えているので男子生徒のようだ。可愛らしい小さな花たちの上で倒れて横になっているその男子生徒はわたしの叫び声を聞いても動く気配がなかった。何があったのかは分からないけれど、具合が悪いのかもしれない。そうでなければこんな花壇で倒れているわけがない。
すぐ側まで走っていくと花壇の真ん前にあった石がわたしのつま先に引っかかった。わたしは前のめりになり再び叫び声をあげた。そして一度目では起きなかった男子生徒は、二度目のわたしの叫び声で目を覚ましてしまった。ぶつかる、そう思ったときには遅かった。転んだ衝撃と、どうにかその男子生徒に危害を加えないようにと庇うようについた手と膝と、それから目をつむる最後に見た男子生徒の真ん丸に見開かれた瞳が同時にわたしの中に落とされた。

「あ、」
「あ?」

二人してわたしたちは固まっていた。わたしが倒れた拍子に舞い散った花びらたちの中でわたしと目の前の男子生徒の唇は重なっていた。そしてそれは間違いなく、わたしが石ころに躓いて彼を押し倒したことが原因であった。舞い散る花びらの最後の一枚が着地したと同時にわたしは目の前の男子生徒の上から飛び退いた。それはもう、素早く。
そんなわたしをただひたすらに真ん丸な瞳で見つめていた彼は、わたしが飛び退いてからも一言も喋らずにいた。沈黙がいつまでも二人の間で続いていても何を言うべきなのかわたしにも分からない。

「あ、」
「あ?」

さっきと全く同じ声で同じ言葉を発したわたしは、今度は目的を持って目の前の彼に声をかけた。真ん丸な瞳は今だにじっとわたしを見つめている。

「花びら、ついてる」

花壇で寝転んでいたせいなのかわたしが押し倒したせいなのか、彼の髪には綺麗な可愛らしい小さな花びらが乗っかっていた。癖の強い髪をわたしに指摘された通りぷるぷると左右に振って落とそうとするけれど、なかなか落ちない。強引に乱暴な手付きで払おうとしたので、わたしは黙ったまま彼に手を伸ばした。目の前に伸びてきたわたしの手をじっと見つめて大人しくなる彼は、絡まった花びらをゆっくりと取り除くまでピクリとも動かなかった。「取れたよ」乗っかっていた花びらを見せると、彼は花びらとわたしを交互に見てから小さな声で「ありがとうございます」と言った。
そして彼の声とチャイムの音はほぼ同時だった。キーンコーンカーンコーン。それはもちろん授業が開始されるチャイムだ。わたしはその音を聞くなりガバリと立ち上がる。まだ花壇に座ったままでいる彼は、そんなわたしの行動を見るだけで焦る様子も急ぐ様子もない。

「あの、ごめんなさい!授業始まるからわたし行くね!」

返事を聞くよりも先に駆け出した。というより逃げ出した。彼がどんな顔をしているかとても気になったけれど振り返る勇気はとてもじゃないけれど出なかった。





授業にはもちろん遅刻して先生にくどくどと怒られるし隣りの席のブン太には馬鹿にされるし、とんだ災難だ。そんなことを考えて、だけど一番の災難はさっき中庭で出会った彼の方だろうと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
恐らく彼は倒れていたのでも具合が悪かったのでもなく、ただサボって眠っていたのだ。確かにあの中庭のあの場所は人通りもなく木陰もあるので比較的サボりやすい場所だ。恐らく昼休みから午後の授業にかけてあの場所でサボろうとしていたに違いない。それをわたしがとんでもないやり方で邪魔をしてしまったのだろう。
頭を抱えたくなる出来事に授業の内容なんて入ってくるはずもなく、わたしはノートを取るふりをしてひたすらさっきの出来事ばかり考えていた。頭が真っ白になってしまったけれど、わたしは知らない男の子にキスをしてしまった。どうしよう。しかも、あんな、寝込みを襲うようなキス。痴女と呼ばれてもおかしくないようなキス。
考えれば考えるほど頭が痛くなってくる。そんなわたしをさらに悩ませる男が隣りから声をかけてくる。

「遅かったな」
「う、うん。まあね」
「お前、たかが塵取のためにどんだけ時間かかってんだよ」
「いや、だって、その、塵取のある場所がちょっと分かんなくて探してて」
「ふうーん?」

意味深げにブン太が言う。そして徐ろにケータイを取り出したかと思えば、チラリと窺うようにこちらを見る。わたしはドキリとして、そこからはもう嫌な予感しかしない。

「なあんかさあー」
「へっ?」
「さっき俺の後輩が中庭で寝てたらしんだけどさあー」
「は」
「知らん女に襲われたって言ってんだよなあー」

お前、何か知ってる?、そう問いかけるブン太の目はわたしが答えるまでもなく笑っていて、代わりにわたしは冷や汗が止まらなくなる。ブン太の後輩が中庭で寝ていた?ということは、さっきわたしが不可抗力で唇を奪ってしまったあの男の子はブン太の後輩だということだ。
うわーーーー!と心の中だけで叫ぶ。隠しようもなく引き攣る頬を見て、ブン太がおもちゃを見つけた子供のようににっこりと笑った。

「違うの!不可抗力なの!」
「んだよ、言い訳か?」
「違うんだってば!わざとじゃないの!」
「わざとじゃないけど、キスしちまったってか?」

キス、という単語をブン太の口から聞くとさっきの出来事がより生々しいものに変えられる。いやーーーー!またしても心の中で叫ぶと、今度は先生にやかましいと注意された。
わたしは自分を落ち着かせるために机に俯せになった。今ブン太と話すとすべてが裏目にしか出ない気がする。誤解が広がってしまう。ブン太とあの後輩くんが繋がっているとすれば、わたしがブン太に話す内容はそのまま後輩くんへ伝わる可能性が高い。これ以上誤解されるのも痴女扱いされるのもごめんだ。
俯せになったわたしの耳元で悪魔の囁きが聞こえる。もちろんブン太の声だ。

「俺の純粋で可愛い後輩のファーストキス奪うとはなー」
「ファ!?」

わたしの声だけが教室に響いて、わたしだけがまた先生に怒られた。楽しそうに笑うブン太は隠そうともせずに「あー楽しくなってきたー!」とテンションを上げている。わたしはと言えば、ブン太の言った言葉が延々と頭にリピートしていた。





翌日、寝起きの悪いわたしは瞼を擦りながら登校していた。周りの「おはよー」と言う声を聞きながら、半分眠りながら歩く。靴箱まで来たところで騒がしい男子生徒の群れに遭遇した。その中にわたしの隣りの席の赤髪を見つけて、その集団はどうやら男子テニス部だと理解する。こんなところでブン太に会うと、朝からお菓子をたかられて課題のノート見せろとせがまれて、非常に面倒なことになりかねない。こそこそと隠れながら靴を履き替えていると、目の前で見覚えのあるくせっ毛が立ち止まった。わたしも思わず立ち止まる。昨日、ファーストキスを奪ってしまった後輩くんだった。
それは一瞬の出来事で、その一瞬のうちにわたしはありとあらゆることを考えた。昨日のことをもう一度謝るべきなのか、それとももう忘れて関わらないようにするべきなのか。わたしが考えた一瞬の間で、後輩くんはわたしからパッと目を逸らすとバタバタと逃げるように走って行ってしまった。わたしはポツリと取り残される。
わたしの気持ちは矛盾している。もうこれ以上関わりたくないと思う気持ちは確かにあるのに、いざ後輩くんにそのような態度を取られると悲しくもなる。わたしはどうしたいのだろう。ただ後輩くんに謝ってスッキリしたいだけなのだろうか。

「おっす菜月!」
「あ、ブン太。おはよ」
「んだよ、元気ねえぞ」
「べ、別にそんなんじゃ」
「もしかして赤也に無視されたって?」
「あかや?」
「おう、俺の後輩」

こいつはエスパーなんじゃないだろうか。わたしを指さして「図星かよー!」と大笑いしているブン太は、とてもじゃないけれどいい性格とは思えない。思えないのに、こいつときたらとんでもなく女の子にモテるのだ。そこがまた憎たらしいところでもある。可愛い顔で上目遣いを作りお菓子を強請るブン太は、わたしからすればとんでもない悪い男なのだけれど、どうやら女の子は悪い男に弱いもの。分かっていてそういう男を好きになってしまうのだ。
で?で?、ブン太が心底楽しそうにわたしに近付く。続きを催促されても、この話に続きなんて存在しない。きっともうここから先はお互いに目も合わさなくなって他のたくさんの出来事で埋め尽くされて、ただ忘れていくだけだ。

「でもファーストキスだぜ?一生思い出に残るもんだろい」
「うっ。ま、まあ、そうなんだけど」
「俺もファーストキスだけは覚えてるぜ?確か、えっとー、あれ?誰だっけ?」

顎に手を添えて考え込むブン太にわたしは呆れ果てる。世の中にはいろんな男がいるものだ。このブン太みたいにファーストキスすら分からなくなるほど女の子と関わりを持っている男もいれば、後輩くんみたいにファーストキスをしてしまったせいで目も合わせられず逃げ出してしまう男もいる。
男にとっても女にとっても、やっぱり生まれて初めての体験というのは大切なものだ。後輩くんのような態度をとる男の子ならなおさらだ。わたしは今だに思い出そうとあーだこーだ言っているブン太をよそに、後輩くんにもう一度きちんと謝ろうと心に誓った。





「で、何であんたがいるの」
「いーだろい?俺がセッティングしてやったんだから」

あれからわたしは後輩くんにきちんと謝りたくてブン太に頼んで呼び出してもらうことに成功した。中庭の昨日と同じこの場所で、わたしはブン太と二人で言い合いをしながら後輩くんが来るのを待っていた。ブン太のおかげで確かに緊張は紛れているのだけれど、いざ後輩くんがこの場へ来たときは邪魔な存在でしかない。
不可抗力でも大切なファーストキスをこんな知りもしないわたしなんかが奪ってしまったことを、後輩くんが決して傷つかない言葉で謝ることが出来るだろうか。頭の中で何度も何度もシミュレーションする。ドキドキと鳴り出した心臓と一緒に、後輩くんが中庭にやって来た。

「あ、あの、えっと」
「はい」
「ご、ごめんなさい!昨日は、その、いきなり変なことしちゃって」
「変なこと」
「ち、違うの!石にね、そこにあった石に躓いて転んだ拍子にね!」
「はい」
「その、あの、ぶつかっちゃったの」

しどろもどろ告げるわたしを純粋な真ん丸の瞳が見つめている。年下の男の子を不可抗力とは言え襲ってファーストキスまでも奪ってしまうなんて、今さらながらとんでもない女だ。違うの、違うの、と同じ言葉しか繰り返せなくなったわたしは何度もシミュレーションしたはずなのに頭が真っ白になってしまった。相変わらず後輩くんは、わたしを攻めるように純粋な瞳で見つめている。困り果てているわたしに、今まで黙っていたブン太がとんでもない横槍を入れる。

「責任とれよー」
「へっ?」
「お前、責任とって赤也と付き合えば?」
「ええ!?」

ブン太の発言にわたしの声は裏返った。これだから軽い男は!わたしはブン太の発言にますます後輩くんを見れなくなる。こんなファーストキス一つで逃げ出しちゃうような初な男の子がそんな軽くお付き合いなんかするはずがない。ブン太と後輩くんがどんな先輩後輩の関係なのかは分からないけれど、これじゃ後輩くんが先輩二人に遊ばれてからかわれているようなものだ。
何だかもうすべてのことが申し訳なくなって、わたしはガバリと頭を下げた。

「本当にごめんなさい!」
「あの、先輩」

わたしの謝罪の言葉を聞くと後輩くんが初めてわたしに声をかけた。わたしはおそるおそる顔を上げる。

「本当に責任取ってくれるんすか?」
「え、」

思いもよらない後輩くんの言葉に今度はわたしが瞳を真ん丸にさせる。続きの言葉が出てこない。そんなわたしと後輩くんを見ていたブン太が妙な拍車をかける。「責任とれよ、ファーストキス奪ったんだろい?」、わたしはブン太をキッと睨む。ブン太は本当に余計なことしか言わない。
そんなわたしに向かって後輩くんがもう一度同じセリフを口にした。「責任、取ってくれるんすか?」、と。これでは責任を取らないわけにはいかない。おろおろとするわたしに後輩くんは一歩一歩と近付くと、それはそれは純粋無垢な瞳をキラキラと輝かせた。「責任取ってください!」、今度はもう言い訳も許されなかった。

「わ、分かった。その、ごめんね?わたしなんかで」
「いいっす!先輩が!」
「それなら、いいけど」
「やった!先輩っ!」

責任を取ると言ってしまった以上はこうするしかない。嬉しそうに飛びついてきた後輩くんに見えない尻尾をパタパタされて、仕方がないこととは言え正直悪い気はしない。
わたしをはしゃぐように飛び跳ねながらぎゅっと抱きしめていた後輩くんが、急に腕に力を込める。思わずわたしはドキリとする。

「ファーストキスは奪われちまったけどセカンドキスは俺が奪うっすから」
「うっ」
「はあー、花びらが舞う中で見た先輩、妖精みたいだったっす。天使かと思った」
「へっ?」

ぎゅううっと腕にさらに力を込められて、わたしは頭が混乱してきた。妖精だとか天使だとか物凄く高いハードルに例えられていたたまれない。そして何よりうっとりとした声で「一目惚れでした」と言う後輩くんに、わたしは真っ先にブン太を見た。いない!あれだけ責任を取れと騒いでいたくせに!
責任を取るだとか取らないだとか、純粋無垢だとか軽いだとか、後輩くんだとかブン太だとか。わたしが知らなかっただけで、本当は全部同じことで、わたしだけが罠にかかっていたのかもしれない。天使のふりした悪魔は本当にいるのかもしれないと、今日そんなことを思った。わたしの見えないところで舌を出してピースしている後輩くんを、もちろんわたしだけが知らないのだ。
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