「今日はマラソンをしまーす」

グラウンドで体育の先生の声が響いた。今日の体育の授業はどうやらマラソンなようだ。あちこちから生徒達によるブーイングが巻き起こる。マラソンが苦手なのはどうやらわたしだけではないようだ。
それでもブーイングをするだけでは体育の授業は終わらない。先生がマラソンだと言えば今日は間違いなくマラソンなのだ。いつまでも文句ばかり言うわけにもいかず、不満そうな顔をしたまま生徒達は立ち上がりマラソンを行う準備に取りかかる。渋々用意をする生徒達を見ながら、わたしだけがまだマラソンという事実を受け入れられていなかった。
わたしは幼い頃から身体が弱く、すぐに体調をくずしていた。少しでも寒くなればすぐに風邪をひき、少しでも疲れれば寝込み、激しい運動をすればぶっ倒れてしまう。そんなわたしだから、マラソンだけはどうしても受け入れられないのだ。

「はーい。位置についてー」

わたしの気持ちなんて知らないみんなは渋々ながらもきちんと準備を終えて、スタートラインに並んでいた。もちろんわたしも。そして先生によるスタートの合図が鳴らされた。予感はあった。最後まで走りきることなんて出来っこないつまらない予感だ。グラウンドを一周したところでわたしは息が苦しくなりそのまま倒れてしまった。




またやってしまった。そう気付いたのはヒラヒラと揺れる真っ白なカーテンが目に入ったときだった。体操服のままベッドに横になっていたわたしは小さなため息をつく。マラソンを完走したことのないわたしは走る前からこうなることを分かっていた。ギシッと軋むベッドに腰を掛けて、手と足が間違いなく動くことを確認すると個室にされているカーテンを開けた。

「お、起きたかー?」

ギーコギーコと回転する椅子に腰掛けているのは、銀色の髪をちょろんと伸ばした仁王くんだ。仁王くんは個室から出てきたわたしを見るなり楽しそうに笑う。またぶっ倒れたんか?と、そんなことを言いながら。
いつからだろうか、彼とよく話すようになったのは。身体の強くないわたしは保健室の常連だった。教室にいても休みがちなわたしにはなかなか友達が出来ず、いつも一人で過ごしていた。そのせいか休み時間のたびに保健室にやって来ては先生とグダグダ話したり、たまには仮病を使って眠ったり、教室よりも居心地のよいこの保健室で好きなように過ごしていた。そしてダルイとキツイと眠いが口癖の仁王くんもわたしと同じく保健室の常連だったのだ。

「今日はどうしたん?」
「マラソンしてたら倒れた」
「倒れるて分かっとって走ったんか」
「だって」
「だって?」
「みんな嫌がってたのにわたしだけそんな理由で休むとか出来ないよ!こわい!」

わたしの「こわい!」と同時に仁王くんがケタケタと笑い出した。わたしにとっては笑い事ではないのだけれど、彼にとってわたしは面白い存在らしい。笑う仁王くんにわたしがむうっとして見せれば、そんなわたしを見て仁王くんがまた笑う。仁王くんと一緒にいるときのわたしはそれはそれは面白いひとになれる。
ひとしきり笑った仁王くんがはーっとため息をついて、ギーコギーコと揺らしていた椅子でこちらに向き直った。そしてさっきまで大笑いしていた笑顔よりも、もっともっと楽しそうな笑顔で言うのだ。「お前さんのそういうところ、結構好きじゃ」と。わたしはドキリとする。二人きりの保健室が居心地の悪い場所に切り替わる瞬間だ。

「また馬鹿にして!」
「馬鹿になんかしとらんぜよ」
色素の薄い銀色の髪がサラリと肩をすべり落ちて、わたしは仁王くんの瞳に吸い込まれそうになった。正面から横から後ろから、ありとあらゆる方向からわたしの心臓めがけて仁王くんは一直線に攻撃をする。防御の方法も交わし方も知らないわたしはただただひたすらにその攻撃に耐えるしかない。仁王くんの言葉の受け止め方を知らないわたしはオロオロする表情すら隠すことができなくて、いつも仁王くんにクスリと笑われてしまう。からかわれて遊ばれている自覚はあるのに、分かっているのに、上手に逃げることが出来ないのだ。

「もう、笑ってばっか」
「お前さんが面白いせいじゃ」
「ひどい!」
「酷くない酷くない」

椅子に座ったままの仁王くんが腕を伸ばす。そのまま頭を撫でられて、わたしはまたしても動けなくなる。逃げ方を知らないわたしを知っていて好き勝手ばかりして!納得いかない顔をしていると、仁王くんにまたクスリと笑われた。今度は瞳を細めて優しげに。それは時々見せる仁王くんの特別な表情だとわたしは思っている。本人にその自覚があるのかは分からないけれど、わたしはこの笑顔に弱い。何度からかわれても大笑いされても、最後にいつもこの笑顔が見れると思うと我慢をしてしまう。それくらいにそれは甘い甘い笑顔だ。

「わたし保健室ってやっぱり好きだな」

仁王くんの笑顔に向かってそう言うと、仁王くんがまた笑う。わたしの言葉に込められた本当の意味には気付かないだろうけれど、上手に隠して上書きされた言葉に仁王くんも大きく頷いた。「俺もかなり好きじゃ」と。教室では見ることの出来ない仁王くんの特別な笑顔は、保健室限定なのだ。そう思うとやっぱりわたしにとって保健室は特別な場所になってゆく。彼のいる、この保健室が。




ガヤガヤと騒がしい教室でわたしは次の授業の準備をしていた。今日はわたしの出席番号の日なので当てられるかもしれない。教科書を確認しておかなければ。開いた教科書とノートにふいに影が落ちる。不思議に思って顔を上げれば、目の前には仁王くんがいた。わたしは心底ビックリした。
彼と保健室以外の場所で目を合わせるのはこれが初めてだった。どちらからともなく、わたしたちは保健室以外の場所で関わることはしないようにしていたからだ。わたしにはわたしの、仁王くんには仁王くんの、決して交わることのない世界が存在していて、こんなに簡単に側にいられるはずがない。
それなのに、わたしたちの暗黙の了解のルールを仁王くんはいとも簡単に破ってしまった。

「これ保健室に忘れとったぜよ」
「あ、ありがとう」

手渡されたのは髪を結ぶゴムだった。こんなどうでもいいゴムのおかげで教室にいたみんながざわつき出した。女の子たちの声が聞こえる。何であの子の?あの二人仲良いの?どんな関係?あちこちから聞こえる声にわたしは俯いた。わたしはこれがこわかった。
仁王くんはモテる。それはもう、かなり。恋愛に興味のないわたしですら知っている、様々な彼の噂。誰に告白されただとか誰を振っただとか。
わたしだけが指を指されて笑われるくらいなら我慢も出来る。だけど、わたしのせいで仁王くんに変な噂が立つのだけはどうしても嫌だった。わたしなんかのせいで、こんなわたしなんか。そう、ここは保健室じゃない。わたしは仁王くんと仲良くなんて出来ない。
何も言わずに目も合わせようとしないわたしを仁王くんはしばらくじっと見つめてから、ふいに離れて行った。小さな声で、一言だけ残して。

「悪い」

その淋しそうな声だけがやけに耳に残った。




相変わらずわたしは今日も保健室に通っていた。出張に行っているらしい先生のいない保健室の机でゴロゴロしていた。もちろん隣りには仁王くんがいる。今日も相変わらず二人でサボっていた。

「眠くなってくるね」
「そうじゃな」
「ぽかぽかしてる」
「寝てもええよ」

うつ伏せていた顔を横に向けると、隣りで同じようにうつ伏せてこちらを向いている仁王くんと目が合った。今にも眠ってしまいそうなとろんとした瞳で無防備にわたしを見つめている。仁王くんがもう一度「ここで寝てもええよ」と言う。今にも眠ってしまいそうなのは仁王くんなのに、わたしを寝かしつけようと頭を撫でてくる。
時々仁王くんはお兄ちゃんになる。兄弟のいないわたしは想像する。仁王くんみたいなお兄ちゃんがいたらきっともっと違うわたしになれているのかな。それとも、仁王くんみたいな彼氏がいたら。そこまで考えてわたしは仁王くんから目を逸らしてうつ伏せになった。そんなこと考えるなんて、ありえない。わたし、どうかしちゃったんだ。
保健室の仁王くんには魔法がかかっている。保健室を一歩でも出れば解ける魔法だ。

「わたし保健室が好き」

ぽかぽか温かい保健室で、魔法をかけられた仁王くんと二人で、誰も邪魔されずにお話し出来る。魔法のかけられたこの場所でしかわたしは仁王くんと話すことが出来ない。だから、保健室が好きだった。

「俺は、最近ちょっと保健室がつまらん」
「えっ、何で?」

予想外の仁王くんの言葉にわたしはすがり付くように聞き返してしまった。だけど仁王くんは、ただ少しだけ困った顔で笑うだけでその先を口にすることはなかった。




仁王くんの言った言葉が気になって気になって、わたしは午後の授業のほとんどが頭に入ってこなかった。仁王くんが保健室を嫌いになってしまったら、仁王くんが保健室に来なくなってしまったら、わたしは二度と仁王くんに近付くことが出来なくなってしまう。あの楽しい時間がなくなってしまう。
ぐるぐると回る頭に、数学の問題を当てられた仁王くんが気だるそうに答える声が聞こえた。先生に正解を貰って、近くの席の男の子たちと笑っている。
そうだ、わたしが仁王くんと仲良くなるなんて夢の夢だったのかもしれない。わたしには友達もいないしいつも一人だ。こんなわたしと仁王くんじゃ、友達としても釣り合わない。わたしはぼんやりとそんなことを考えながらうつ伏せた。

「大丈夫か?」

いつの間に眠っていたのか授業はとっくに終わっていて、休み時間になっていた。顔を上げた先に仁王くんが見えて、まだわたしと話してくれることに心底ホッとした。と同時にここが教室だと思い出して、急に落ち着かなくなる。魔法のかけられた保健室ならどんなわたしでも平気なのに。

「具合悪いんか?」
「や、大丈夫」
「そうは見えんけど」
「ほんと大丈夫」

大丈夫だから、少しだけ強い口調で仁王くんを遠ざけてしまった。教室ではお互いに関わらない、口にはしていないけれど暗黙の了解だったはず。頑なに遠ざけようとするわたしに仁王くんは観念したようにため息をつくと、なぜだかその場に屈み込んだ。わたしと同じ目線に合わせて、それはそれは優しい声で問いかける。「俺だけ?」、わたしは目を丸くする。「保健室以外でも仲良くしたいのは俺だけか?」、仁王くんの行動と言葉に周りが静かになってゆく。わたしはそんな教室が怖くなって逃げ腰になりながら仁王くんに目で訴える。なんで?どうして?そんな誤解されるようなこと言わないで。

「言うとくけど誤解じゃないぜよ」

わたしの心の声を読んだように仁王くんが言う。

「俺はずっと仲良くしたかった。保健室だけじゃなくてどこででも」
「で、でも」
「悪いか?俺ずっと自慢したかった。宮本さんと仲良くなれたこと」
「ちょちょちょ!や、やめてよお!」
「何でじゃ?好きな子にちょっかい出して何が悪い」

好きな子お!?ヒートアップしてゆく仁王くんの発言にわたしは言葉を失った。教室は完全に静まり返っているし、目の前の仁王くんはそんなことお構い無しにわたしをじっと見つめている。仁王くんの攻撃はとんでもない必殺技を隠し持っていた。それはわたしの心臓にだけクリティカルヒットする最終奥義だった。何も言えずに目を逸らすことすら出来ずにいるわたしに、仁王くんは言う。「一億歩くらい譲って許してやるから、ここを保健室だと思っていいぜよ」、そう前置きをしてから目の前に片手を差し出された。わたしはその手と仁王くんを交互に見つめる。

「俺の彼女になって保健室以外でも仲良しするか、今のまま保健室だけで仲良しするか。前者ならこのまま俺の手を取ってくれ」

跪いたままそんな王子様みたいなことを言ってのける仁王くんに、わたしは頭がクラクラしてまた倒れてしまいそうになる。保健室の魔法はいつの間にか解けていたのだろうか。それとも仁王くんが魔法使いだったのだろうか。差し出された手をもう一度目の前に差し出されて、おそるおそる仁王くんを見ると保健室でしか見ることのなかったあの優しい笑顔が見えた。そう、わたしはこの笑顔に弱いのだ。
ゆっくり仁王くんの手を取ろうと伸ばすと、わたしよりも先に仁王くんに手を掴まれた。そしてわたしはようやく気付く。保健室に魔法なんて最初からかかっていなかった。わたしは最初から最後まで、この目の前で嬉しそうに笑っている仁王くんと恋の魔法にかかっていたのだから。
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