ツンと鼻を刺す匂いに目が覚める。真っ白なカーテンがパタパタと気持ちよさそうに風に揺れている。どうやらここは保健室のようだった。心地よい温もりに包まれているわたしは、ぼんやりと回らない頭で何がどうしてこうなっているのかを思い出していた。
体育の授業中にぼんやりしていたわたしの頭に、隣りでサッカーをしていた男子たちの蹴ったボールがヒットした。寝不足だったことは認める。昨日の夜にどうしてもどうしてもクリアしておきたいゲームがあったのだ。夢中になり過ぎてちょっとだけと決めていた時間が大幅に睡眠を削ってしまっていたことは、この際認めるしかない。たったのこの出来事だけで睡魔にも痛みにも勝てずに不覚にもわたしはぶっ倒れてしまっているのだから。なんてことだ。
ふかふかの布団を口元まで引き上げてわたしはため息をついた。普段はそこら辺の男の子よりも男の子のようなわたしだから、女の子みたいにか弱く倒れたなんてちょっと恥ずかしい。みんなビックリしただろうな、先生がここまで運んでくれたのかな。ああああああ恥ずかしい!心の中で叫びながらわたしは用意された温もりに甘えて、速やかに睡眠不足の解消を行うことにした。
どのくらい眠っていたのか、チャイムの音が聞こえてふいに意識が戻ったその時、カーテンがめくられる音がした。誰かが様子を見にきてくれたのだろうか。わたしはまだあまり覚醒していない遠い意識の中でぼんやりと考えていた。その気配は少しずつわたしに近付くと温かい布団よりももっと温かい何かでわたしの頬に触れた。その温もりが気持ち良くてまた夢の中へ引きずり込まれていく。意識が落ちる最後の瞬間に、唇に柔らかい物を感じてわたしは眠ってしまった。





「おはよ」
「あ、菜月!大丈夫なの?」

昼休みになり自分のお腹の音で目が覚めたわたしは十分に睡眠を取ることが出来たので教室へ戻ってきた。友達の慶ちゃんとお弁当を広げながら、わたしは保健室で目を覚ました時からずっと気になっていたことを慶ちゃんに話した。うろ覚えではあるのだけれど、確かに感じた出来事。

「ねえ、慶ちゃん。わたし保健室で寝てた時に誰かにキスされた気がするんだけど」
「ぶっふぉ!!」

会話の相手である慶ちゃんよりも先に隣りの席の宍戸がガツガツ食べていたお弁当を噴き出した。宍戸の机の上に散らかったご飯粒と三人にだけ落ちてきた沈黙を、信じてもらえていないと受け取ったわたしは宍戸に向き直る。机の上に散らかった自分の口から噴き出したご飯粒をティッシュで拭きながら、宍戸は心底呆れた顔をしていた。

「本当なんだってば!誰かがやったの!」
「誰がやるんだよ、お前に」
「でも本当なの!」
「お前寝てたんじゃないのかよ」
「寝てたよ!寝てたけど分かったの!」

夢でも見たんじゃね?からかうように笑いながら宍戸は一向に信じてくれない。確かに夢かと言われたら曖昧ではある。実際に眠っていたことは確かなのだから。でも、あの頬に添えられた温もりと唇に触れた柔らかい感触は本物に違いない。だってわたしは生まれてこのかたキスという物をしたことがないのだ。経験したことのないものを夢や妄想でリアルに再現させることなんて出来ない。

「でもそれが本当なら酷くない?女の子の寝込みを襲ったってことでしょ?」

慶ちゃんの言葉にハッとする。あまりに現実味のない出来事に流されていたけれど、わたしは悪く言えば寝込みを襲われたのだ。「相手が誰か分からないって考えたら気持ち悪くない?」、慶ちゃんにそう言われ改めてわたしはことの重大さを理解した。そして想像してみた。わたしが眠っているベッドの前で知らない男がハアハア息を上げて汗をかいた手のひらでわたしの頬に触れたままその分厚い唇を押し付けている場面を。わたしはサーッと青ざめて咳き込んだ。ファーストキスをそんな輩に奪われるなんて。

「ねえ、誰が保健室に来たのか知らないよね?」
「わたしが行った時は誰もいなかったよ!菜月が倒れた次の休み時間」

はあー。深い深いため息をついて机に項垂れる。お弁当は半分しか減っていないのにお腹は別の何かでいっぱいになってしまっていた。さっきまであんなに空腹だったのに。
そしてわたしはファーストキスを奪われた事件よりもわたしにとってもっと重大な事件を目の当たりにしていた。
慶ちゃんと一緒になって話を聞いてくれている宍戸は、わたしの好きな人でもあるのだ。今学期から隣りの席になった宍戸は優しくてサバサバしていてすぐに仲良くなった。氷帝と言えばあの跡部くんの率いるテニス部は有名で、宍戸もテニス部だからと一線をひこうとしたわたしをあの笑顔で飛び越えさせてくれた友達だ。そう、友達だ。わたしなんかが宍戸のそれ以上になろうだなんておこがましいことなのだ。

「ね、宍戸は知らない?保健室に来たひと」

わたしの質問に少しだけ間をあけて宍戸は答える。俺は知らない、と。これでわたしの恋は幕を閉じたも同然だから、あとはわたしの寝込みを襲った犯人を見つけて八つ当たりも含め一発殴ってやるだけだ。どこか知らない男にファーストキスを奪われた人生なんて嫌だ。絶対に見つけ出してやる。
犯人探しに燃えるわたしを宍戸がお弁当を片付けながら呆れた顔で見つめていた。

「そんなに張り切って大丈夫かよ?」
「大丈夫!」
「傷付くよーなことがあっても知らねーぞ?」

宍戸の忠告を笑って跳ね返す。傷付くことならもう起こってる。宍戸が友達として心配してくれてること、わたしがどこの誰かも分からない男にキスをされたって知っても顔色一つ変えてくれないこと、それから何より犯人が宍戸じゃないこと。
友達以上なんておこがましいと言いながらこんなにショックを受けているなんて、わたしはどれだけ図々しいのだろう。友達と言いながらその先を期待しているなんて、とんでもない卑怯者だ。

「絶対犯人見つけて懲らしめてやるんだもんね!」

わたしがそう言えば宍戸は困った顔をしてため息をついた。





意気込んでみたものの犯人なんてどうやって探したらいいのか皆目見当もつかない。トイレに行った帰りの廊下でクラスの友達に聞き込みでもしようかと考えていると、去年同じクラスだった忍足くんに肩をポンッと叩かれた。わたしはビックリして身構える。同じクラスだったとは言え、忍足くんと交わした会話なんて数える程だ。わたしに氷帝テニス部に一線を引こうとする癖がついたのは、間違いなく彼が原因だった。悪いひとではないことは理解している。ただ、このひとのこの雰囲気が苦手なのだ。

「もう体調はええん?」
「え?あ、うん。平気」
「サッカーボールが頭に当たったんやて?痛かったやろ」
「大丈夫大丈夫!わたし頑丈だから!」

どこで誰に聞いたのか忍足くんにまで心配されてしまった。苦手だった眼鏡の向こうの細い瞳がわたしを心配そうに見つめていた。何度も言うけれど、悪いひとじゃないのは理解している。理解しているんだけど。伸びてきた腕がわたしの後頭部をゆるゆると撫で出した。たんこぶ出来とるで?よしよし、そんな優しい言葉と一緒に後頭部に回された手が緩やかにわたしに触れている。わたしは思いっきり苦笑いを作った。優しさに綺麗に包まれた中にあるものが間違いなく優しさなのかそれとも下心なのか。わたしは忍足くんのこういうところが苦手なのだ。
経験不足なわたしには見抜けない技をされるがままに受けていると、背後から物凄い足音と共にわたしの大好きな声がした。

「おい!忍足!」

掴みかかりそうな勢いで忍足くんに突っ込んだ宍戸はわたしと忍足くんを引き離すとあーとかうーとかわけの分からない声を上げた後で、取ってつけたように教科書貸せ!とぶっきらぼうに言い放った。ひとに物を頼む態度じゃないよと心の中でそう呟くと忍足くんも同じように、それがひとに物を頼む態度なんか?と宍戸を見て笑っていた。
わたしはと言えば宍戸の大きな背中に隠されて忍足くんの顔さえ見えなくなっていた。下心があろうとなかろうと心配してくれたことに代わりはないので一言お礼が言いたくて、宍戸の背後から顔だけ覗かせた。

「忍足くん、ごめんねありがと」
「えーよ、かわいこちゃん心配するんは当たり前やん」
「かわいこちゃんって…」
「誰がかわいこちゃんだよ」

わたしと忍足くんの会話に宍戸が割り込んできた。機嫌が悪いのかいつもより言葉にトゲがある。明らかに怒っているひとに関わりたくないと思うのが普通のはずなのに、忍足くんは宍戸が怒れば怒るほどにやにやと煽るように笑っている。ちなみにわたしはそういうところも苦手だ。
今にも喧嘩が始まりそうでわたしは宍戸の腕を掴んで教室に戻ろうと声をかけた。それがいけなかったのか宍戸に腕を払われてしまった。

「お前犯人探しはどうなったんだよ」
「さ、探してるよ」
「でもこいつは絶対違うから関わんな」
「わたしだってキスしたひとが忍足くんだなんて思ってないよ!」

キス?その単語にのみ反応を示した忍足くんはしばらく黙ったままわたしと宍戸を交互に見てからぷっと噴き出した。明らかにバカにした笑いだったことを宍戸も理解したのか、さっきよりも不機嫌な顔で忍足くんに詰め寄った。険悪なムードなのは宍戸だけで忍足くんはそんな宍戸を見て楽しそうに今もまだにこにこ笑っている。
その笑顔をふいにわたしに向けられて、困惑したままのわたしに忍足くんは告げる。俺犯人知っとるで、と。

「なっ!」
「えっ!」

二人同時に驚いてその反応にまた楽しそうに笑う忍足くん。

「俺な、その犯人に用事があって休み時間に教室行ったら不在でな。そん時に聞いてもうたんや。体育の時間にその犯人が蹴ったボールが女の子の後頭部に直撃したって話」
「ええ!じゃあわたしにボールぶつけたひとが犯人なの?」
「菜月ちゃんが保健室におるて聞いて俺の探しとるやつもそこやと思て向かったら、調度そいつが保健室から飛び出してきたところやってな。何かあったんかなーと思たら、ははーん、そういうことか」

忍足くんは心底楽しそうに話をしているけれど、わたしにはもうそれ以上の話は頭に入ってこなかった。まさかこんな簡単に犯人を見つけることが出来るなんて。
わたしは忍足くんに掴みかかるようにして犯人が誰なのか、続きをせがむ。忍足くんはそんなわたしを見てもう一度ぷっと噴き出すと、わざとらしく回りをキョロキョロ見回してわざとらしく声を上げた。

「あらー?宍戸はどこ行ったん?」
「えっ!ちょ、宍戸どこ行った!」
「逃げ足の早いやつやなー」
「こんな大事なときに!」

知りたくて焦る気持ちと一人にされて急に不安になる気持ちが交互に押し寄せた。一人で聞いてわたしは大丈夫なのだろうか、とてつもないショックを受けたりしないだろうか。宍戸の言っていた言葉が今さらになってわたしの不安を煽っていた。
忍足くんに背を向けて宍戸を探していたわたしに、忍足くんはそのまま背後から話の続きを始めた。
「犯人は今頃逃げ隠れとるかもしれんな、菜月ちゃんに秘密がバレたと思てな」、クスクスと笑いながら忍足くんはその名前を口にする。心底楽しそうに、心底嬉しそうに、そしてわたしの背中を押すように。

「宍戸もかわええとこあるやん?」

わたしはその言葉だけですべてを理解するには時間が足らなかったけれど、そんなことよりも先に宍戸を見つけて捕まえて今度は宍戸の口から真実を聞きたいと思った。忍足くんにはもう一度、ありがとうを告げると全速力で廊下を走った。
教室、部室、中庭、靴箱、どこにもいない宍戸の姿にだんだんドキドキしてきた。最後の最後にやってきた屋上の重たいドアを開けると、目の前には真っ青な空と心地よい風と宍戸の後ろ姿があった。やっとやっと見つけた。

「宍戸ー!勝手にいなくなるなんて狡い!」

わたしの声にビクッとした宍戸はおそるおそる振り向いた。わたしはわざと怒った素振りを見せながら宍戸の隣りまで近付く。そんなわたしを宍戸はまばたき一つせずにじっと黙ったまま見つめていた。

「何か言うことは」
「…ばれた?」

イタズラが見つかった子供みたいなことを言う宍戸に、わたしは首を縦に振る。言いたいことや聞きたいことは山ほどあるけど、わたしは宍戸の気持ちが知りたかった。

「俺のこと懲らしめんの?」

ここにきて可愛らしいことばかり言う宍戸に緩みそうになる頬を引き締める。懲らしめたりしないよ、ばか!見上げた先にどこまでも広がる大きな空の中で大好きな宍戸が不安そうにわたしを見つめていた。宍戸のそんな顔を見たのは初めてだった。
友達の一線は、それはそれは強力な防御力を持っている。見ているだけではその一線は越えられない。でも、越えるためには勇気がいるし痛い思いをしたり、たまには跳ね返されたりもする。わたしは宍戸とわたしの間にあったその一線を見ているだけの選択をしたのだ。勇気もなければ痛みを堪える力もない。跳ね返されたらもう二度と近付くことは出来ない。
ねえ宍戸、宍戸もそうだったの?わたしと同じように怖がって不安で、その一線を見つめるだけの選択をしていたの?

「ししどー」

わたしは宍戸の手を握る。一瞬だけビクッとした宍戸は、すぐにわたしの手を握り返した。その手は間違いなく保健室でわたしの頬に触れた温かい手だった。
飛び越えたくて飛び越えられなかった友達としての一線を、宍戸は一緒に飛び越えてくれるかな。

「もう一度ちゃんとやり直してくれるなら懲らしめたりしないよ」
「…おう」
「わたしファーストキスだったんだけど」
「…知ってる」
「知っててやったの」
「…うん」
「あらら」
「だから俺に責任とらせろ」

握っていた手を引っ張られて、隣りを見上げると宍戸の真剣な顔が見えた。ゆっくり近付く宍戸に目を閉じると柔らかい感触が唇に触れた。やっぱり宍戸だったんだ。保健室でキスしてくれたのは。
しばらくして離れていく宍戸を追いかけてわたしはもう一度短いキスをする。驚く宍戸はまだ知らないのだ。わたしがずっとずっと宍戸を好きだったこと。仕方なくでも犯人だからでも無理矢理でも何でもなく、わたしが宍戸を好きだってこと。

「宍戸、だいすきだよ!」
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