怖いほど綺麗なインゴさんのお顔が近づいてきたかと思ったら、避ける間もなくむちゅうと唇を押し付けられていた。
うわあ何だか思っていたより間抜けな擬音付きそうな感じ。
インゴさんならもっとキスだってスマートに、もしくは色気たっぷりにちゅっとやってくれるものだと思ってたんだけど。
まあしかし。
その相手が自分になるとは夢にも妄想にも思っていなかったわけでありまして。
だって恋人どころかお互いに好意すら窺えない掛け値なしの上司部下でしかなかったはずだから。
何がどうしてこうなった。
もしかしてあれだろうか、欧米特有の親愛表現。
確かにこっちではキスなんて挨拶代わりだよーとエメットさんも仰っていたけど、まだまだ不慣れな私にその挨拶はやめてくれと声を大にして言っていた筈だ。
いやしかしインゴさんが偶然その所信表明を聞いていなかったところで何の疑問もないわけで。
「………えーと。悲鳴とか、上げるべきなんでしょうか」
それともここは報復を恐れず平手の一発でもくれてやるべきなんだろうか。
透けるようなお肌をお持ちのインゴさんのことだから、きっと綺麗なもみじが横っ面にできそうだ。
もれなく私の顔面が見る影もなく粉砕されそうな気がするけど。
まるで場違いな言葉を聞いたというようにインゴさんがぴくりと片眉だけ器用に跳ね上げて、本当に叫ばれたら迷惑だと思ったのか片手でしっかりと口を塞がれる。
これでインゴさんの手袋に口紅付いたりしたら私がはっ倒されるのかな、まったく理不尽だ。
「ワタクシのものになりなさい」
私の愛しい母国にもそういう人間は稀にいたけど、こっちでは特に顕著だと思う。
そう、人の話を聞かない、もしくは会話が成り立たない人が実に多いのだ。
それは私の語学力があまりにも残念な所為ばかりではないと思いたい。
事実、悲鳴上げたらいいですかと聞かれて自分のものになれだなんて驚きの脱線、でなければ飛躍の仕方は私の貧相な語学力だけでは流石に説明がつかないだろう。
はてさてインゴさんの中では私の言葉がどんな聞き間違いを起こしたのか。
ワタクシのものになれと言われたところで、私は既にインゴさんの部下であるからして十分にインゴさんのものであると言える。
けれど改めて言葉にされているということはつまり上司部下云々の話ではないんだろうし、それはつまり、一体どういうことだろう。
いくら天上天下唯我独尊俺様何様インゴ様と影に表に囁かれているインゴさんであっても、流石に海外転勤を経たばかりのジャップに自分専用の奴隷、もとい雑用係になれなんてことは言わないだろうし。
内から外から恐れられているインゴさんではあるけど、人並みの常識はお持ちだし何より流石欧米人というか紳士的な一面だってしっかりあるのだ。
私みたいな木端鉄道員にも雑用を頼む際にはきちんと丁寧な「Excuse me」が言えるジェントルマンだ。
そのインゴさんが突然すみませんもなしに乙女の唇を奪い、あまつさえ「ワタクシのものになりなさい」と来るんだからそれはもうきちんと言葉にするのもはばかられる重大な何かがインゴさんの中で起きたに違いない。
叫ぶ気配はないと思ったのかゆっくりとインゴさんの手が外され、解放された口で思い切り息を吸い込みながらはっと天啓のように思い至る。
「ああ!わかりました、そういうことですね!!」
「……………何がわかったのか激しく不安になる沈黙がありましたが。なまえ、貴女本当にワタクシの言った意味がわかったのですか?」
「はい。特に最近はとても大変そうだと思ってましたから」
「何がです」
食い気味に眉間に皺を寄せた迫力満点のお顔を近づけて問いただされ、もしかして何か間違ったことを言っただろうかと若干の不安を感じながら私が導き出した正解をそっとインゴさんに提示した。
「ファンの方や熱心なお客様に対するフィルター役を頼みたい、ってことでしょう?最近過激なプレゼントや追いかけみたいなこともあって大変だって仰ってました、よね?」
「確かに、言った覚えはございますが。何をどうすればワタクシの言葉が女避けになれという頼みごとになるのです」
「そこはあれです、インゴさんいつも態度や空気で察しなさいって口を酸っぱくしてますから、私なりに察してみたんです」
ワタクシのものになりなさい、つまりこれはワタクシのSPの真似事をして過激なファンとの防波堤になりなさいという意味でファイナルアンサーだ。
確かに外国は怖いところだからと同僚や上司に勧められるまま護身グッズや変質者撃退法は目一杯つめこんできている。
そこらの痴漢や熱に浮かされ飛び込んでくるお客様ぐらいならスタンガンと催涙スプレー、そして警棒の三連コンボで撃退できる自信はあった。
ヤマトナデシコ大好きと公言してはばからない典型的な間違った日本認識をお持ちのエメットさんにでも影響を受けて、日本の女性はみんな薙刀を振り回しお花を活けることができて当然だと思っているのかもしれない。
微笑ましい思いでインゴさんを見つめると、心底呆れたようなお顔でため息を吐かれた。
おっと、これはもしかしなくても私の答えは不正解のような雰囲気。
「誰がシークレットサービスの真似事を頼みましたか。女に荒事を任せるほどワタクシ男を辞めていません」
「流石インゴさん、フェミニストの鏡ですね」
「エメットに向けるのであればともかく、ワタクシにとってその言葉は殴り合いの申込みにしかなりませんので以後口にするときは気を付けなさい」
「イエッサー、ボス!」
危なかった、インゴさんが短気な人だったら今頃私は地面に沈んでいたかもしれない。
いくら痴漢撃退に自信があっても、素手で野生のかくとうポケモンとやりあうような無謀さは持ち合わせていない。
血の気が多い、喧嘩っ早いと主にエメットさんにとって有名なインゴさんのことだから私なんてきっと片手でノックアウトされてしまうだろう。
もう一度盛大にため息を吐いて、今度は子供に言い聞かせるようにゆっくりとインゴさんが口を開いた。
「ワタクシの、恋人に、なりなさいと、言っているのです。この意味がわかりますか?」
「それは、つまり、恋人役をやって、ファンの方との壁になれと、いうことで?」
思わずつられてゆっくり一語一語噛みしめるように答えると、両肩をがっしりと掴まれ目線を直線上に合わせられる。
長すぎるおみ足を屈めて、もう少し前傾したら頭突きしちゃいますよという勢いの至近距離でじいっと真っ青な瞳が私を覗き込む。
これは本格的に子供扱いだ。
どうにも今日はインゴさんが望む正解を中々導き出すことができない。
いつもそれなりに察しが良い部下だと褒めてもらっているだけに何だか妙に申し訳なくなってしまう。
「先ほど、ワタクシは貴女にキスをしました」
「はい。あ、こっちでは親愛表現でもキスをするって、私ちゃんと知ってますよ?」
「親愛表現で毎回唇にキスするほどワタクシの性事情は爛れていません。黙ってお聞きなさい」
「はい………」
ついに怒られてしまった。
しかもインゴさんやこの国の人に対して私は失礼な認識を持っていたらしい。
だってエメットさんが会う人会う人ハローなんて挨拶と一緒に唇同士でちゅっちゅちゅっちゅしていたから、こっちでは親愛表現としてメジャーな行為なんだと思っていた。
どうやら単純にエメットさんの性事情が爛れていただけのことらしい。
「ワタクシは、なまえのことを、愛しているのです。何も言わずに、ワタクシの言葉を復唱なさい」
「インゴさんは、私のことを、愛している、ん、ですか?」
あい、らぶ、ゆー。
ゆっくりと紡がれた言葉を反復して疑問形に直すと、見たこともないような穏やかな笑顔で一度頷かれた。
何て貴重なんだろう、普段しかめ面ばかりのインゴさんがこんな柔らかい表情をするなんて!
「う、嬉しいです、着任から日が浅い私を、部下としてそんなに大切に思ってもらってるなんて」
「……………what?」
インゴさんの声のトーンがワンオクターブは下がった気がした。
感動に打ち震える間もなくズゴゴゴゴという擬音でも背負っていそうなインゴさんに再び正面からじいっと見つめられてしまう。
「貴女、まさかわざとですか。そんなにワタクシが嫌いですか」
「嫌いだなんて!インゴさんのことは尊敬してますし、私だってあ、あい、愛してますよ!I love Boss,です!」
「わかりました、つまりはなまえが特別鈍感だというわけですね」
鈍感、と正面切って言われると流石に傷つく。
今までそんな評価は受けたことがないし、これはもう所謂ひとつの相容れない異国文化の壁という奴なんじゃないだろうか。
以前の職場の上司からは「貴女の性格ならば間違いも起こらないでしょう」と太鼓判を押されたっていうのに、ここに来て鈍感な奴認定はちょっと納得しかねる。
「あの、インゴさっぎゃあ!!」
「これまた色気のない声を。………まったく。どうしたら、貴女にこの思いが伝わるのでしょうね」
突然美形の異性から情熱的に抱きしめられるなんて経験がないもので思わず悲鳴を上げてしまうのは容赦してほしい。
キスなんかよりもよっぽど日常的で咄嗟に反応できてしまうようなスキンシップをいきなり取ってくるインゴさんにだって非はあると思います。
ばくばくばく、と触れ合った体からやたらと早い鼓動の音が伝わって来て、ちょっとだけ感動してしまう。
インゴさんの心臓の音はもっとゆっくり落ち着いているものだと無意識に決めてかかっていた。
「インゴさん、脈が早くて子供みたいですね」
「なまえが落ち着きすぎなのです。少しはときめいたらどうですか」
むっつり拗ねたような声と、顔にふわふわ当たる柔らかい金色の髪の毛に、今の状況じゃときめくよりも和んでしまうなあとぼんやり思った。