1人暮らしを始めても、自炊なんてしない女を捨てた食生活を送るに違いない。
そう思っていた時期が私にもありました。
恋人と共に食べる料理の何と楽しいことか!
パートナーのいない知人友人同僚その他にこの話をすると漏れなく爆死を願われるけど、そんな呪詛を鼻で笑い飛ばせるくらいに幸せだ。
私だってそう簡単に恋人を作れた訳じゃなく、むしろ紆余曲折様々な艱難辛苦を乗り越えやっと手に入れた愛しい人なんだからこれくらいの幸福感味わったって罰は当たらない筈。
「いい匂いがしてきましたね。今日の朝ごはんは何でしょう」
「ノボリさんリクエストのふわふわホットケーキですよー……っと!」
気合いの一声と共にホットケーキをひっくり返すと、テーブルに着いてご機嫌なお顔をしていたノボリがぴゃあだかふわあだか成人男性とは思えないような喜色に満ちた声を上げた。
少し前に朝食はホットケーキがいいというノボリさんのリクエストを、そんな時間はないという一言で切り捨てたことがある。
その時のしょんぼりとしたお顔を思い出して、まあ時間に余裕がある日ならとリクエストにお応えしたのだ。
「まあまあまあ、朝はトーストか卵かけごはんななまえにしては随分豪華な朝ごはんですねえ」
「今日はお休みですから、特別です」
「そうですか。そうでしたね。時間に余裕があるって素敵です」
うふふと笑うノボリさんにどこか含みを感じて、むっとした顔を向けてやればこてんと小首を傾げられる。
ああもうズルいこの人は自分の魅力をわかっている。
そして私の性格も熟知している。
ノボリさんという成人男性が繰り出すあざとすぎる言動が私にはどれだけ効果抜群か、それはもう知り尽くしていらっしゃるのだ。
「なまえ、貴女のむくれたお顔もわたくし大好きですが、そのままずっとこちらを向いていると折角のホットケーキが焦げてしまいますよ」
「………だあっ!わかってます!」
こんがり焦げる一歩手前のホットケーキをお皿に移して、バターとはちみつをかけてやれば何ともそれらしいホットケーキができあがる。
それをテーブルに置き、コーヒーを添えてやれば向かいに座るノボリさんが嬉しそうに手を叩いた。
「とっても美味しそうです!おかゆしか作れなかったなまえの腕も随分上がりましたね!」
「それってホットケーキ焼いただけでこんなに褒められてることに怒るべきか、未だに恥ずかしい昔のことを持ち出されることに怒るべきか迷うんですけど」
「怒らないでくださいな、笑ってくださいまし。わたくし、なまえの笑顔がいっとう好きなんです」
そう言われると黙り込むしかなくなってしまう。
ノボリさんが私の笑顔が好きだと言ってくれるなら、まあ中々に納得しづらいものはあるけど笑って見せようじゃないか。
「それじゃあ、いただきます」
「ええ。召し上がれ」
笑顔でフォークとナイフをそれぞれ手に持ち、ホットケーキを切り分ける。
ノボリさんはただそれを見ているだけ。
彼の目の前にはお皿も、カップも、それらを満たす食べ物もない。
私が意地悪でそんなことをしているわけではなく、ノボリさんからのお願いだった。
慣れてきた光景ではあるけど、それでもやっぱりどこか寂しさが残る。
「ノボリさんも、一緒に食べられたらいいのに。せめて雰囲気だけでも」
「なまえ、それは以前にも話しました。どうせ食べることはできませんし、何より自分の異質さを思い知るようで嫌なのです」
「………でも」
「わたくしの我が儘です。ねえなまえ、許してくださいまし」
諭すように伸ばされた腕が、私の頭を撫でるように数回通り抜けた。
ノボリさんは幽霊だから、お供え物みたいで嫌だって気持ちはわからなくもないんだけど。
いくら死後数年が経ってすっかり幽霊であることに慣れてきたとはいえ、恋人と同じ人間だと少しでも長く錯覚していたいって気持ちも、想像できるけど。
それでもあきらめきれずにじっとりと恨みがましい視線を向けてしまう。
「壁は平気で通り抜けたりするくせに」
自分から幽霊でなければできないようなことをしておいて、変なところだけ妙に繊細ぶるんだから。
しかもノボリさんは悪びれもせずににっこりと笑顔でのたまうのだ。
「だって便利なんですもの」
足までしっかりと付いた幽霊であるノボリさんは、ふよふよと椅子から浮き上がりそのままくるりとひっくり返って逆さまのまま私の頬を包んで額にキスをする、ような仕草をした。
実際は触れることはできないし、壁と同じように私の体も簡単に通り抜けてしまう。
なのにその動きだけで満たされる私は我ながら幽霊慣れし過ぎである。
「なまえのお着換えや入浴シーンも覗けますしね」
「塩撒きますよ!!」
以前のあれこれを思い出し真っ赤になって叫ぶと、まあ怖いと笑いながらノボリさんは再び向かいの席に着いた。
「わたくしが消えたら泣いてしまうくせに」
うふふと穏やかに告げられた言葉はあまりにもその通りで、白旗を上げる代わりにもくもくとホットケーキを味わう作業に没頭する。
恋人と共に食べる食事はとても美味しいのだ。
それが例え、向こう側が透けて見えるようなとんでもなく頼りない存在でも。