たっぷりと湯が張られた浴槽に、丁寧に腕まくりをされたわたくしの腕がだらりと浸かっている。
いや、それでは正しくない、正確には浸けられている。
なまえ様の手によって、やんわりと。
熱い湯に浸けられた腕だけが赤く火照ったところで、引き上げられたその手首に今度は温度のない剃刀が当てられた。
勿論、なまえ様によって。
「嫌です、なまえ様、許してくださいまし」
嫌ですと繰り返し泣きながら許しを請う。
その気になれば女であるなまえ様を押しのけるなどきっと容易い。
しかしできない。
わたくしの全ての行動原理はなまえ様に好いてもらいたい、嫌われたくないというところにあり、彼女を拒否することなど以ての外だった。
たとえわたくしの命がなまえ様によって危険に晒されようと、呆れたことに行動原理に忠実な体は生存本能を制して動こうとしない。
「駄目よ。だってノボリが悪いんだもの」
冷たい瞳がひたりとわたくしに向けられ、ぞくぞくと背筋を快感とも悪寒ともつかない何かが走る。
なまえ様が悪いと仰るのであれば、それは全面的にわたくしが悪いのだ。
きっと心優しいなまえ様が思わずわたくしの手首を切りたくなるほどの何かを、悪い何かを、間違いなくしてしまったのだ。
「申し訳、ありません。なまえ様、どうか、お許しを」
「じゃあ、笑って。クダリみたいに、笑ってみせて。そうしたら許してあげる」
こんなことを言われておいて何だが、彼女は、なまえ様は、別にクダリを愛しているわけでも、わたくしをクダリの代わりにしようとしているわけでもない。
クダリのように笑うわたくしが見たいという、ただそれだけのことだった。
ただそれだけのことが、わたくしには度し難かった。
「………それは、できません。それだけは」
「ならやっぱりノボリが悪いのよ。笑ってくれないノボリが悪い」
拗ねたような、怒ったような、なまえ様の表情とお声に気を取られている間に、なまえ様の手は動かされた。
ひやりとした感触を追って、ジリジリと焦がされるような痛みが手首に走る。
あ、と思う間もなく再び腕を深々と湯に浸され、視線だけで動くなと命じられた。
「1時間経ったら上げていいよ。ちゃんと呼びに来るから、1時間、ちゃんとそこで反省してて」
「なまえ、様」
「勝手に腕をお湯から上げたりしたら、嫌いになるから」
念を押されるまでもなく、わたくしにここから動くという選択肢は存在しなかった。
ゆらゆらと血が煙のように広がる湯舟をどれだけ眺めていただろう。
1時間よりも短いことは確かだ。
なまえ様が反省の時間が終わったことを知らせにいらっしゃる前に、わたくしは気を失い目覚めたら両腕を体の横に行儀良く揃えた状態で浴槽に寄りかかっていた。
ふとなまえ様に切られた手首へと視線を落とすと、そこは丁寧に包帯が巻かれている。
あれほど怒っていながらアフターケアまで万全なのだから、まったくなまえ様は可愛らしく優しいお方。
「私ね、ノボリを殺したいわけじゃないの」
わたくしの目が覚めたことに気が付いたのか、謝るでも言い訳するでもなく、世間話でもするような口調でなまえ様が口を開いた。
一語一句聞き逃さないよう、全神経をなまえ様に集中させる。
「だって、好きなのに。殺したいわけがないじゃない。ねえ、ノボリ」
「ええ、その通りですね」
なまえ様はわたくしの肯定を満足気に受け止め、花がほころぶような笑みを浮かべられた。
彼女がわたくしへ向けた言葉が間違っているわけがなく、疑問として投げられる声も肯定する動きも決まりきったやりとりだ。
「そうなの、その通りなの。私は、ノボリを愛しているんだから」
笑顔と気まぐれな愛の言葉。
それで、それだけで、わたくしは心からなまえ様に愛を捧げることができる。
戯れに、思い出したように、笑顔と愛の言葉を向けられる。
ただそれだけで。
例えどれだけ傷付けられようと他の男を真似て向かい合いたくはないと、真実わたくしのみを見て向き合ってほしいと思う程。
盲目的に、愛を捧げることができる。
「ありがとうございます、なまえ様。わたくしも、貴女様を誰よりもお慕いしています」
好いている、慕っている、愛している、どんな言葉でも足りはしないが。
溢れすぎていっそ歪んでしまいそうなこの思いを声音に乗せると、なまえ様はゆったりと一度頷いて慈母のような笑みを浮かべた。
「知ってるよ。私はノボリを愛してる、ノボリも私を愛してる」
幸せなことだね、と落とされた最後の言葉はそれがまるでこの世で唯一の真実のように思えた。
なまえ様の仰る言葉はわたくしにとって何物にも勝る世界の理で、わたくしたちの関係を指して幸せなことだと仰られたその言葉はわたくしを言祝ぎ与えられた福音なのだ。
例え現状が他者から見て地獄であろうと、なまえ様が仰るのであればそれは幸せなことで楽園にも等しい。
「ええ、ええ。とても、幸せなことでございます」
なまえ様がわたくしを愛している。
わたくしもなまえ様を愛している。
ああ、なんて幸せな。
じくじくと静かに疼く罰を受けた手首の痛みさえ、愛しく幸せなことに思えた。