三十路を軽く飛び越え鉄道員の間ではやれ落ち着きが出てきたの貫禄が窺えるのともっぱらの噂であるサブウェイマスターの1人である我らが上司クダリさんは、そろそろ血糖値や体脂肪が気になるお年頃だろうに、ミルクで丁寧に溶かしたちょっとお高いココアが大のお気に入りである。
しかもどろどろに甘ければ甘いほどご機嫌になる。
冬はとろりと温かいココアを、夏はキンキンに冷えたココアを水のように飲む姿は部下一同から一抹の不安とドン引きの視線を浴びていた。
甘いものでも取らなければやってられないという気持ちはまあわからないでもない。
が、それにしても酷い。
クダリさん直々の分量指定に従って作ったココアは、試しにもう一つ作ってみたところ喉が焼けるかと思うような劇物だった。
「………クダリさーん。ご要望の品お持ちしましたよー」
「どうぞ、入って」
ドアの向こうで顔も上げずに真剣な顔で書類に向かうクダリさんの姿は、若かりし頃の彼を知る鉄道員が見ればその度に涙ぐむ。
よくぞここまで立派になられて、とか何とか。
どこの時代劇だ。
なるべく邪魔にならないようにとそっと机にココアを置くと、立ち上がる湯気を一瞥して真剣な顔から一転ふにゃりと笑顔になる。
デスクワークには老眼鏡が欠かせないお歳の上司に向かって言うのも何だと思うけど、この人は本当に可愛らしい。
ギアステーション・バトルサブウェイに舞い降りた天使だと崇められるのも納得の癒し系だ。
「わあ、ありがとう」
「言われた分量で作りました。けど、これ飲み物としてどうかと思いますよ。逆に喉が渇きます」
「疲れた頭にはこれが美味しいんだよ?」
リラックスモードに入ったのか、眼鏡を外してぐっと後ろに大きく伸びをする。
少し余裕のあったサスペンダーが体のラインに沿って張られ、クダリさんのほっそりとした胸元が強調された。
「んん……っ、はぁ」
詰めた息を吐き出しているだけだ、伸びをして体をほぐしているだけだと自分に言い聞かせる。
クダリさんがリラックスモードに入る時は自制心を試されるような色香が一気に大量放出されるので気合いが必要なのだ。
多分これ、お客様が見たら鼻血を出すんじゃないだろうか。
まあクダリさんがお客様の前でコートを脱ぐなんて滅多にあることじゃないけど。
コートの裾から覗くサスペンダーのチラリズムが大層人気なのだそうだから、こんな姿は伝説ポケモンかってくらいの希少価値だろう。
お客様にとっては。
「ふふ、でもなまえってば好奇心旺盛だよね。そんなにぼくがどんなものを飲んでるか気になった?」
「………あ」
優越感に浸ってる場合じゃなかった。
あまりに衝撃的な味すぎて思わず感想なんて言ったものだから、私までちゃっかりココアを味見していたことがバレてしまっている。
隠すようなことでもないけど、こうしてからかわれると悪戯が見つかったようで決まりが悪い。
ゆったり微笑んだまま劇物ココアをこくこくと飲んでいくクダリさんを信じられないものでも見るような気持ちで見つめながら、もごもごと言い訳じみたことを零す。
別に悪いことはしていない、はずだ。
「見たことないような分量だったので、気になっちゃって。飲んだ瞬間後悔しましたけど」
「後悔?それって味に?それともぼくと間接キスしちゃうことに?」
「はあ?」
何だかとても甘酸っぱい言葉を聞いた気がして思わず素で返してしまう。
間接キス。
誰と誰がだ、私とクダリさんがか。
はっとクダリさんの手の中にあるカップに目をやり、何を言われているのか思い至る。
同時に羞恥で顔が熱くなった。
確かにどんなものか気になりはしたけど、流石に上司に出す物を一口いただくなんてしていない。
ちゃんともうひとつ自分用に作って死ぬ思いで飲み干してきた。
「いえあの、劇物かってくらい甘かったので後悔を………クダリさん」
「そっか、よかった。ねえなまえ」
誤解していますよと訂正する間もなく、強く腕を引かれて危うくクダリさんに頭突きをかますところだった。
寸でのところで踏ん張って耐えたというのに、駄目押しとばかりに後頭部を抑えられて耐えきれずに座ったままのクダリさんの上に倒れ込んでしまう。
骨ばった感触やしっとりとした体躯、それに脳髄を溶かすような甘い香りを一斉に感じ取り、顔と言わず体中に火が付いたような熱が灯った。
胸板に押し付けられていた頭がくいと上に向けられ、今までにないような至近距離からクダリさんの微笑みが降ってくる。
「キスしたいなら、直接してくれてよかったのに」
「く、クダリさ…っ」
ちゅく、と湿った音を立てて唇を啄まれる。
クダリさんから香るどろどろに甘い匂いの所為だろうか。
「なまえのえっち」
触れるだけのキスが、焼けるように甘い、なんて。