朝も天気予報はちゃんと見てきた。
昼から夕方にかけて雨、だけど夜頃には上がってところにより星空が見える。
出勤前に見た予報を信じて、どうせ今日も帰りは遅くなるだろうし傘はいらないなあと荷物をひとつ減らしたのだ。
「なまえ、今日はもう上がって大丈夫ですよ。このところずっと遅くまで詰めていたでしょう」
いつもなら泣いて喜ぶようなノボリさんの言葉が今日ばかりは別の意味で泣けてくる。
未だにちらほら見えるお客様の手元にはしっとりと濡れた傘が握られていたし、きっとまだ雨は止んでいない。
折り畳み傘ひとつ鞄に入れる手間を惜しむからだと言われたらそれまでだけど、いつもと同じ時間に上がれば予報通りなら確実に雨には合わないはずだったのだ。
とはいえ、労い100%なノボリさんにいいえまだ残りたいんです仕事をさせてくださいなんて言えたものじゃない。
社畜根性逞しい部下だと余計な誤解を招いて明日から仕事量を増やされたら私は過労死する。
ノボリさんの気遣いは全方位向きなのだ。
受けてにとって、それがプラスであろうとマイナスであろうと。
「………あ、りがとうございます。それじゃあ一足お先に失礼しますね」
「ええ、お疲れ様です」
にこやかに送り出されて引くに引けず、ギアステーションの出口までとぼとぼと重い足取りでやって来たけれど、やっぱりというか案の定というか、小雨にはなっているものの上がりきってはいなかった。
土砂降りの中を帰るよりはマシかと覚悟を決めて飛び出そうと一歩踏み出した瞬間、思い切り鞄を後ろに引っ張られて固い何かに後頭部をぼすんとぶつける。
痛いと訴える前にぜえはあと頭の上から荒い息が降ってきた。
「よかった、まにあったー」
「………引き留めるにしても、もう少し穏便にお願いします」
クダリさん、と呼びかけながら振り返ると、少し照れたようにえへへと笑ってごまかす上司の姿があった。
いやえへへじゃなくて謝れよ可愛いな。
「少し前になまえが上がったって聞いたから、急げば間に合うかと思って。飛び出してきちゃった。ぼくも今日は早上がりなの」
「そうですか」
「うん。一緒に帰ろ!」
元気よくにっこりと笑うクダリさんには、下心だとかそういうものは一切感じられない。
単純に子供がわいわい騒ぎながら帰りがたるような、色気ゼロの「一緒に帰ろう」だ。
クダリさんの精神年齢はスクール辺りで止まっているんじゃないだろうか。
「構いませんけど。………時にクダリさん、傘はお持ちですか」
「持ってないよ?雨が降るのはは昼から夕方、夜は晴れるって言ってた」
「ですよねえ」
鞄以外何も持っていないよく動く両手を見て薄々はわかってました。
しかも同じ予測を立てていたなんて。
「外、まだ雨降ってるみたいなんです。私も夜には上がると思ってましたから、傘持って来てなくて」
「わあなまえってばうっかりさん」
「自分も同じ状況だってこと忘れないでくださいよ」
いい大人2人、傘も持たずに小雨が降りしきる中を並んで帰るだなんてぞっとしない。
「うー、駅員室の置き傘、お昼上がりの子達で完売してたし。相合傘も無理そうだねえ」
「クダリさんと相合傘って、肩半分だだ濡れしそうで嫌ですよ」
「ぼくなまえを濡らさないようにするぐらいの気遣いできるよ!もう、失礼しちゃう!」
頬を膨らませてぷんぷんと怒ってみせるような三十路手前の天使がそんな気遣いを知っているとは意外だった。
クダリさんの気遣いがあったとしても、よほど大きな傘でもなければ濡れずに帰ることは難しいと思うけど。
「………帰りますか。走って」
「あ、待って、ぼくいいこと思いついた」
途端に明るい顔を見せるクダリさんに嫌な予感しかせず、思わず後ずさろうとするもあっけなく腕を掴まれ今度は顔面から再びクダリさんの固い胸板にダイブする。
この天使は気遣いだけじゃなく力加減も知るべきだ。
「あに、するんれすか」
「なまえ、もっと右に来て!そこじゃ濡れちゃう!」
もぞもぞとサブウェイマスターの証でもあるコートの下に引っ張り込まれ、頭の上から覆うように腕で囲まれた。
身長のあるクダリさんのコートにすっぽりと覆われて、天蓋の中にいるみたいだ。
ふわふわ漂ってくるのはお菓子の甘い香りと、多分これは、クダリさんの匂い。
「ね!この中に入ればなまえ濡れない!」
「クダリさんが濡れちゃうでしょう」
「ぼくはいいのー!女の子は体冷やしちゃダメってノボリが言ってたよ!」
それはどんなタイミングでクダリさんがその言葉を聞いたのかちょっと気になるところだけど。
しかしまあ、本人が言っていた通りクダリさんにも常識的な気遣いの心というものはあるみたいだ。
その方法が若干普通よりズレている気はするけど。
何はともあれ、少し密着具合が気になるものの濡れずに済むのはありがたい。
ぴったりとくっついているだけに、気を付けないとクダリさんの足を踏みかねないけど。
足元をしっかり確認して、斜め上にあるクダリさんの顔を見上げながら軽く頭を下げる。
「それじゃあ、申し訳ないですけどこれでお願いします」
「はい、お願いされました。………あはっ、これ何だかなまえを捕まえてるみたい!ほら、前を閉じちゃえば鳥かごみたいなの!」
ばさりと目の前をコートで閉じられ、突然真っ暗になった視界に戸惑ってしまう。
鳥かごと言うよりこれじゃあ隙間のない巣箱だ。
「あの、クダリさ、わっ!?」
「それじゃあ帰ろっか!雨に濡れないように!」
暗い視界のままゆっくりと歩き出したクダリさんに促されて、何も見えないままにおずおずと足を踏み出す。
私がうろたえているのが楽しいのか、クダリさんがコートの前を開けてくれる気配はない。
言い出したら聞かないのはいつものことだし、しばらく付き合うしかないのだろうか。
「本当に、なまえを捕まえられたみたい。こんなに簡単でいいのかなあ」
「え?」
「すっごく、どきどきする。ね?なまえ」
甘く蕩けるような声に、このまま光が差し込まないどこかへ連れて行かれるんじゃないかと恐ろしい考えが浮かんだ。
そう言えば、クダリさん。
どこへ帰るのか、帰してくれるのか、一言も教えてくれていない。