地下鉄に乗る前からかなり怪しい天気だとは思っていたけど、出口を目の前にしてさあさあと静かに響いてくる雨音に思わず足が遅くなった。
今日から梅雨入りなんだってー、嫌だよねー。
どこからともなく聞こえてくる声にまったくだと頷きながら、しっかりと折り畳み傘を広げる音もそこかしこで聞こえ出してうっかり者は私だけかと視線が下がる。

どうしよう、雨の降り方によっては多少濡れてもダッシュ帰宅を辞さない構えではあるけど、もし本格的にざかざか降っていたら流石に悩む。
ギアステーションで販売されているのはバトル施設だけあってポケモン用の道具が多くて、安価なビニール傘なんて物は見たことがない。

「もっと人に優しい施設でもいいでしょうよ…」
「これは申し訳ございません、お客様」
「ひぃっ」

愚痴のように零したひとり言にまさかの返答が返ってきて思い切り肩が跳ねる。
振り返った先にいたのは少し驚いた顔をした、確かここギアステーションのサブウェイマスター、さん。
ノボリさんとクダリさん、双子の兄弟でサブウェイマスターをしているという話は聞いたことがあるけど、目の前のこの人がそのどちらなのかまでは流石に覚えていなかった。

ギアステーションという公共交通機関兼バトル施設の支配人、より重要なのは後者の肩書。
隠れたポケモンバトルのメッカであるライモンシティでは、そこらのアイドルなんかよりもよっぽど名の通った有名人である。

つまりは、その有名人であるギアステーション責任者に施設への八つ当たりじみた愚痴を聞かれてしまったと。

大きな権力を前に、私の吹けば飛ぶようなプライドは簡単にぼきんとへし折れた。

「すっ、すみませんそんなつもりじゃなくて!さっきのはほんの愚痴と言うか八つ当たりみたいなもので!」
「いいえ、愚痴であろうと八つ当たりであろうと、お客様からの大切なご意見です。お言葉、真摯に受け止めさせていただきます。………ところで、お客様」
「はひっ」

思わず裏返った返答に苦笑されてしまい、顔が熱くなる。
だって、目の前のこの人は偉い方で責任者でサブウェイマスターで、しかも間近で見ると採用基準に端麗な容姿って項目でもあるのかってくらいまあ整ったお顔をしていらっしゃって。
例え愚痴を聞かれていなかったとしても、緊張するなって方が無理な話だ。

「何かお困りのご様子でしたが、わたくしでお力になれますでしょうか」
「いえ、困ってたのはすごく個人的なことで、ギアステーションの利用とは関係がありませんから。お構いなく」
「どんなささいなことであれ、このギアステーションでお困りになっていることに違いはございません。わたくしで良ければ、どうぞお使いくださいまし」
「な………」

何という見上げた下僕根性、と言いかけて慌てて咳払いに代える。
いくら接客奉仕が身についているとはいえ、ここまで自然に自分を使えなんて言ってくる人間は初めて見た。

ここまで言われて隠すような理由でもないので、自分の間抜け具合を晒すことにする。
ほんの少しだけ、馬鹿な奴だと思われたくないとか、そんなこと言われてもこちらが困るとか、思われたくないなあなんて格好つけたい気持ちもあったんだけど。

「………傘、忘れちゃって。上は雨が降ってるみたいなので、困ったなーと」
「そうでしたか。少々ここでお待ちを、間違っても走ってお帰りにはならないでくださいましね」
「はぁ………いや、え!?」

私の言葉を聞いた途端、迷うことなくどこかへと早足で向って行ったサブウェイマスターさんを呆然と見送った。
ああ、駅構内は走るなってアナウンス時々流れますもんねとどこか斜めにずれたことを考えながら、帰るなという言葉に従ってそろそろと壁に背中を預ける。

忘れ物の傘でも探しに行ってくれたんだろうか。
そもそも忘れたのは家だから、ギアステーションでどれだけ探しても私の傘は出てくるわけがないのに。
誰の物ともわからない忘れ物の傘を勝手に他のお客に貸し与えてしまうのは流石に無理だろうし。

悶々と考えていると、そう間を置かずに再び早足でサブウェイマスターさんが戻ってきた。
手には真新しいビニール傘を携えて。

「お待たせ致しました。お忘れのものは、こちらですね」
「……あの、私そもそも傘は」

差し出された傘をそっと押し戻しながら、家に傘を忘れた間抜けは私ですとさらに恥を上塗りしようとした時、周りの利用客から隠れるようにしてそっとサブウェイマスターさんの指がしい、と唇の前に立てられる。

「ご安心を。こちらはわたくしが間違って買ってしまったものです。職場に置き傘をしていたことをうっかり忘れて、昼間に慌てて買い込んでしまいました」
「え、でも」
「わたくしが持っていても使い道がございません。失礼ながら、お客様がお持ちになってくださるとわたくしとしては大変助かります。不躾ではございますが、どうぞお客様のお忘れ物としてこちらをお持ちください」

用が済めば捨てて構わないとまで言われてしまい、量産品の安っぽいビニールがテラテラと鈍く光り貰ってしまえと背中を押してくる。

「それじゃあ、ありがたくいただ」
「しー、ですよ」

今度は私の唇に向けて人差し指が立てられ、咎めるように声が潜められる。
いやあの、近い、サブウェイマスターさん顔が近いです。

「鉄道員が私物をお客様に押し付けたとあっては問題になりますので、どうかお客様のお忘れ物として、処理なさってくださいまし」
「はあ………それじゃあ、見つけてくださって、どうもありがとうございまし、た?」

誰が見ているわけでもないだろうに、私の疑問符交じりの言葉に満足気に微笑んだサブウェイマスターさんは傘を私の手に『押し付け』て、軽い会釈を返した。

「梅雨はまだこれからです。今度は、お忘れ物のございませんよう。またのご利用、お待ちしております」

少しだけ声を張りもう一度深々とお辞儀をして、くるりと踵を返し迷いのない足取りで駅構内へと戻って行った。

安価な、どこにでも売ってあるビニール傘なのに。
私は多分、この傘を捨てられない。





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