ノボリ先生とのマンツーマン授業という、一度彼の授業を受けたことがある人間からすれば新手の拷問と思えるような後期の授業も、本日で無事終了である。
確かにノボリ先生の授業の厳しさと妥協のなさには何度挫けるかと思ったか知れないけど、後期の初授業で教室の扉を開けた時の先生の嬉しげな顔を思えば耐えられないものではなかった。
まさかの両手を強く握られ熱烈な「ありがとうございます」と来るんだから、この先生の言動は時々予測できない。
後期になって受け持ちの教室を尋ねてみると生徒が全て受講を停止していたなんて恐るべきトラウマ経験からもわかるように、ノボリ先生の受け持つ講義はその個人の人気に反比例するようなド底辺の不人気さを誇る。
まあ大学の先生なんて大体が変わり者ばかりなので自分の授業の人気度合いなんてさして気にしないものらしいけど、しっかりと数字で提示されるとなると話は変わってくるようで。
「わたくし、これほど配りたくない配布物もございません。できればわたくしの手元には来なかったことにして、シュレッダーで切り刻んでしまいたい………」
「先生駄目です、そういう現実逃避は生徒の特権です。諦めて調査票配ってください」
大学での講義をより良いものにするためだとかなんとか、それらしい名目を以て行われている授業評価アンケート。
この日ばかりは心なしか他の先生方も平静ではないらしく、生徒の様子をそこはかとなく窺ってくる。
通達されるのはあくまで集計結果だけで誰がどんな評価を出したかは教師に伝わらない為、これまでの逆襲とばかりにアンケートに取り組む生徒も多い。
かく言う私も、このアンケートで講師や授業に文句を付けたことは1度や2度じゃなかった。
アンケートの最後に、ご意見があれば自由にどうぞなんて項目があるのがいけないんだ。
普段理不尽な講義を続けられたら、恨み言の3つや4つは軽く出てくる。
その言葉が直接講師に届けられるとなれば余計に。
そうなってくると、ダントツの講義不人気っぷりを誇るノボリ先生がこの調査票をどう思っているかなんて推して知るべしである。
前期も同じようにアンケートは配られたけど、その時どんな評価を生徒から突き付けられたかは先生のこの反応をみればまあ大体は察しが付く。
「いいんです、別にいいんですよ。常勤講師では講義不人気不動の1位だろうと、先生方から同情の視線を一身に受けようと、毎回アンケートでこき下ろされようと、教務課から散々注意を受けようと」
「先生………」
「ええ、いいんです。わたくしが地の底まで落ち込むだけですので」
どうしよう、完全に拗ねて卑屈になっている。
風の噂であまりに酷い評価を出されると教務課から注意を促されるって聞いたことがあるけど、あれ本当だったんだ。
「後期は受講者がなまえさんだけですから、このアンケートは必要ないのではとそれとなく進言してみたのに。あの方々ときたら1人でも生徒がいるならと容赦なく渡してくるんですよこれ………」
「いえノボリ先生その話だと教務課の印象が良くなるだけです」
そしてノボリ先生の印象が悪くなるだけです。
いくら講義を受けているのが私だけだからって、知らないところでさらっと生徒の意見を握りつぶそうとしないでほしい。
「それに、私がそこまで酷い評価を出すと思われてるなら少し心外ですよ。1人でもここまで先生の講義を受けてきたのに」
「なまえさんを疑っているわけではないんです。むしろ貴女は優しい方ですし、今回は集計結果に泣くこともないのではと淡い期待だってしています。ですが、わたくし、この調査票を見ると嫌な思い出ばかりがフラッシュバックして」
いつもの揺るぎない自信と余裕に満ちた先生はどこへやら、である。
講義中どんな変化球な質問を投げたって確実に芯を捕らえて打ち返してくれるのに、今は山なりにボールを投げても逃げられそうだ。
「しっかりしてください先生!私がどんな論文書いてきたって今まで散々こき下ろして来たじゃないですか!!」
「こき下ろしてきてはいません!改善点を述べてきたのです!何度も言いましたが、なまえさんが思っているほど貴女の論文はお粗末なものではございません。今ではしっかりと基本を押さえ、元来の独創的な着眼点も活かされるようになってきたではありませんか。わたくし、毎週持って来てくださるなまえさんの論文が楽しみなのですよ」
そう言って差し出されたのは、調査票ではなく先週提出した私の論文。
先生の添削で赤く染まったレポート用紙は、それでも始めに比べたら赤の比率が随分少なくなった。
ノボリ先生は確かに厳しい。
毎週論文書いて来いなんて無茶を言うし、かと言って手を抜けば容赦なく指摘してくるし、改善されなければあからさまにため息を吐かれる。
それでも、こうして亀の歩みの進歩でもちゃんと褒めてくれるし、毎週頑張っていると労ってくれるし、自分が提示した改善策がわかりにくかったのだと別方向からのアプローチを持って来てくれる。
先生は本当に、文学が好きで、それと同じくらい生徒が好きだ。
それがどれだけありがたいことかは、先生の弟であるクダリ先生の授業を見た日から身に染みて理解している。
あの先生は典型的な学びたかったら勝手に学べタイプだきっと。
「ですから、そうやって自分、ひいては自らの考えや論文を卑下しないように」
「………はい」
「よろしい。それでは、今週の論文を見せていただいても」
「構いませんけど、誤魔化されませんよ先生。後回しでも別にいいです、終わったらちゃんとアンケートは書かせてもらいますから」
「いっ、いいじゃないですか、別にアンケートなんて書かなくても。こんな紙でわたくしたちの信頼関係が崩されるのかと思うと大変遺憾でございます」
あくまでアンケートは酷い評価を出されるものと先生の中で決まっているらしい。
今まで培われてきたマイナスイメージはそう簡単に払拭されないだろうけど、ここまで拒絶反応を見せられるとなんだか可哀想になってくる。
ちょっと講義への熱が入りすぎてるだけで、慣れたらいい先生なんだけどなあ。
まあ私だって逃げられない状況がなかったら受け続けていなかっただけにあまり偉そうなことは言えないけど。
それでも、勿体ないとは思う。
「こんな紙で崩される程度の信頼関係だったんですか私たち。それはとても残念です」
「いえ、あれは言葉の綾と申しますか」
「先生だって前に言ってたじゃないですか、気後れしてばかりじゃ研究は進まないって。それとも、これも言葉の綾でした?」
妙な着眼点の論文ばかり書いている私に、そういった発想も大切なんだから大丈夫だと言ったのは先生だ。
確かあの時も、先生は私の論文を読むことが楽しみだと言ってくれた。
散々こき下ろされ、もとい改善点を並べ立てられた後だったけど。
励ましてくれた言葉を綾扱いされたら、流石に私も落ち込むかもしれない。
「調査票、渡してください」
「………なまえさん、本当に成長しましたね」
「そう、ですか?」
「まさか貴女に言いくるめられる日が来るとは思いませんでした」
それが授業評価アンケートを渡すかどうかなんて下らない内容じゃなかったら、私としてはもっと嬉しかったんだけど。
ようやく調査票を渡してくれた先生が心なし嬉しそうな顔をしているから、ここは素直に私も喜んでおくことにしよう。
「あ、アンケート記入中は先生ちゃんと教室の外に出てくださいね。2人しかいない授業ですけど、決まりは決まりですし」
「以前のなまえさんはもっと遠慮がちで可愛らしかったのですが」
「先生、セクハラで訴えられたいんですか?」
「滅相もございません。昨今そういったことに厳しい世の中ですし、余計な口は叩かずに大人しく教室の外でお待ちしています」
うん、まあ、こうやって軽口も叩ける関係になれたことは私としてはとても嬉しいんだけど。
先生が退出したのをしっかりと確認してから、他のアンケート項目をすっ飛ばして最後に設けられたご意見のスペースに素早く筆を走らせる。
軽口なら、セクハラですよなんて言葉だって言えるんだけど。
流石に、面と向かって1年ありがとうございましたと言えるほど、私の心臓は強くないのだ。