性質的に口の悪い人間というものが、この世には残念ながら存在する。
息をするように人を貶し、瞬きする間に罵倒が飛び出す。
そんな、お前どうやって社会に適合してんの?と膝詰めで問いただしたくなるような人間が、少ないながら確かに存在するのだ。
「そこの胴長短足民族、書類に不備があります。足の長さだけでなくおつむも足りていないとは、勤勉で知られる国民性が聞いて呆れますね」
何さらっと民族ぐるみで馬鹿にしてくれてんだこのクソ上司。
流石に口には出せない言葉を視線で飛ばす。
手渡された書類を見るに文句の付けようもないほど間違いなく私のミスなので、とりあえずもっと言い方ってものがあるだろうと目線で訴えてみた。
嫌なところで聡いこの上司、インゴさんはそれだけでも十分に察してくれたようで、せせら笑いで私の不満を受け流す。
「目は口ほどにとは言いますが、お前といいあちらのボスといい、視線で物事を訴えすぎです。その口使う気がないのでしたらワタクシの暇つぶしに舌を切り刻みますよ」
「パワハラ、お断りです」
「パワハラではなく上司と部下の触れ合いです」
そんな血生臭い触れ合いがあってたまるか。
基本的にインゴさんは私がミスをしようがしまいが終始この調子で、隙あらば私を罵倒しにかかる。
せめてもの救いは、この罵倒が私を特別に嫌っているわけじゃなく生来の口の悪さによるものだってことぐらいだ。
つまりは概ねすべての部下に倦厭されているということである。
その人望のなさを蔭に日向にざまあと嘲笑っているけれど、本人曰く「人望なんてなくても生きていけるので生ごみに出してやりました」らしい。
大半の職員に嫌われているというある意味凄まじい状況も、強がりでもなんでもなく本気で気にしていないご様子である。
それでいいのか、ボスとして。
「……っい、ぐし!!」
最近インゴさんに対していよいよ体が拒絶反応を示し始めたのか、長いこと傍に居るとくしゃみ鼻水じんましん、その他わかりやすいアレルギー症状が出るようになってきた。
特に隠す必要もない、どころかむしろ部下の苦しみ思い知れとくしゃみも鼻水も堪えることなくかましてやる。
女として色々終わっていることはわかっているけど、それを置いても負けられない戦いがそこにはあるのだ。
せめて目の前でぶえっくしょいとくしゃみをかますぐらいの抵抗したって罰は当たらないだろう。
そう心に決めたのがつい先日。
くしゃみの気配を感じたので思いっきりやってやろうと思ったけれど、流石にまだ恥じらいがあるからかいくらか控えめになってしまった。
ちくしょう、次こそインゴさんが思わず顔をしかめるくらいのくしゃみをだな。
「bless you」
インゴさんの呟きに思わず顔を上げると、あからさまにしまったという顔をされた。
しかも天然記念物級に珍しく恥じらっているのか、顔が若干赤くなっている。
え、なに、何て言ったんですかあなた。
まさか今更スラングごときでこんな顔をするとも思えないし。
えーと、私がくしゃみをして、ほぼ反射的にインゴさんが確かぶれすゆーって。
「……………あ」
「聞き間違いです言葉の綾ですただ反射で出てしまったにすぎません」
「……インゴさん、別に恥ずかしいことじゃありませんから。むしろ言い訳すればするほどかわい」
「違う忘れろ今すぐに!!」
最後まで言わせまいと食い気味に叫んだことで、周囲の同僚が何事かと顔を上げた。
普段罵倒することはあっても激昂したり怒鳴ったりすることはほとんどないだけに、何があったのかと職員の視線が一斉に私たち2人に集中する。
その視線を感じ取ったのか、インゴさんの顔の赤みが引いていくにつれて耳や首筋に血の気が移っていく。
普段憎たらしい上司もこんな顔をすれば可愛く見える見えるものだ。
いつもいつも流れるように罵詈雑言を吐き出すその口から、条件反射とはいえ「お大事に」なんて殊勝な言葉が聞けるとは。
しかも無駄にそのことを恥らうもんだから、ここはいつも苦渋を味わっている部下としていいようにからかえという神様からの思し召しとしか。
「部下を心配してくださるなんて、インゴさんも中々優しいですねえ?」
「こ、のっクソアマ…っ」
「またまた、そんなことを言っても先ほどの言葉は取り消せませんよ。クソアマだなんて言っても本当は体調を気遣ってくださってるんですよね」
駄目押しでこれでもかとばかりに輝く笑顔で告げてやれば、怒りと恥じらいで言葉も出ないらしいインゴさんは拳をがたがたと震わせていた。
うん、決して部下に暴力を振るわないところもインゴさんの数少ない褒められた部分だ。
それこそ「大事に」してほしい。
とはいえ、これ以上からかえばどんな報復、もしくは罵詈雑言が飛んでくるかわかったもんじゃないのでそろそろ引き上げるとする。
バトルも悪戯も、引き際が肝心だ。
「Thanks, boss」
大人の礼儀として気づかっていただいたお礼を述べて、席へと戻る。
踵を返した途端、後ろからばきんと鈍い破壊音が耳に届いた。
ああ、高そうな万年筆だったのに勿体ない。