ノボリ先生に双子の弟がいるというのは、この学校では有名な話。
それが理学部の講師ともなれば、あちらこちらと噂がいいように広まっていく。
案の定生徒が激減、というか私1人になってしまい最早講義とは言えない有様になってしまった。
それでも閉講にすることなく律儀に資料を持ってやって来るノボリ先生とは、以前よりも気軽に話せるようになっている。
地獄のような講義は相変わらずだけど、まあ気軽さが増しただけ精神的にも楽、だと思う。
多分。
講義の合間に雑談を挟んでも怒られないというのは、私にとっては大きな発見だった。
「一度見てみたいです、クダリ先生」
「おや、見たこともありませんか?校内をうろついていると言っていましたが」
「うろついてるのは多分第2棟が中心なんじゃないですかね。文学部には敷居が高いです」
「そうですか、………ああ、そう言えば時期も丁度良い頃合いですし」
気晴らしに見学でもいたしますかと悪戯を持ちかけるように提案され、一も二もなく頷いて普段使うことのない第2棟へと向かう。
好奇心もあるけど、単純にノボリ先生とのタイマン授業から抜け出せるっていうなら野鳥観察だろうが喜んで向かってやる。
校舎自体が新しくて施設も整っているこの棟は主に理系の学生の授業に使われているらしくて、1日の授業を端から端まで文系の講義で固めている私にはまったく縁のない棟だ。
「でも先生、気付いたら嫌な顔されませんか?」
「嫌な顔、ですか。むしろあれは喜ぶと思いますが………、いえ、そもそも気付かないでしょう」
ノボリ先生の言葉に疑問を返すより早く、教室のドアが開けられた。
途端に女子の黄色い声や男子の騒ぎ声が響いて来て思わず後ずさりしてしまう。
何これ、今講義中じゃないの、すごくうるさいんですけど。
驚いて固まる私を見かねたのか、先生が腕を引っ張って空いている席まで誘導してくれた。
確かに、このうるささだと気付かないかもしれない。
というか事実教壇に立っている『クダリ先生』は気付かず平然と授業を続けていた。
誰に話しかけるともなく、黒板と教卓を行ったり来たりしながらまったく理解できない講義が展開されている。
思いつきで書かれたような殴り書きの文字に、数字やアルファベットがこれでもかと散りばめられた言葉の羅列。
理系科目からは久しく離れていた私にはまるで異空間だ。
騒ぎ声も相まって頭がぐらぐら揺れてくる。
「………あの、クダリ先生には悪いんですけど、この授業聞いてる人の方が少ないと思うんですが」
隣で腕を組む先生にこっそりと告げれば、呆れたような何かを待ちかねているような何とも言えない表情を浮かべていた。
「そしてクダリ自身碌に聞かせる気もないでしょうからねえ。しかしまあ、今日は少し珍しいものが見られるのです。兄としては是非ともこの愉快な、いえ、興味深い現場をこの目に収めねばと、思わずなまえさんを連れて来てしまいました」
「珍しいものって何です?」
明らかに怪訝な色を見せる私に、オモチャを前にした子供のようなにっこりとした笑顔が向けられる。
おお、珍しい。
そんなにクダリ先生の見せる「珍しいもの」が楽しみなんだろうか。
「事前知識として押さえておくべきは、1つ、クダリは基本的に自分の研究ができれば他はどうでもいいと考えている節があること。2つ、自分が行っていることにある程度のキリが付けば周りの声が耳に入ってくること。3つ、………クダリは、授業を妨害されることを蛇蝎の如く嫌います」
だかつのごとく、なんて日常会話で使う人初めて見た。
咄嗟に脳内変換が追い付かず後半の言葉がすべて平仮名で脳内に表示される。
言葉にそって順番に立てられていった指が、3本きっちり目の前に示された瞬間、それまで機械的に繰り広げられていた講義が一変した。
「ねえ、君たちさあ」
その声を聞いた瞬間、ぞっと鳥肌が立つ。
あからさまな怒りと苛立ちと侮蔑、マイナス感情をこれでもかとばかりに詰め込んだ声がマイクを通して教室中に響き渡り、それまでざわめいていた室内が嘘のように静まり返った。
「騒ぐなら出てってよ、頼むから。つまらないから騒ぐんだよね?だったら受けなくていいよ。講義は無理矢理取るもんじゃないし、他の講義取れば十分単位は補えるって。大学は教師も講義も選べない高校と違って、そういうところは自由でぼく大好き。つまらなくて騒いでる君たちが出て行けばぼくもハッピー、君たちもハッピー、ついでに迷惑顔しながら堪えてる生徒もハッピーでみーんな幸せ!」
さあ出て行けと出口を開け放たれても、動く生徒は1人もいなかった。
ただ1人、ノボリ先生がさも愉快そうに体を震わせている。
これが楽しみにしていた珍しいものだなんて、実はかなりの悪趣味なんじゃないだろうか。
「出て行くのも自由、残るのも自由だよ。まあ残るなら私語は慎んでもらうけど。知ってる?自由には責任が伴うの」
つり上がった口角が嘲るように歪む。
隠す素振りもなく全開で生徒を馬鹿にしていた。
怖い。
この人、ノボリ先生の比じゃなくらい怖い。
何てものを見せてくれたんだ、あの笑顔は絶対今晩の夢に出る。
「………………うん。それじゃあ、授業を続けるね」
何事もなかったかのように、再び数字とアルファベットだらけな言葉が流れだし黒板は走り書きで埋まっていく。
ほっと息を吐いて、未だ隣で体を震わせているノボリ先生を睨んだ。
「これの、何が、愉快で、興味深いんですか」
一語一語突きつけるように問い詰めれば、涙すら浮かべていた先生がようやく私に向き直る。
「あれでいて、弟はわたくしより温厚な性質なのですよ。ああして本気で怒る場面を見られるのは、授業が開講して間もない時期だけの大変珍しいものなのです」
何で私はそんなにも貴重な恐怖体験をわざわざ受けなければならないんだ。
多分、恐らく、願わくば、悪意からのことではないんだろうけど、百歩譲って気分転換として連れてこられたのだと理解したところで、これは私にとっては有難迷惑極まりない。
「ああもう、絶対夢に出る………」
ひっそりと頭を抱えた私に、先生が再び忍び笑った。
これがもしわざとだったら生霊になってでも枕元に立ってやる。