強く吹きすさぶ南風と共に、新たな始まりの予感がした。身震いしながら迎えていた灰色の朝が終わり、緩やかな日差しが俺の身体を包む。時折通り抜けていく風はまだ少しだけ名残惜しそうにひんやりとしていたけれど、それはすぐに消えていった。大きく空気を吸い込めば、春の匂いがした。 今日は卒業式だ。別に出なくたって良かった。現に、俺は式場に顔を出さなかった。校長や来賓の祝辞なんて聞くつもりもなかったし、お涙頂戴の合唱も全く興味がなかった。傍らで女子の啜り泣く声が耳に入るのも煩わしいと思った。ただ、彼女が学校には来いと言ってきたので仕方なく来てやった。 式も最後のHRも終わった頃に校門を潜ると、校舎前で帰りを惜しむ生徒がわんさかいた。そこで俺は何度も女子に名前を呼ばれた気がしたけれど、それを全て無視して校舎に足を踏み入れた。どうせ碌な話ではないとわかっていたからだ。 途中、シズちゃんの怒号が耳に入ったのは意外だった。彼がこんな式に律儀に出席しているとは思っていなかった。でも、次に浮かんだのは彼女の顔で、どうせシズちゃんにも式に出ろとかなんとか言ったのだろう。どうして彼女はあんな奴にまで構うのか。この三年間でその疑問は解消されることはなかった。 そして俺はシズちゃんから逃げるように校舎の中を駆け回り、うまいこと撒いて屋上に逃げ込んだ。諦めて帰ってくれることを願い、俺はベンチに寝そべった。 俺は何しに来たんだろう。日差しの眩しさに耐え切れず瞳を閉じた。すると、どうしてかこの三年間の思い出が蘇ってくる。感傷的になるつもりはさらさらなかったけれど、俺の脳内ではたくさんの記憶がぐるぐると渦を巻いている。ああ、色んなことがあったなあ。 「ここにいたんだ」 この声が聴覚を刺激するまで気付かなかったなんて、不覚だった。目を開けて起き上がると、屋上から校庭を眺める名前がいた。そんな彼女に歩み寄り、同じように俺も見下ろした。校庭にもまだたくさんの生徒が残っている。 「シズちゃんが五月蝿いからさ」 「静雄、ずっと探し回ってたよ」 「はは、見つからなかった?」 「何処にいるか聞かれたけど、知らない振りしてきた」 「気遣いをどうも」 見飽きた俺は、先程寝そべっていたベンチに腰掛ける。それに合わせるように彼女が俺の隣に腰掛けて、卒業証書が入っているであろう筒を差し出す。どうやら代わりにもらってきてくれたようだ。別にいらなかったんだけどな。でも、受け取らないと彼女に怒鳴られるだろうからそれを手に取った。 「なんで式出なかったの?」 「名前は学校に来いとしか言ってなかっただろ?」 「そうだけど…まあ、いいや」 彼女は一瞬不満気に何かを訴える表情を浮かべたが、それを背けてぱたぱたと前後させる自分の足を見つめていた。俯いた顔には寂しさが張り付いている。どうしてそこまで悲観的になるのだろう。これはただの区切りじゃないか。初めから三年で終わることはわかっていたのに。 「そんな悲しそうな顔する必要ないだろ」 「でも、なんか、うん…寂しいよ」 「馬鹿だなあ、名前は」 ぐしゃりと乱暴に頭を撫でれば、彼女は少しだけ微笑んだ。俺が慰めてるとでも思っているのだろう。まあ、間違いじゃないけど。 それから暫く彼女は口を開かなかった。いつもは五月蝿くて耳を塞ぎたくなる程なのに、空を見上げたまま遠い目をしていた。初めて見たかもしれない、こんなにも儚げな表情を浮かべる彼女を俺は知らなかった。未だに俺の知らない彼女がいたことに、俺は僅かな驚きと喜びを感じていた。 そうして何もしないまま時間が流れていく。そこには気まずささえ感じた。妙な違和感に居心地が悪くなる。 「帰ろう」 「もうちょっといたい」 「俺も暇じゃないんだけど?」 「じゃあ帰っていいよ」 「…いればいいんだろ」 何がしたいのかわからない。でも、きっと彼女は何もしなくていいんだと思った。ただこの場所にいられたら。もう二度と訪れることのないこの屋上にいられたら。頭の中では一体何を考えているのだろう、どんな記憶が彼女を巡っているのだろう。 俺たちは三年の間、多くの時間を過ごした。彼女にとってはそれが全てだった。それが人生だった。俺や新羅、シズちゃんでさえ彼女の人生に関わる駒だ。彼女の中であの殺伐とした思い出は一体どんな風に美化されていくのだろうか。でも、思い出してみるとなんだかんだで楽しかったと思う。面倒事ばかりだったけれど、それはそれで。 それはきっと隣に名前が――。 ベンチに手を付こうとすると、彼女の手に触れてしまった。ぴくりとその手が動く。でも、俺はその手ごと包んで手を付いた。彼女の視線が向けられているのがわかったけど、俺は正面を見据えて何も言わなかった。何も言う必要なんて、ないと思った。 その証拠にほら、彼女も何も言ってこない。 「臨也に会えてよかった」 「ん、」 「こんなに変な人、滅多にお目にかかれないもんね」 「はは、失礼だね名前」 「褒めてるの。そう、褒めてる」 「何処がだよ。まあいいけど」 変だと言われて喜ぶ奴がいるとしたらそれは恐らく新羅だろう。あいつはあいつで変を通り越して、挙句は変態の域を軽く凌駕しているけど。 「電話したら出てね」 「ああ」 「メールしたら返事頂戴ね」 「わかったよ」 「会いたくなったら会ってね」 「それはどうしようかな」 「えーひどい」 むくれる顔に俺は笑った。すると更にその表情は酷くなる。名前はおかしいな、本当に。 「嘘だよ、俺も名前に会いたいから」 「…うん」 嬉しそうに頷き、恥ずかしそうに頬を染める。俺も俺で、自分で言っておきながら胸が熱くなるのを感じて彼女の手を強く握り直した。俺は、自分が思っている以上に彼女のことが大切だったのだろう。 「なあ名前」 「ん?」 「俺も、会えてよかったよ」 それを聞いた彼女は一筋の涙を頬に流した。でも、これ以上ないくらいの笑顔を向けてありがとうと紡いだ。俺は苦笑して、その涙を拭ってやった。 彼女に出会えただけでもよかった、というより彼女に出会えたことだけが俺の三年間の全てだろう。それだけで十分過ぎる。 そして、俺は今この瞬間初めて恋慕という感覚を心に宿した。それは今まで抱いていたどんな愛よりもあたたかく、重みのある素晴らしい感情だった。きっとそれは今までの彼女との日々が全てそこにあるからだろう。どの一つが欠けてもきっとこんな気持ちにはならなかった。けれど、どの一つを取ってもこの気持ちに繋がる。 今ならはっきりとわかる。俺は名前のことが好きで大切でたまらなく愛おしい。それは恐らく、ずっと前から。 「そろそろ帰ろっか」 「満足した?」 「どうだろう。でも、もう大丈夫」 「そうか。じゃあ、帰ろうか」 彼女の手を握ったまま立ち上がり、彼女は俺に引かれるように腰を上げた。 握っていた手を繋ぎ直して歩き出す。彼女がそれを振りほどかなかっただけで、俺はここに来てよかったと思えた。出来るならば今すぐにでも彼女を手に入れたかったけれど、少なくとも今はこの生まれたばかりの感情に弄ばれてもいいと、そう思えた。 130309 ご卒業おめでとうございます |