「名前」 「ん、」 別れ際のこの瞬間がわたしは好きだ。ポケットに両手を突っ込みながら腰を曲げて近づいてくる顔。サングラスが当たらないように傾けながら器用に唇を合わせてくる。触れるだけのそれは離れる瞬間も名残惜しそうに少しだけ引っ張られて。 「またな」 「うん、じゃあね」 そうして背を向けた後も、片手を上げてひらひらとさせる。彼が見えなくなるまで見送っているのはもう随分前からバレていた。 付き合い始めは確かにわたしの方が一枚上手だったはずなのに、いつの間にか静雄はわたしを追い越していた。照れて顔を背けるばかりの静雄はいつからか優しく微笑む男性に変わっていた。一緒に過ごす時間の分だけ新しい彼を知り、何度も何度も恋に落ちる。 携帯が震え、画面を見る。それは今背中を向けてわたしから遠ざかっていく彼からで。耳には携帯を当て、振り返ろうとはしなかった。 「どうしたの?」 『そんなに見てねえで、早く帰れよ』 「いいじゃない心配なんだから」 『それは俺の台詞だアホ』 「見てたいからいいの」 『……そうかよ』 そうして暫く街のざわめきだけが耳に流れては消えていく。黙り込んでしまった背中を見つめ、追いかけようかと考えながらも躊躇う足が動こうとしない。今この手が彼に触れたら離れられなくなってしまいそうで。 『やっぱ、』 「ん?」 『終わったらお前んち行くわ』 「……うん」 静雄は振り返らなかった。きっと彼も後ろ髪を引かれているのだろう。わたしと同じように、振り返ったらここまで戻ってきてしまうのだろう。ぴたりと立ち止まって携帯を閉まい、その手で後頭部を掻く仕草に昔の彼の残像が蘇って少しだけ笑った。そしてまた小さくなっていく背中を見つめていると、ああ好きだなと全身で感じた。 その背中が夜の街に消えるまで、消えてからもずっと、甘い唇の余韻に酔いしれていた。 早く、会いたい。 130209 |