【願求環】8続. と俺は嘘を吐いたのだった。 理由は何でもない、‘当主’に命じられたからだ。 俺はあの方に仕えているのではない。 ‘当主’を通して、あの方に使役されているに過ぎない。 だから、彼は死んだことにする、弟にはそう振る舞えと言われればそうする。 せざるを得ない。 どんなにあの小さな肩が震えても。 黒真珠が濡れても。 俺はこの家に仕えているのだから。俺は‘当主’に仕えているのだから。 「だけどお兄様が亡くなって……この家が、私のモノになって。それで、今、話せるのね」 怒るわけでもなく嫌悪するわけでもなく、ただただ悲しそうに寂しそうに、悟ったように諭すように、言う。 俺は頷く。 「‘当主’は亡くなった。次期当主の筈だった彼は追放された。今、この家の総てが貴方のものです」 「だけど貴方はもうこの家のものではないのでしょ」 俺は返事をしなかった。きっと言葉が続くと思った。その通りに小さな唇が開く。 「いいの。わかってるのよ、もう。使役するのと愛し合うのは違うわ。所有するのと愛し合うのも違う。わかってるの、だから大丈夫」 美しい花が夜に咲いて朝までに枯れるように笑った。薄暗闇の中でそれはよく映えた。 「随分冷えてきました。そろそろ、」 「なら貴方が温めて。私はまだ聞いていたいの」 刺繍の花を掻き寄せて言う。我儘だ。だけどあの頃とは違う。我儘だとわかっていて言っている。俺はコートを脱いでサイズの合わない肩に掛けた。そしてまた話し始める。 「彼は死んだ。俺は嘘を吐いた。その証拠に貴方は彼の後姿を見ている。彼が追放された時のことだ。その話をしましょう」 話はまだ続く。 * 彼を棄てに行かなければならない。 裁判傍聴者共に「彼は死んだ。次期当主は死んだ」と告知したからには、彼を棄てに行かなければならない。彼はこの家にいてはならない。 追放だ。 「貴方は、向こう側でしょう?」 尚も彼は言った。変わらない笑顔で。 「そうです」 俺は返した。変わらない言葉で。俺は貴方を処刑する側だ。俺は貴方を追放する側だ。俺は貴方を殺す側だ。変わらない。何も変わっていない。 くたくたの体をだるそうに横たえて、彼は喋る。昏い部屋に彼の白が浮かぶ。 「ヤマトさんが、連れて行ってくれるんですか?」 「……俺が、棄てに行けと。命を受けています」 「では、最期に一緒なのはヤマトさんなんですね」 仄かに咲った。そんなことを言って。 そんなことを聞かれたら。本当に殺されてしまうかもしれないのに。 「いいのです。僕は兄さんに殺されたかった。もう、ずっと、前から」 だから、あんなことを?だから、実兄の目玉を穿り出して犯すなんてことを?俺は訊けないことを訊きたくなった。だけど訊けない。 訊いてしまったら、俺はこちら側ではなくなる。 「立てますか?行きましょう」 「はい。ヤマトさん、左側に立たれると、姿が見えないのですが……」 「ああ、はい」 彼のぽっかりと空いた眼窩。左側だけ。俺の恋人なら、好きな人とお揃いになって嬉しい。なんて言うかもしれない。 彼は左手を前に突き出して探りながら歩きだす。 「どこに行けばよいのでしょう?とりあえず、玄関かな……」 「その格好で?」 彼は白い長襦袢しか身に纏っていない。それを指摘すると、彼は振り返って咲った。 「だって、死にに行くのでしょう?」 俺は頷いた。 「だったら格好なんてなんでもよいではないですか」 そう言って彼はするりと背筋を伸ばした。行きましょう、と言っているように見えた。 玄関まで行ったところで、‘当主’に呼び出された。 「ひとりで行け」 あまりにも酷だろう。しかし彼は艶やかに咲う。 「はい、にいさん」 「兄さんなどと呼ぶな。気持ち悪い」 にやにやと笑いながら嬉しそうに、‘当主’は言った。後は酒を呷るばかりで何も言わなくなったので、俺と彼は並んで部屋を出た。 「では」 そう言って一礼して、彼はひとりで家を出た。 「さようなら、ヤマトさん」 最期にひとひらの咲みを遺して。 俺は末弟のもとへ行き、彼の後姿を見せた。 これが狙いだったのだろうと思ったからだ。 震える小さな肩を後ろから眺めながら、その肩越しの白い後姿を見つめながら、俺は考えに耽った。 実兄を慕う弟。弟を追放する兄。 どちらも正しくない。 愛し方も愛され方も。突き放し方も受け入れ方も。 拗れ拗れて、片方の退場が決まってしまった。 なのにどちらもまだ終わりを感じさせない。まるで遊びの延長だ。 まるでぐるぐる廻るメビウスだ。矛盾の輪はいつまで続くのか。 矛盾の輪はいつまでも続く。それを眺めているのは誰だろう。 末弟か、俺か、他の誰かか。焦点を目の前の黒い後姿に合わせる。 泣いているのだろう、肩の震えが止まらない。この方なのかもしれない。 矛盾の輪に入れずに、眺めているしかない哀れな存在。 かわいそうに。かわいそうに、 なんて思っている俺はどこにもいないのだろうが。 (15/20) 前へ* 目次 #次へ栞を挟む |