ギャー!と、けたたましい叫び声というか悲鳴というか、が聞こえてきた。浴室の方からだ。何事かと、読みかけの週刊誌をその辺に放り投げて浴室に駆け付けた。叫び声の主は、刷りガラスの向こうでまだ小さな奇声を上げている。ひい〜、だとか、来るな、だとか。

駆け付けた…ものの、俺と彼はまだ浴室のドアを断りなく開けていいような間柄ではないので、俺は自分の声が極力紳士的に響くようにと気遣いながら、刷りガラスを拳の背でノックした。

「アーキラさーん、大丈夫?」
「れっ、怜志!頼む、助けて!」
「助けてって、開けていいんすか?」
「いい!から!早く!」

お言葉に甘えて浴室のドアを開けると、立ち込める湯気と甘い石鹸の匂いの中で、アキラさんが床のタイルにうずくまっていた。シャンプーの途中だったのか、髪が濡れそぼって襟足もうなじに張り付いている。同じ男だとは思えないくらい陶器のように真っ白な体に見惚れながらも(しかし依然として紳士的な態度は忘れずに)、俺は悲鳴の原因を探した。

「どうしたんすか?」
「そっちの壁に……!」

シャワーが取り付けられた壁を指をさしながらもその方向を見ようとはせず、アキラさんは小さく震えている。かーわいいな。食べちゃいたい。“そっちの壁”をよく見ると、実にオーソドックスな形の蜘蛛がカサカサと素早く這っていた。ああ、これね。

「アキラさん、蜘蛛?」
「やー!」

やー!て。女子か。

動物や虫にさえ天敵が存在するのだから、人間にも苦手なものの一つや二つあったところで、まるで不思議ではない。だけど、こんなに余裕のないアキラさんを目の当たりにするのは初めてで、不謹慎にもワクワクしてしまう。表立っては分からないらしいが、俺は根っからのサド気質なのだ。

出しっぱなしになっているシャワーを止めてから、壁を這う小さな刺客(あるいは救世主)を手で覆うように捕まえると、窓を開けて外に放ってやった。蜘蛛は無害だし、神様の遣いだから殺しちゃいけないって昔おばあちゃんから聞いていた。だから殺さない。

「アキラさん、もう大丈夫っすよ。にっくき蜘蛛野郎は俺が退治してやりました」

シャワーの音がなくなった今、浴室はとても静かで、俺の下心を隠すように出した不必要に明るい声は、そんな態度を責めるかのように大きく響いてしまう。


 * * *


アキラさんは俺の大学の先輩である。アキラさんが二回生、俺が一回生。憂いを帯びて潤んだ瞳と栗色の髪が印象的な、綺麗なヒト。いまどき流行らないだろうけど、一目惚れだった。

キャンパス内に桜が咲き乱れる入学したての頃、俺がこの美人な先輩に勧誘されて下心ありありで入ったサークルは、映画研究会というなんとも地味なサークル。活動は月2回程度で、新旧問わず映画を視聴覚室のスライドで鑑賞した後、グループで感想や批評を議論する。

元々映画は嫌いじゃないからその活動自体に文句はない。ただ、せっかくアキラさん目当てで入ったのに会えるのが月にほんの数回では満足できなかった俺は、地道な努力で徐々にアキラさんとの距離を詰め、本日ついに、映画鑑賞会という名目でアキラさんのアパートに泊まれることになったのだ。

「あれ、怜志だけ?矢島は?」
「矢島は急にバイトが入ったらしくて来れないみたいっす。アキラさんによろしく、って言ってました」
「ふうん、そう。まあいいか。俺、矢島のことあんま知らねぇし」

これは少し前の、玄関での会話。もちろん矢島など最初から誘っちゃいない。
最初から二人きりだとアキラさんに怪しまれるかと思って、矢島(一回生の男だけど、俺もたいして仲は良くない)の名前を咄嗟に出しただけだ。アキラさんは綺麗な顔して少し抜けてるから、多分俺のベタな嘘も全然疑っていないと思う。

アキラさんが一人暮らししているというアパートの部屋は、物凄く生活感がなかった。俺は、自分の散らかった部屋と目の前のきれい過ぎる部屋を比べて少なからず劣等感を覚えた。

「アキラさん、マジでここで生活してます?」
「はぁ?お前の言うこたぁたいてい意味が分かんないんだよ」

笑いながら言うアキラさんの、薄っぺらな背中から目が離せない。ぴったりとしたカットソーの下の肩甲骨が、くっきりと浮いて見える。今すぐ覆いかぶさって、押し倒してしまいたい。

ごめんねアキラさん。俺は狡い男だから、嘘を吐いてでもアキラさんと二人きりの時間が欲しいんです。そしてあわよくば、イイ関係になりたいとか思っちゃってるんです。

そんなことを悶々と考えながらも、とにかく何本かDVDを見た。それは古い恋愛映画だったり最近のスパイ映画だったりした。そして、ちょうど夜も更けてきたので、アキラさんから順番に風呂に入ることになったのだけれど。

ここで、冒頭の悲鳴である。


 * * *


「ありがと怜志。ごめん、急に。あの、もう……」

蜘蛛がいなくなったとわかった途端、アキラさんは緊張がとけたようだ。彼はほっとした表情で浴室を一通り見渡した後、目の前の俺の視線に気付いて、ものすごく気まずそうな声で言った。

静かな浴室に、アキラさんの体からしたたる水滴の音が響く。ぴちゃん、ぴちゃん。床にうずくまったまま脚をきつく閉じ、体を隠すみたいに両手で抱え込みながら俺を見上げるアキラさん。蜘蛛に怯えていたからか、目尻には涙が浮かんで、多分恥ずかしいんだろうね、耳や首元が薄紅に色付いている。
その姿に、やられてしまった。包み隠さず言うならば、欲情、した。

「痛っ、ちょっ、怜志!?」
「ごめんねアキラさん、俺もう我慢できねっす」
「な、れい……っ!」

ガターンと風呂桶や椅子が転がるのも気にせず、俺は盛った獣に成り下がって、アキラさんを壁のタイルに押しつけた。そのままアキラさんの薄めの唇に噛み付くようなキスをする。その瞬間、押さえた手の下でアキラさんの肩が大きく跳ねたけど、やめてあげない。逃げる舌を絡めとりながら何度も角度を変えて口内を蹂躙し、濡れた音をたてて唇を離すと、アキラさんがくたりと大人しくなった。うまく息継ぎ出来なかったのか、浅い呼吸で酸素を求めている。お互いの唾液で濡れた唇がいやらしい。

「は…っ、はぁ…」
「……アキラさん、こんなときに言うのもアレなんだけどさ」

なんで、ってアキラさんの目が訊いている。なんでなんて、そんなの決まってんじゃん。

「アキラさん、好き」
「……」
「好きなんです。貴方のこと」

ゆっくりゆっくり、確かめるように紡いだ告白に、アキラさんは混乱で瞳を泳がせながら首を小さく振った。

「ダメだって、お前、マジで言ってんの…?ダメだよ、」
「何がダメなんすか?男同士だから?」

自分が今、すごく情けない顔をしているのがわかる。眉間に皺がよって、すがりつくみたいにアキラさんを見てるんだろう。でも、今更もう後には退けないのも確かだ。

「そう、だよ…普通に考えてオカシイだろ、」

アキラさんが、小さく震える。体が冷えてきたのかもしれない。拒絶されるのを覚悟して、華奢な体を腕の中に抱き込んだ。ところが、思ったような抵抗はなく、アキラさんはむしろ、俺に身を預けてくれているように感じた。勘違い、かもしれないけど。

「…じゃあ、俺のこの気持ちは何なんすか?アキラさんの裸に欲情して、貴方を欲しいと思う俺はオカシイですか?」
「んだよソレ…ほんと何…お前、おかしい…よ」

服が濡れるのも構わないで、俺は必死にアキラさんを抱き締めた。実際、床にへたりこんでいるせいでズボンは水を含んでびたびただ。

「ごめんアキラさん。だったら俺、おかしくても何でもいいよ。ずっと、好きでした。アキラさんが欲しい。誰にも渡したくないっす」

惨めなくらいに稚拙な言葉。だけど、この腕の強さがあればアキラさんの心を繋ぎ止められるような気がして。
ただただ夢中で抱き締めた。

「わかった、お前の気持ちはわかったから…ちょっと、考えさせて…」

アキラさんは俺の肩口に額を押し当てたまま、くぐもった声で呟く。
でもここで大人しく退いてしまえば、もうアキラさんをこの腕に抱く日は、悲しいけれど来ないだろうということがうっすら判っていた。
アキラさんはすごく理性的で現実的な人だから、こんなフィクションみたいな展開は望まないのだと思う。それくらいの見当がつくほどには、俺はアキラさんを理解しているつもりだ。

だからこそ今は、卑怯だけど、退くわけにはいかなくて。

「っ、やめろって、怜志!」

制止の声を無視し、アキラさんの首筋に舌を這わせて、ときどき強めに吸い上げる。アキラさんの透き通るように白い肌に面白いくらい鮮やかな紅の花が咲いていく。嬉しさのあまり、俺はしばらくその行為に没頭した。俺の唇とアキラさんの肌が奏でる密やかな音を、体全部で感じながら。

所有の証なんておこがましいことは考えちゃいないけど、確かに今、アキラさんと俺が一緒にいることを刻みたかった。たとえその印はすぐに消えてしまうとしても。

「ん、っふ、」

必死に声を抑える彼の骨の浮く手を握り締め、甲にうやうやしく口付けると、驚いたみたいに目を見開かれた。

「…アキラさん、声、出してください」
「ばッか…、いい加減に、ああっ…!」

言葉では拒絶を並べ立てられるものの、抵抗らしい抵抗はされない。それをいいことに、十分に熱を孕んだアキラさんのものを緩く握り込むと、ついにアキラさんが鼻から抜けるような甘ったるい喘ぎを漏らした。
そして、その声が耳を掠めた瞬間、俺のリミッターは音を立てて弾け飛んだ。

「アキラさん……いいですよ、イッてください。俺の手で…」

熱っぽく低い声で耳元に囁きながら片手をアキラさんの背中に回し、もう片方の手でそれを緩急をつけて扱いてあげると、アキラさんは俺の妄想の遥か上をいく色っぽい表情と喘ぎでしがみついてきた。力の入らない手が、ずるずると俺の二の腕をすべっていく。

「あ、あッ、あん…怜、志」

たまんない。
もうほんと、今なら俺、死んでもいいかもしれない。

「…ごめん、ごめんねアキラさん…好きっす…」

うわ言のように畳み掛ける俺を、アキラさんはどう思っていたのだろう。

「ごめん」と「好きだ」を繰り返しながらの手淫に粘着質な水音はだんだんと大きくなっていき、先端をぐりぐりと親指で刺激してやるとアキラさんの太股が小さく痙攣しだした。そろそろ、かな。

「…アキラさん、イッていいっすよ、」

欲望の赴くまま、目の前にある真っ赤になった小さな耳たぶを噛んだら、それが効いたのか、アキラさんは涙声で「あっ、出ちゃう、」と言いながら俺の手の中で果てた。

今のアキラさんの放った一言を、俺は死んでも忘れないと誓った。


 * * *


気まずい。ひじょうに、気まずい。
あの後アキラさんは俺の顔を見ることもなく、ただ「出ていってくれ」と蚊の鳴くような声で言った。従うほかなかった。何にせよ少し落ち着いたほうがいい(アキラさんだけでなく俺もだ)。後でちゃんと謝ろうと思い、俺はいったん浴室から退散した。

それから、シャワーの音がひどく長く続いたように思う。耳をそばだてていたわけではないけれど、自然と意識が浴室の方にいってしまうのだから仕方がない。

しばらくして戻ってきたアキラさんは、もうすっかりいつもの飄々としたアキラさんだった。耳の辺りがほんのり赤いことを除いては。
ああ、湯上りっていいな。ふわりと漂う石鹸の清潔なにおいに、思わず息を深く吸い込む。

「あの、」

そして、俺がいざ謝ろうと口を開くと、上から被さるようにしてアキラさんの声がそれを遮った。

「怜志は、男が好きなの?」
「いえ、特にそういうわけじゃ…」
「特にって何なんだ、はっきりしないヤツだな」

意外と短気なところがあるアキラさんの狭い眉間にす、と皺がよったのを見て、俺は慌てて彼を怒らせないような言葉を探す。

「あの、今まで付き合ったのはみんな女の子です。男を好きになったのは、その、アキラさんが初めてで」
「最初から、俺のことそういう目で見てたわけ?」
「…ぃ…や、その……」
「はっきりしろよ!」
「そ、そうですすみません!サークル入ったのもアキラさんとちょっとでも近付きたかったからだし今日誘ったのだって少なからず下心があったんです!矢島なんて最初から誘ってません!」
「おま…それは正直すぎんだろ…」

呆れたように冷めた口調で言い放つアキラさんに、自分が口走った言葉を振り返って泣きそうになった。何てこと言っちゃってんの、俺。これじゃただのストーカーみたいじゃん。

「ア、アキラさんがはっきりしろっつったんでしょ!?」

涙声で反論する俺を、アキラさんは少し低いところからじっと見上げている。いつだったか身長を訊いたら、俺よりも6センチ低かったのを覚えている。
俺の目線だと、アキラさんの睫毛がよく見える。サークルの女子たちが羨ましがるほど、長くて濃い睫毛に縁取られた彼の瞳が好きだ。見つめられると、どうしていいか分からなくなって、いつもぴたりと静止してしまう。愛想笑いにもならないような中途半端な笑顔のままで。

今だって例に漏れず、アキラさんの睫毛に視線を集中させていたのだけど。不意に、すべらかな感触が頬を撫でた。アキラさんの手だった。

「アキラさん……?」
「キースがさ、自分はゲイだってカミングアウトしたんだって。昨日、ネットのニュースで知ったんだけど、」
「え、キース?誰ですか?」
「ハリウッドスターだよ。先週サークルで見たギャング映画の主役だったろ?」
「ああ――すみません、そうでしたっけ」

先週はたしか、アキラさんの真後ろの席に座ってしまったもんだから、暗い部屋の中で、スクリーンの薄ぼんやりした光を受けて妖しく白む彼のうなじにばかり意識が向いて、映画にあまり集中できなかったんだ。
あのときの主役といえば、なかなかにワイルドな体格の白人男性だったはず。胸板も厚く背も高くて、セクシーな美女を何人も手玉にとるプレイボーイの役どころだった。その美女の一人とは、部屋中がなんとなくぎこちない雰囲気になってしまうほど濃密なラブシーンもあった。
その彼が、ゲイだったという。欧米じゃ珍しいことでもないらしい。だって結婚できちゃう州もあるんだろ?でもなんで今、その話になったんだろう。

「ネットには彼が恋人と連れ立ってる写真も載ってた。相手はわりと小柄な男で……なんかのファッションモデルって書いてあったけど。別に手を繋いだり、抱き合ったりしてるわけじゃないんだ、普通に並んで立ってるだけなのに、二人の空気感っつーの?そいうのがもう、甘ったるくて、ああ、ラブいんだーってわかんのね」

俺はただアキラさんがぽつぽつ話す言葉に頷いて耳を傾ける。アキラさんって、声もいいんだよな。サックスでいうところのテナー。高すぎず、低すぎない、心地いい声だ。

「それ見てちょっと、羨ましいって思う自分がいて、そんで俺、びっくりしたわけ。何で俺、気持ち悪いとか、ヘンだとか思う前に、羨ましいとか思っちゃってんの?俺ってもしかしてそっちの気があんの?って…」


頬に添えられていた手がゆっくり下がってきて、アキラさんは俺の唇を指先で確かめるみたいにしてさわる。押さえたり、挟んだり。自分の心臓がものすごく早く鳴っているのが分かる。舐めてしまいたい。噛み付いてしまいたい。

さっき蜘蛛退治を仰せつかって風呂に呼ばれるまでは、DVD鑑賞の途中でほんの少し手や肘が触れ合うだけでもラッキーだと思っていたというのに、この目まぐるしい進展はなんだ。

「それに、あんなことされても嫌だとは思わなかった…かな。なんか変な声出るし、すげー恥ずかしかったけど…」
「アキラさん……!」

アキラさん、それは伏し目がちに頬を染めながら言う台詞じゃない。目の前の男(つーか俺だけど)がケダモノだってこと、さっきでじゅうぶん分かったはずでしょう。
俺の口元をうろうろしているアキラさんの手をひっつかんで、荒々しく両手で握り締める。突然の行動に、アキラさんはただでさえ大きな瞳をもっと大きく開いた。

自分の唇を無意識に触ってしまうのは欲求不満のしるしだときくけれど、他人の唇の場合はどうなんだろう。さらに上をいく欲求不満?だとしたらアキラさん、さっきのだけじゃ足らなかったのかな。仮にそうだとして、どうやってその欲求を発散するんだろう。俺じゃない誰かと触れ合うのかな、そのときはやっぱり、あんないやらしい顔を他の誰かに見せてしまうの?

――そんなことをぐるぐる考えた。ものすごく短い時間で。

いやだ。アキラさんに俺じゃない誰かが触れるなんて、耐えられない。相手が男でも女でも、もはや犬猫でもいやな勢いだ。
そういえば俺の長所は『勢いでなんにでも立ち向かっていけるところ』だった(就職活動やバイトの面接で長所を訊かれるたびにこう答えてきた)。だからこの際、その勢いに乗じることにした。この選択が正しいのかどうかなんてことは、判らないけれど。

「それは、たぶん、アキラさんも俺がスキってことなんじゃないかな!」
「はぁ?」

細かく瞬きしている彼の視界を遮って顔を近づける。焦点はとっくに合わない距離だ。ただぼんやりと、栗色の髪の毛や白い肌の色があるだけの。
そしてそのままそっと唇をあわせた。拒まれることはなかった。初めて触れるアキラさんの唇は、なんだかとてもやわらかい。息が詰まるくらい、緊張する。

浴室では、わざとキスはしなかった。あんなふうになし崩し的に襲うみたいなことをする中ではしたくなかった。乙女思考だって笑われるかもしれないけど、やっぱりキスは特別なものだと思うから。まがりなりにも映画研究会に入って俺より真面目に部員やってるんだから、アキラさんもそれくらいのロマンチックさは持ち合わせていてくれることを願う。(アキラさんが選ぶ題材がギャング映画やSF映画ばかりだというのはこの際横においておこう。)

「アキラさん、いや、だった?」

緊張しすぎて掠れてしまった俺の声に、アキラさんは小さく首を振った。

「……べつに、」
「アキラさんはゲイじゃなくて、俺だってそうじゃない。なのにこうやってキスしても嫌じゃないなんて、それってやっぱ、愛なんだよ。愛!」
「…でも、おまえ以外の男とキスなんかしたことないし比べようが、」
「ダメ!比べなくていいってそんなの!」

必死の形相でアキラさんの両肩をつかむと、彼はおかしそうに声を上げて笑いだした。

「怜志、必死すぎんだよ」

付けっぱなしだったテレビの画面はDVDプレイヤーのスクリーンセーバーが稼動中。変なロゴが行ったり来たりしている背景は真っ黒だから、鏡みたいに俺たちが映っている。
確かにアキラさんの細っこい肩を掴んで仁王立ちしている俺は、相当必死に見えた。情けない気がしなくもなかったけれど、そんなことを言っている場合ではない。

「必死にもなりますって。アキラさんしっかりしてそうで相当抜けてっから、ほんとにフラフラ他の男んとこいっちゃいそうだし」
「人を尻軽みたいに言うんじゃねー」
「いってぇ!!」

かなり本気のデコピンを食らってうずくまる俺の背中に、アキラさんがのしかかってくる。風呂上りのアキラさんはなんだかとても温かい。離れてしまうのが勿体無くて、そのままの体勢でじんじんする額を手でさすっていると、後ろから首にキスをされた。襟足の下、頸髄のあたり。それだけで額の痛みなんか一瞬にして飛んでしまった。

「いいよ、怜志。俺、おまえの言う愛っての、信じてやっても」
「う、そ」
「嘘って言ってほしい?」
「ダメ!信じて!」
「怜志、今なら何でも言うこと聞きそうだね。ワンっつってみ?」
「ワン!」
「ばーか」

けらけら笑うアキラさんは、もう一度俺の首に吸い付いてから、耳元で小さく言った。やっぱ、好きっつって、と。

ああもう、そんな願い、すぐに叶えてあげられる。もっと無理難題だって、アキラさんのためなら頑張っちゃうよ。

覆いかぶさってくる腕を少し強引に引き寄せて、力いっぱい抱きしめる。折れてしまうんじゃないかと思うくらい華奢な体。鼻腔をくすぐる洗い立ての香り。

「好き、アキラさん。ちょー好き。マジ好き。大好き」
「ばーか」
「アキラさんも言って、」
「そのうちなー」

初めて出会った頃からずっと、アキラさんを目で追いかけてきた。上品な猫みたいな雰囲気が好きだった。綺麗な顔して激しい映画ばかり好きなところも、慣れるとけっこう図々しいところも、なんだかもう全部、いいと思った。もっと近づきたい、そばに居たいと、そればっかり考えていた。
それが今自分の腕の中で笑ってくれているだなんて、もしかしたら俺、そろそろ死ぬのかもしれない。

一匹の小さな蜘蛛がもたらしてくれた大きな幸せ。
アキラさんには申し訳ないけど、やっぱり蜘蛛は神様の遣いかもしれないよ、おばあちゃん。




Fin. 2010415




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