背広と制服



「まだ制服着てるような子供のくせに、馬鹿じゃないの!?」

乾いた音をたてて、頬を打たれた。
修羅場だ。

女の指にはめられた幾つかの指輪は、走る痛みの大きさを少しだけ上乗せする。
それが左手の薬指にはめられたものなら、なおさら、だ。

――自分の武器を最大限に使うことの、何が悪いのか。

女の武器が涙なら、俺の武器は制服だ。花の男子高校生。若いっていうのはそれだけで、時折驚くくらいの強みになる。

「……和彦さんは、俺を抱くとき、制服姿が好きだって言ったよ」

女が鬼の形相で俺のすぐ傍に立っている和彦さんを睨みつけると、和彦さんは黙って彼女を申し訳なさそうに見た。

頬を伝ったなまあたたかいぬめりを指先で拭いながら、俺はこれ以上ないというくらいに眉間に皺を寄せて目の前の女を睨み返す。
先刻揉みあったときに、必要以上に長い彼女の真っ赤な爪が俺のやわい皮膚の上を滑ったのだろう。
痛覚はそれほど敏感なほうではない。ただ、憎しみや不快感の方が大きかった。

俺の和彦さんを、なんて目で見るんだ。

女は化粧が崩れるのも気にせず、ただ泣きじゃくりながら、ヒステリックに罵詈雑言を吐き、俺のいとしい人の胸を力任せに叩いている。

――どうしてなのよ!あなた、私をずっと裏切ってたのね!

耳をつんざくその甲高い声が頭痛を引き起こす。
裏切るって何だ。あんたの信頼に値する忠誠か?知らないよそんなもの。

俺は腹の中にひんやりとして澄み切った水がとくとくとたまって嵩を増してゆくのを感じながら、女の細い肩をつかんで床に叩き付けた。

「きゃあ!」
「うるさいよ、おばさん」
「い、痛い、何するの、ケーサツ呼ぶわよ!」
「呼べば?ケーサツでも何でも。俺はアンタが主人を男子高生に寝取られた哀れなオバサンって思われようが、一向に構わないからさ、」
「……!」

女は床に座り込んだまま立ち上がる気配がない。

俺は彼女の乱れた髪や痩せすぎた膝なんかを冷めた目で見下ろしてから、さっきから悲しそうに立っている、いとしい人の腕を半ば無理やりに掴んでその部屋を後にした。


* * *



和彦さんの住む高級マンションを出て、近くのひっそりとした公園まで無言で歩いた。
真夜中の公園は人影もなく、ただ生ぬるい風が凪いでいるだけだ。ときどき、名前のわからない虫が遠慮がちに鳴いている。

古びたベンチに並んで腰掛ける。そういえば、初めて和彦さんと出会ったのも、どこかの公園だった。

学校をサボって一人でふらふらしていた俺と、会社の昼休みに休憩していた和彦さん。もう2年も前のことだけれど、鮮明に覚えている。和彦さんは高そうでお洒落な背広をびっくりするくらい着こなしていて、そのピシっとした感じと手元の安っぽいコンビニ弁当が全然あっていなくて、思わず声を掛けたのだ。お兄さん、独身なの?と。

「……ごめんね、和彦さん」
「どうしておまえが謝るんだ」
「俺は和彦さんを傷つけたくないんだ。ほんの少しも。あの人はかつて和彦さんが愛した人なのに、俺はその思い出を、傷つけたんじゃないのかなって……、」

大きな手が俺の頭に乗せられる。ぽん、ぽん、と何度も優しいリズムで撫でて、ときどき髪を指に絡ませては離れていく。この撫で方は和彦さんのクセだ。

「おまえは悪くないよ。悪いのは俺だ。いつかちゃんと――と思ってはいたんだ、」
「でも……」

和彦さんの奥さんも和彦さんとは違う会社で働いている。出張で今夜は家に帰ってこないということだったから、久しぶりに和彦さんの部屋に行ったところ、仕事が早く片付いて奥さんが突然帰宅してしまったのだ。
夜中に自分の旦那と寝室にいた高校生に疑念を抱いた奥さんが問い詰める前に、和彦さんが俺との関係を告白したはいいけれど、そこから昼ドラもびっくりの修羅場が幕を開けた。まだ事に及ぶ前だったのがせめてもの救いだろうか。

「それにさ、俺がお前の制服姿が好きなのも間違ってないしな」

和彦さんは目尻に何本も皺を刻んで笑いながら、俺の制服のタイや校章が刺繍されたワッペンを指でなぞった。きれいな手をしている。和彦さんに会うまで、大人の男の手はみんな不恰好だと思っていた。
 
あの日、独身なの?と尋ねた俺に、和彦さんはきょとんとしてから、だったら何だ、不良高校生、と笑いかけてくれた。後ろに流した鳶色の髪と、色素の薄い優しげな瞳に釘付けになった。

小さいころに父をなくして母親と二人で生活してきたせいか、大人の男に対する執着というか羨望、憧憬は、かたちを変えて恋愛感情として俺の心に根付くようになっていた。

初恋は小学校の体育の先生だったし、和彦さんに出会う前に付き合っていたのは、所属しているサッカー部にコーチとしてやってくるOBの先輩。みんな父親というには若すぎるけれど、それでも包容力や頼りがいのあるタイプだった。

そして和彦さんは、今まで見た中で一番魅力的な人だった。聞けば、若くして会社の重役を務めているらしい。社会的地位の高さはカリスマ性や包容力に比例する。そして本能的に感じた家庭的な父性は、たぶん既婚者だったからなのだと思う。今から思えば。

和彦さんが既婚者だと知ったのは、初めて体を繋いだ日だ。何度か公園で話すうちにどんどん彼のことを好きになって、そのうち募る想いを止められなくなって、俺からホテルに誘った。自分から誘ったくせに、緊張していまひとつ大胆になりきれない俺に、和彦さんは優しくしてくれた。制服姿を、「いいね」と言ってくれた。だから俺は、和彦さんと会うときに制服以外を着たことがない。

「でも俺、もう次の春には卒業だから、制服じゃなくなっちゃうよ」
「はは、別にそれだけじゃないだろう。確かに高校の制服着たおまえを抱くのは格別だけど、な。悪いことしてるって自覚が、快感に繋がるんだろうなぁ」
「……オヤジだ」
「オヤジだよ。おまえと幾つ違うと思ってんだ」

和彦さんの細められた目にふわりと優しい色が灯る。
一回り以上――下手をすれば、親子ほど歳の離れた俺たちは、それでも愛し合っている。この関係が褒められたことではないことくらいわかっているけれど、今の俺には和彦さん以外の誰かを好きになるだなんて、考えられない。

公園の真ん中にぼんやりと突っ立っている時計の薄暗い文字盤は、午前二時を指している。今日はまだ火曜日だ。俺は夏休みだけど、和彦さんは明日も仕事がある。いずれマンションに帰らなくてはならない。このまま二人でどこかに消えてしまえればいいのに。そう思って、和彦さんの手をきつく握った。でも、世の中はそんなに甘くないのが現実だ。

「奥さん、まだ泣いてるかな」
「かもな。あれで案外脆いとこのあるやつなんだ」
「ひどいことしちゃった、俺。女の人に手を上げるなんて」
「俺が謝っておくよ。それに、おまえも怪我してるじゃないか、すまない」

ここ、と和彦さんの指が俺の頬の傷に触れた。つけられた時はそれほど痛くなかったのに、どうしてか今は、触れられた下で血が騒いでいるように思う。いつだって、和彦さんに触れられるとこうだ。胸が高鳴って、血の巡りがやけに早くなって、うまく息が出来ない。

「……奥さんがしたことを、和彦さんに謝られたくない」
「そういう意味じゃないさ。きれいな肌に傷がついたのが、ただ申し訳ないんだ」
「和彦さん……舐めて、」

顎をそっと持ち上げられ、傷口に和彦さんの舌が触れる。ざらついた温かさに、体の奥がきゅ、となる。

好きだ。好きだ。この人が、とても好きだ。今すぐにここで抱いてほしい。混ざり合いたい。溶け合いたい。融け合いたいよ。

「和彦さ、ん――」

今度は俺から和彦さんの乾いた唇に舌を這わせ、中に滑り込ませた。ぴちゃり、という濡れた音が静まり返った公園でひどく大きく響いているような気がして、興奮した。何度も何度も角度を変えてキスをする。長い腕で背中ごと抱き締められながら、腫れるくらい唇を吸われる。そのまま食べてしまってほしい。何もかも全部。そうしてこの人の一部になれたなら、俺はもう何にも要らないや――

「ん……、今日はここまで、な」
「やだ、もうちょっと、」
「おまえの我侭は、全部聞いてやりたくなるから困る」

耳元でそう囁いた和彦さんに、もう一度深く甘いキスをしてもらう。頭の芯がとろけて、吐息交じりの変な声が喉の奥から出た。

「さあ、俺は今から戦場に舞い戻らなくちゃならない」
「俺、は」
「おまえは自分ちに帰れ、母さん心配してるだろうから」
「――うん」
「大丈夫だよ。悪いようにはならない。少なくともおまえにとっては、な」
「どういう意味?」
「俺にとっては少々分が悪い問題だってことだよ。離婚するつもりだけど、そう簡単にいかないかもしれない。会社の目だってある。でも俺は、おまえだけは放したくないよ」

ベンチから立ち上がって伸びをする和彦さんの背広の裾が、皺だらけになっている。
グレーに細い銀のストライプが入ったそのスーツは和彦さんのお気に入りで、よく着ているものだからいつの間にか俺も気に入っている。

「――そういえば俺、スーツ以外の和彦さんって、見たことないかも」

平日はもちろん、休日にデートをしたときも、私服を見たことがないはずだ。

「ばーか」
「え?」
「お前が言ったんだろう、スーツ似合うね、かっこいいな、って」
「そうだ……っけ」

笑ってしまった。ちっぽけなことに臆病になってしまうのも、恋の醍醐味というわけか。

和彦さんの前で制服以外着たことのない俺と、俺の前でスーツ以外着たことのない和彦さん。

俺たちはきっと、これからもうまくやっていけるよ。漠然とそう思いながら、皺だらけの広い背中に抱きついた。





『お兄さん、独身なの?』
『だったら何だ、不良高校生』
『不良って、』
『こんな真昼間にふらふらしてるやつは不良だ』
『それより、お兄さんスーツ似合うね、かっこいいな』
『はあ?』
『俺、スーツ似合う人大好き。ねえねえ、俺と友達んなってよ――』






Fin.



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