昼休み。
飲み干した野菜ジュースの紙パックを、斗馬(とうま)は、ぎり、と握り締めた。
目の前でふにゃりと人懐っこい笑顔を見せてクラスの女子たちと談笑している臣(おみ)をうらめしそうに見ている斗馬に、臣はまったく気がついていない様子だ。

「だからねー、夏休み、みんなで遊びに行こうよぉー」
短いスカートの上にキャメル色のカーデガンを巻いた女子が言う。きついコロンの香りと媚びた声に眉をひそめたのは斗馬だけで、臣は変わらずにっこりとしたまま斗馬を振り返った。
「みんなでかぁ……斗馬も?」
「うんうん、斗馬くんも行こーよ」
別の女子が甘えた声で自分を誘うのを、斗馬は煩わしく感じた。
彼女は、以前斗馬が少し気に入っていたはずの子だった。たっぷりした黒い髪を、頭のてっぺんでおだんごにしている。大きな瞳と控えめなえくぼが好きだったように思うのだけれど、今はなんとも思わない。

「俺、夏休み忙しいからムリだわ」
そう切り捨てるように告げ、斗馬はその場を後にした。少しの静まりの後、女の子たちの不満げな声が聞こえていた。


――だいたい、臣は誰にでも優しすぎるのがいけない。
早足で、第二音楽室へと向かいながら考える。一刻も早く、落ち着かなくてはいけない。
ここ数日、些細なことですぐイライラしてしまう。臣のせいだ。

第二音楽室は主にクラブ活動に使用されるので、放課後まではほとんど人が来ない。斗馬にとって、屋上よりもずっといい、気に入りの場所だ。
つややかなグランドピアノの前に座り、重みのある蓋を開け、そっと鍵盤に指をのせる。ひんやりとした、でも確かなぬくもりのある感触に、斗馬はさっきまでの苛立ちがすっとさめていくのを感じた。
そのまま、思いつくままに鍵盤の上で細い指を遊ばせる。幼い頃に姉と一緒に習い始めたピアノ。いつの間にか、姉よりも上手く弾けるようになった頃から、斗馬にとってピアノはストレス発散の最も効果的な手段になっていた。

何も考えず、無心になってただひたすら鍵盤を叩き、長い一曲を弾き終えると、誰もいなかったはずの部屋に、パチパチと乾いた音の拍手が一人分、響いた。

「……臣、」
「ふふ、相変わらず上手いね。俺、音楽なんてぜーんぜん分かんないけど、おまえのピアノは好きだな」
「いつから居たの。もう授業始まってんだろ」
「斗馬が居ない教室には興味がない」

臣は真剣な顔でそう言うと、椅子に座る斗馬を後ろから優しく抱き締めた。
斗馬はそれを振り払おうとして、すぐに諦める。ピアノを弾くよりも、イライラを落ち着かせてくれるのが臣の腕だということは、自分が一番よく分かっている。
泣き出したくなるのをこらえ、斗馬は臣の胸にもたれ掛かった。

「斗馬、どうしたの?急に怒っちゃうから」
「別に怒ってない」
「じゃあ拗ねた?」
「ちがっ!」
勢い良く振り返った斗馬の頬を両手で挟み込むと、臣はにっこりと邪気のない笑みを浮かべ、少し困ったように眉を寄せた。
「じゃあ何で、俺を置いて出てったの?」
「お前は女の子たちと喋ってる途中だっただろう」
「……斗馬の居ない教室には興味がない」
聞いたセリフを呟くと、臣は斗馬の小さな唇に唇を重ねた。柔く、はむようにそれをついばみ、最後にちゅ、と音をたてて離れる。
「……ばか。」
満ち足りた気分になってしまうことに悔しさを感じながら、斗馬はもう一度自分から、臣にキスを返した。

鈍感で人当たりのいい臣。
みんなに優しい臣。
臣に会った人間は、たいてい臣を好きになる。協調性も社交性もない自分とは正反対なのに、どうして臣は自分を好きになってくれたのだろう。
それが分からないから、不安になって、焦りが生じて、子供じみた行動を起こしてしまうのだ。
気のきいた言葉ひとつ言えず、いつの間にか自己分析ばかり得意になってしまった。

「斗馬、夏休み忙しいの?」
「ばか。あんなの本気にすんな」
「俺とは会える?」
「お望みとあらば、毎日でも」
斗馬がおどけて言うと、臣は心底嬉しそうに笑った。

斗馬と臣の場合、出逢いそのものが恋に落ちた瞬間だった。お互い同性愛者なわけでもないし、面識もなかった。ただ、共通の友人に紹介されて、よろしく、なんて手を軽く握り合ったとき、二人はもう、惹かれ合ってしまったのだ(臣はこの出逢いを振り返っては、運命的という言葉をしきりに繰り返す。出逢いが運命的であれば、二度と離れることがないかのように)。

音楽室は、壁が防音になっているのでどちらも黙ってしまうと本当に静かだ。
「もう一曲、何か弾いて」
斗馬の猫っ毛を優しく撫でつけながら、臣がせがむ。
「ん……」
椅子にきちんと座り直し、呼吸を整えてから、斗馬が再び鍵盤を叩き始めた。

音の波にさらわれる、と臣は目を閉じながら思う。まるで、恋にさらわれるみたいに、斗馬が奏でる音が自分をのみこんでゆく感じが好きだった。
音楽に疎い臣には、このモノクロの木片を巧みに操る斗馬が魔法使いか何かにさえ思える。こんなに華奢で頼りない背中が、力強い音を出すことにも驚く。
けれど、そこがまた、倒錯的でいい。

とにかく臣は、斗馬のすることなら何でも好きなのだ。そして斗馬は、臣のこういうところがずるいと思う。
たとえば喧嘩をしても、それはもはや喧嘩にはならない。斗馬が一人ヒステリックになっているのを、臣が聖母的なまなざしですべて甘受しているだけになってしまう(今日だってそうだ)。

最後のコーダを弾き終えて、斗馬が鍵盤からそっと指を離す。
音がソフトクリームの先のような余韻をひくのを待って、臣は斗馬の指先にキスをした。それは恐ろしく甘やかな、愛の誓い。


二人揃って教室に戻ったら、クラスメイトたちは自分たちに注目するだろうか。
いっそ、彼らの目の前で、臣の襟元をつかんでキスをしてやりたい。
そのときのクラスメイトたちの顔を想像しながら、斗馬は音楽室の扉を閉じた。


「なに?にこにこして」
「べーつにー」






Fin.




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