ロス・タイム


降りしきる雨の中、安物のビニル傘をさしてのろのろと歩く。予期せぬ夕立ちに、駅前のコンビニで買った、300円の華奢な傘だ。最近、天気予報が当たりにくくなっていると思う。予報技術の進歩よりも、人間が作り出した異常気象の方が勝るということだろうか。

待ち合わせ場所まではバスに乗らなくてはいけない。遠くにだが、バス停が見えてきた。

――じわり。

随分むかしに買った気に入りの黒いブーツは雨水をはじいてくれない。最近では、雨の日にははかないようにしていたのに。憂鬱な気分になるのを振り払うように、水溜まりを軽く飛び越える。跳ねた雨水がデニムに細かな染みを作ったけれど、気にせずバス停まで歩いた。

『明日、会おうよ。』

突然の彼からのメールに、僕は、いいよ、としか返せなかった。他にも言うべきことは、有り余るほどだったのに。




彼とは、三年前に、予備校帰りに立ち寄ったカフェで出会った。
彼はそこのウェイターだった。

緩くパーマをかけた明るい茶色の髪は品ある飼い犬のようで、上がり気味の口角と相まって人懐っこい印象を与える。何より、彼は本当に美しかった。異国の血が混じっているのかもしれない。茶色い瞳が人形のようだった。
すらりとした肢体に、白いYシャツと腰から足元までの黒いタイトなエプロンを身につけた様は、とても清潔に見えた。

冷めきったカフェラテを傍らにおいて、予備校のテキストを読む僕の手に、彼がそっと握らせたメモには、走り書きされた連絡先があった。
それが、僕らの始まりだった。


その頃の僕は、17歳なんていう思春期真っ盛りで、自分の性的嗜好が普通のそれとは相反するものであることをひどく憎んでいた。

普通になりたかった。

だけど、その一方で、普通ではないことを否定せずにそのまま愛してほしかった。
見ず知らずのウェイターと関わりを持とうと考えた理由もそこにあって、別段彼に一目惚れしたとかではなく、ただ、自分をいま居るどろどろとした場所からすくい上げてくれるのなら、誰でもよかったのかもしれない。


初めて二人きりで逢った日、僕は誘われるまま、何の迷いもなく安いラブホテルに入った。この先僕に、誰かと触れ合う日がくるかどうかなんてわからないのだから、機会を逃してはいけない。そう思ったのだ。僕は普通じゃないんだから。

「おまえ、奇麗な目をするんだね」

広すぎるベッドで彼の下になっているときに、不意にそう言われた。
こういう行為自体が初めてだった僕は本当に何が何だかわからないまま、彼の骨ばった指が体じゅうを這い回り、舌が耳元で濡れた音をたてるたびに小さく震えていたので、自分がどんな目をしているのかなんて考える隙はなかったけれど。

彼の低い掠れた声や、意外と筋肉質な腕なんかの男らしい部分を意識すると、よけいに感じてしまう。
そのことに少なからず絶望しながら、僕は彼をくわえ込んだまま何度も……そうだ、何度となく、吐精した。

「んっ、んっ、あ、は…ん…っ」
自分の口から、信じられないような声が出てしまう。慌てておし殺そうと、噛みかけた唇を無理にふさがれる。
「……いい?ね、いいの?初めてなのにこんな感じちゃって……かわいいね、ほら、言ってみな、イイって、」
彼は僕が恥ずかしがるのを悦んだ。いっそ理性を失えれば楽なのに、それすらさせてくれず、ギリギリのところでつなぎ止めるから、羞恥心ばかりが剥き出しにされるのだ。非道い人だ。
「っふ、あ、ン…いい、いい……!」
揺さぶられながら、途切れ途切れにはしたない言葉を口にした。


彼との関係は一度では終わらなかった。かといって特別な存在になれるわけでもなく(僕は自分がそれを望んでいるのかさえわからなかった)、ほんとうに彼の思いつきで誘われて、そして抱かれる。それの繰り返しだった。特に定まったスパンはなくて、頻繁に呼ばれることもあれば、3ヶ月音沙汰がないこともあった。

会わない期間がどんなに長くたってこっちから連絡をしなかったのは、中途半端な僕のプライドだったのかもしれない。
彼以外の人間と体を重ねなかったのは、自分の中が彼の形や温度を覚えて、馴れていくことが少なからず心地よかったからかもしれない。




乗り込んだバスは空いていた。湿っぽい雨の日特有の空気を極力吸い込まないようにしながら、一番後ろの窓際に座る。僕だけを新たに乗せ、のろのろとバスが発車した。ひんやりとした窓に、雨が細かい破線を斜めに描くのをぼんやりと眺め、僕はさらに彼のことを考える。




ひとつ思い出に残っていることといえば、去年の僕の誕生日に、彼がブローチをプレゼントしてくれたことだ。
いつものように唐突に呼び出され、またホテルへ直行かと思ったところに、小さな包みを渡された。
「誕生日、今日だったでしょ、」
きちんとプレゼント包装された真っ白な包みからは、真鍮で出来たクラウン型のブローチが出てきた。
「おまえにね、似合うと思ったんだ」
彼がそう言いながら、信号待ちの交差点で人目を気にせず鼻先に優しいキスをくれたとき、僕はついに、耐えきれず涙を零してしまった。それまでどんなに泣きたくたって、我慢してきたというのに。

「嬉しい?」
「…うん」
「俺と会うときは、付けておいでね」
「…うん」
「いい子だ」

どういうつもりでプレゼントなんてくれたのか、尋ねる勇気はなかった。気まぐれでも嬉しかったのは本当だ。
言えない言葉の代わりに、その夜は精いっぱい彼を愛した。




あれから四つの季節が過ぎた。
相変わらず彼からの連絡はあったりなかったりだけれど、少し以前より頻度が増したような気がする。

考えてみれば、彼に深く入り込もうとしなかったのは僕の方かもしれない。失うくらいなら、初めから手に入れたくなかったから。本当はとっくに絆されていたのに、認めることから目を背けてきた。
彼は僕に一度も愛してると言わなかっただろうか?思い出せない?否、ベッドで彼は、何度となくそう呟いてたじゃないか。盛り上がるための睦言だろうと取り合わなかったのは……僕の方、だ。


今日は一年ぶりの、僕の誕生日。
胸元には真鍮のクラウン。
彼に、伝えたい言葉がある。
初めて、失ってもいいくらい手に入れたいと思ったんだ。

長いこと揺られたバスを降りた。いつの間にか雨は止んでいた。

「やあ、久しぶり。」
待ち合わせ場所の交差点に、僕と同じ安物のビニル傘を片手に持った彼がいた。相変わらずの清潔感、優しい笑顔。(あ、髪が真っ黒に染められている。)それが少し寂しそうに見えたので、急いた僕は、挨拶もおざなりに告げた。真っ直ぐに彼を見上げて、茶色いくすんだ瞳を見つめて。
「あのね、好きだよ、愛してるんだ」

初めて、彼が驚いた顔を見た。
初めて、彼が泣いた顔を見た。
去年僕が泣いた交差点で、彼は綺麗な顔を歪めて泣いたのだ。

「もう、諦めてたんだ。おまえは全然俺の気持ちに気づかないから……今日だって、これで終わりにしようってね、思ってたんだよ」
透明の雫が彼の頬を伝うのを、夢心地で見ていた。あまりに美しくて、目がそらせなかった。美しい人は、泣き顔までもが芸術的だ。
「ごめんね、ほんとはとっくに、好きになってた……終わりだなんて言わないで」
惚けて目を見たまま紡いだ言葉に、彼は無邪気に笑ってくれた。この人のこんな表情を見たのは、いつぶりだろう。随分長い間、見ていなかったように思う。


「もったいないことしちゃったな、人生は短いのに。意地を張らずにもっと早く、おまえに縋ればよかった」


いつも大人らしくて余裕のある彼がそんなことを言うので、僕はどうしていいかわからずに不器用に微笑むしか出来なかった。


見上げた空には、大きな虹が架かっていた。






Fin.



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