予防接種の話をしよう。
とてもタイムリーな話で、それは今日の出来事。
インフルエンザの予防接種を受けてきたのだ。
左の二の腕、肩の少し下あたり。消毒されて、軽くその部分を摘ままれて、注射の針を刺される。少しちくっとした程度で痛みはほとんどなかった。
なんだこんなもんかとほっとしたのも束の間、ワクチンが体内に押し出された瞬間とても痛くて驚いた。正直少し泣きそうになった。
私は元来痛みには強い方だと自負していたので予想外だった。

そんな話を目の前にいる雷蔵に話す。
今は焼肉屋で、二週間ぶりに顔を合わせている最中だ。
片手には乾杯のアルコールがあるが、私も雷蔵もそれ以上はいつも飲まない。
他愛のない話だ。雷蔵はそうだったんだね、と相槌をうつ。

「予防接種なんて受けたことないや。受験とか就活の時くらい」

雷蔵はグラスに口をつけて言った。

「私は就職して初めて打った。今年で二回目。去年そんなに痛いなんて思った記憶ないんだけどな」
「単に忘れてるだけじゃない?」
「そうなのかなあ。小さい子とか自慢げに泣かなかなかったよって言ってるけど、自慢していいレベルだったわ。大人でも痛くて涙出そうになる」
「筋肉注射は痛いって聞くけど大袈裟じゃない?」
「そんなことない」

雷蔵は目元に笑みを浮かべながら私の話を聞いてくれる。
店員のお兄さんが運んできてくれたお肉を網に乗せて、それと一緒にきたサラダを食べる。

「焼き肉なんて久しぶり」

嬉しそうに雷蔵が言うので、頷いて同意する。

「私もだ。いつぶりだろう」
「僕は夏に外でやった以来かも」
「それバーベキューじゃない」
「でも肉は焼いたし」
「大雑把もそこまできたら芸術だよ」
「それ褒めてないだろう」
「そんなことないよ。あ、そっち焼けてる、ひっくり返して」

サラダを食べながら私が言うと肉をひっくり返してくれる。

「次は何を焼く?」

ひっくり返し終わった雷蔵が私に訪ねる。こういう時は雷蔵の悩み癖が遺憾なく発揮されるので、私は野菜、と一言告げる。そうするとわかった、と言って隙間に野菜を置いていく。
じゅうじゅうと美味しそうな音と匂いが立ち込める。

「雷蔵、もう食べれそうだよ」
「どれ?」
「ここらへん」

ぐるっとお箸で囲めば、生肉を掴んで焼いているトングで雷蔵が私のお皿に肉をいれてくれる。そういうのをいちいち気にしない雷蔵を好ましく思いながら眺める。

「ありがとう」
「タレはどれいる?」
「レモンと甘口」
「僕は辛口と塩ダレにしようかな」

自分の好みがきちんとわかるときは迷わないところも好ましい。
タレを渡されて取り皿にいれる。肉をタレにつけて一口でほおばれば、肉の甘さとタレが絡んで美味しい。すかさずアルコールで流し込む。

「めっちゃ美味しい!」
「ふふ、そうだね」
「じゃんじゃん焼いてもりもり食べよう」
「次は何焼く?」

こんな感じで雷蔵との食事は進んでいく。

予防接種で刺さった針の痛みを思い出してみる。
確かにとても痛かったのだ。

「うわ、すごい煙。目が痛い」
「ホルモンは脂が凄いから」

雷蔵も目をしばたかせながら言う。

「煙が目に染みて泣きそうなんだけど」
「泣いちゃいなよ」
「まだこの煙だと泣けないな」
「我慢しないでいいよ」
「いや、だからまだそこまでじゃないよ」
「何かあったんじゃないの」
「…雷蔵?」

煙の向こうで雷蔵が真剣な目で私を見ていた。耳に届く肉が焼ける音や周りの喧騒が突然偽物のように聞こえる。

「何か辛いことでもあったんじゃないかと思ったけど、違った?」

雷蔵の声音は優しくて、どうしてこんなにも彼は察しがいいのだろうと不思議にすら思う。とても大雑把な性格をしているくせに、こういうところは細かいんだ。

「別に、何もないよ」

肉をひっくり返しながら言うと、雷蔵はそう?と少しだけまだ真面目な声音で言った。
私は肉を見るフリをして雷蔵の真っ直ぐな視線から逃れる。
何もないという言葉に嘘はない。
毎日は同じようにすぎていく。
いつも通り職場で悪口を言われてあからさまな嫌味を受けながら、こっちの言い分を聞いてもらえない苛立ちを抱えている。
それは毎日の話で、特別何かあったわけではない。
いじめられているわけでもない。
きちんと他愛のない話や世間話もしてる。
ただ少し忙しくなると八つ当たりのように扱いがひどくなるだけで、もう慣れたはずなのに、たまに耐えきれなくなるときがある。
ただそれだけなのだ。

注射が痛くて泣きたくなった。
嫌味を言われて泣きたくなった。
どっちも同じだ。ようは泣けたらそれでいいのか。私にはわからないけれど、雷蔵に話すほどのものではない。心配や同情をされたいわけでもない。
ただ私は雷蔵と楽しく飲んで食べて話せたらいいのだ。愚痴や湿っぽい話は無しにしたい。
雷蔵がそんな私に気付くとは思わなかったけど。

「あまり抱え込んだりしないで、頼りないかもしれないけど僕に話してよ」

雷蔵はとても優しい。だけど私は何も言わない。

「んー、でも予防接種が痛かったくらいだよ。後で泣かなかったの褒めていいこいいこしてよ」

私が冗談めかして言えば、雷蔵の腕が私の頭に伸びてそっと撫でられる。

「いいこいいこ。頑張ったね」

それは慈しむような手つきで、私はまた泣きたくなるのを抑えるために少しだけ笑った。

「恥ずかしいよ」
「お前がやってって言ったくせに」
「そーだけどさ」

雷蔵はどこまで私の言葉を信じてくれているのだろう。
網の上の肉は焦げ始めていて、注射された場所は鈍く痛み出した気がした。泣きたくなったのはきっと全部、そのせいなのだ。



褒めてよ



end
泣かなかったの偉いでしょう。


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