放課後の教室で宿題を鉢屋とやっているところだった。快調に進んでいた筆をぴたりと止める。例という字を書いた瞬間、例という字はこんな字だっただろうかと急に不安になったのだ。別紙にもう一度例と書いてみる。確かに例は例という字だ。しかしどうにも腑に落ちなくなり、隣の鉢屋に訪ねてみる。
「ねえ、例ってこれであってるよね」
半紙をぺらりと目の前に突きつけて見せる。
「合ってはいるがどうした、そんな字も書けなくなったのか」
人を馬鹿にするように鉢屋は笑う。
「違う。こんな字だったかよくわからなくなったの」
「あー」
鉢屋は間の抜けた相槌をうち、そのまま続ける。
「そうなる時あるな」
今度は真顔のまま同意をして頷く。鉢屋の顔をじっと見るが、それは不破の顔であり、鉢屋の顔ではない。
「ちょっと顔変えて見せてよ」
私が突然言えば、訝しげな表情をして見せる。
「なんだ急に」
「お願い」
「高いぞ」
「いいから」
「しょうのないやつだ」
鉢屋はぱっと一瞬で顔を変えて見せる。一年は組のしんべヱ君だ。
「何か喋って」
「顔を変えさせた次はなんだ」
「いいから」
鉢屋の困惑した顔は、まさしくしんべヱ君のものだ。私の中に突如うまれた焦燥。その正体を暴きたいような、揉み消したいような、そんな気分に陥る。
「じゃあ昨日の委員会での出来事を話してやろう」
「うん」
「尾浜が委員会に遅れてきてな。一年生がどやしたもんだからいじけちゃって、あいつ半泣きで私にどうしようかと言ってきたんだ」
「へえ、ごめん、もう一回顔変えて」
「はあ?」
「お願い」
鉢屋のしんべヱ君の顔が呆れている。あの子は呆れるとこんな顔をするのか。でもこれはしんべヱ君ではなくて、紛れもなく鉢屋だ。しんべヱ君の見た目なのに、鉢屋にしか見えない。
余程私が深刻そうな顔をしていたのだろう。呆れてはいるがそれ以上は何も言わずに、さっき話題に出た尾浜の顔になってくれる。私はその早業に感心しながら、その髪に触れる。特徴のある黒髪は艶やかで、かつらには見えない。
「何か喋って」
私の中にうまれた焦燥は不安に変わる。
「何があったんだ。私でよければ相談に乗るぞ。他のやつらもお前の話なら聞くだろう。それとも、私の変装に見惚れたかったのか」
私を笑わそうと鉢屋は優しく笑う。その顔は尾浜のものだが、笑顔の本質的な何かが鉢屋そのものなので、鉢屋だとわかる。その何かが分からないから不安なのだろうか。声も仕草も間違いなく鉢屋だ。なのに分からない。目の前にいるこの人は誰だろう。鉢屋はこんな人だっただろうか。
「ありがとう、もう大丈夫」
「そうか」
鉢屋は納得のいかない表情を浮かべながら、尾浜の顔のまま何か考え事をしている。尾浜ってこんな顔で考え事をするんだ。
「私そろそろ部屋に戻るね」
どうにも宿題をやる気分ではなくなってしまったので、自室に戻るため机の上を片付ける。
「ああ、せっかく尾浜の顔になったんだし、少し悪戯でもしてくるか」
「うん。行ってらっしゃい」
鉢屋の顔を見ないまま言えば、右腕を捕まれる。
「何を言っている、お前もだぞ」
「え、何で」
「そのしけた面を変えて見せるのさ。この鉢屋三郎様がな。行くぞ」
強引に教室から引きずり出される。悪戯をする前の鉢屋の表情に、尾浜の顔でも少しも変わらないんだなと思うと、少し安心した気がする。
ずっと見続けているとまるで例の文字が違う字に見えたように、鉢屋の本当の顔を知らないからこそわからなくってしまったのだ。断片的な鉢屋は曖昧で、確固たる鉢屋というものがないように思えるから。
「うん。行く」
私は頷いて笑った。
字なら聞けばいいが、人になるとこんなにも面倒なのだ。ああ、よかった。鉢屋は鉢屋だ。
「なんだ、もう笑ってるじゃないか。これじゃあ共犯だな」
尾浜の顔で鉢屋は鉢屋の表情で笑った。私もつられて笑みを深めた。



Gestalt collapse




end


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