突然だけど私は鉢屋三郎君が好きだ。とても大好きだ。同じ年。6年並の実力を持つと言われる変装の名人で、後輩思いだとも聞いた。
見てることしかできないけど、一度だけ、鉢屋君と話をしたことがある。それが私の唯一の宝物。鉢屋君が忘れていても、私だけが覚えていればそれでいい。廊下ですれ違う瞬間、食堂で見つけた瞬間、実習中に見かけた瞬間、世界中の幸福を集めたような甘い痺れが私を襲う。たったそれだけで一日中幸せでいられるのだ。他には何も要らないとさえ思う。
鉢屋君の全て好きだ。私の名前を知らなくても、存在ごと覚えてなくても、それでいい。
食堂のおばちゃんに頼まれて用具委員会から修理に出した鍋を返してもらいに行く途中だった。クラスの子達に好きなら行動しろと怒られてから、ずっと言い訳のようにこれでいいと思い続けていた。鉢屋君と仲良くしたい。けれど鉢屋君に迷惑だと思われたい訳じゃないし、鉢屋君とお話しするなんて、緊張しすぎてどうにかなってしまいそうだ。
空を見上げてなんとなく鳥の声を聞く。自分でも笑っちゃうくらい呑気なもんだ。恋なんて、本人以外には何てことない事象なのだ。
こつんと足先に石が当たる。こんなところになんで石?という疑問が浮かぶ前に、私の体は一瞬浮かんですぐに衝撃に変わる。
「いった!」
どうやら足に当たった石は落とし穴の目印だったらしく、私は綾部君の掘った蛸壺に落ちたらしい。前にもこんな風にぼうっと歩いていて落ちたのだ。その時は、鉢屋君に助けてもらったのだ。その時に私は鉢屋君の存在を気にかけるようになった。それが、私の唯一の宝物。
さて、どうやって蛸壺から出ようか。立って腕を伸ばしても穴の縁には手が届かない。しかし生憎のことだが何か脱出に使えそうなものも持ってはいない。まるで不破君のようにううんと考え始めたときだった。
「あれ、あんたまた落ちたのか」
頭上から降ってくる声に私の心臓が跳ねる。
「は、鉢屋君!?」
「以前も落ちていただろう?」
「あ、はい」
「ほれ、手」
「ありがとうございます、すみません」
煩い心臓を無視して、出された手を掴む。落ちた時に打ったお尻が痛いからこれは夢なんかじゃない。
「あんたドジなわけ?それとも不運なの?」
「いえ、そんな事はないと思いますけど」
「二回も落ちて?」
「う、それは、そうですね」
鉢屋君と話せるなんて夢みたいだ。でもこんなドジなところを見せちゃうだなんて格好悪い。でも鉢屋君も、私の事を覚えておいてくれたんだ。
「なあ、あんたさ、敬語やめてよ。同い年なんだし」
「え?」
「あとさ、鉢屋君じゃなくて三郎って呼んでよ、名前」
「え、なんで、名前も知ってるの?」
「名前だって知ってるじゃん。多分同じ理由だろ。私の自惚れじゃなければな」
這い出した穴の前で繋いだ手をそのままに話してる状況も、鉢屋君の話している内容も、まったく理解できないまま、私は鉢屋君をじっと見る。
なにか、何か言わなきゃだめだ。不破君の顔をして意地悪く、それでも照れたように反らされる視線に、ついていけない状況の私は頬を赤くするだけだ。
「えっと、えっと、あの、とりあえず、私も自惚れていいのかな?」
予想以上に大きくなってしまった声にまた顔が熱くなる。ああ、恥ずかしい。
「そりゃあ、まあ、自惚れてくれなきゃ困るだろうが」
鉢屋君は繋がれたままの手に力を込めて私を見た。こんなことってあるのだろうか。三郎くんが覚えていてくれた事も、今こうして近付いた距離も、全て宝物になっていく。
自惚れた二人
end
[ 48/73 ]
[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]