※満足同盟時代
※ホラー風味


 鬼柳が少し先を歩いている。見慣れた背中に、ああと声をかけようとして思い留まる。
 黒く長い髪の女がいた。女は鬼柳に声をかける。親しい様子で鬼柳は笑う。再び前を向いた鬼柳の腕に、女が抱きつくように腕を絡めた。
 そして女は振り返る。どこか茫然とした様子の遊星を視界におさめて、にたりと笑った。
 何度も何度も、繰り返して見る夢だった。





 飛び込んできた、染みの浮かんだ天井に、遊星は安堵した。同時に心臓がはね、は、は、と荒い呼吸を吐き出す。
 なぜあのような夢を何度も見るのか、遊星にもわからなかった。しかし、あの女の笑みは、遊星に不吉ななにかを植えつけていくのだった。しょせん夢だと、振り払えないなにかを、女の笑みは持っていた。
 じっとりとした汗が身体にはりついて不快だった。タンクトップを掴んでぱたぱたと扇ぐ。
 あの女は夢で、決して現実ではない。チームサティスファクションの、いつもの汚いアジトに安心しつつも、つり上がった頬が脳裏から離れなかった。
 諦めたように息を吐いて、立ち上がる。ジャンクの山から拾ってきた扇風機の修理がまだ終わっていなかった。
 今夜はもう、眠れそうもなかった。





 鬼柳、と呼び止めると、彼は肩にタオルをひっかけたまま、ん? とこちらに視線を投げた。寝汗をシャワーで流した彼の髪は濡れ、毛先は首筋にはりついていた。

「なに?」
「あの、朝一番に、こんなことを聞くのは、自分でもどうかと思うんだが」
「なんだよ、もったいぶんなよ」

鬼柳はペットボトルをつかみ、ミネラルウォーターをごくごくと飲み干していく。上下する喉仏を見遣りながら、遊星は言葉を固めた。

「最近、付き合った女はいるか」

ともすれば、彼は飲んでいた水を吹き出してしまいそうだった。なんとかそれは回避したようで、口元を手で拭いながら、目をぱちくりとさせる。まるで、ああ驚いたと、今にもそんな言葉が飛び出してきそうな顔だった。

「どうした」
「ごめん、今、すげーびっくりして」
「聞くタイミングがわからなかったんだ」
「タイミングよりか、むしろ、中身?」
「……オレはそんなに変なことを聞いたか?」
「いや、ジャックとかクロウに聞かれたら驚かなかったけどさ。まさか遊星に聞かれるとは思わなかったから」

しかし、聞いた意図は鬼柳の思うそれとは違うのだ。確かに、遊星は色恋沙汰への興味は薄かったし、今回も、そういうつもりで聞いたわけではない。
 だが、鬼柳にそれが伝わるはずもなかった。やがて彼は意地悪く笑う。遊星が訂正する間もなく、捲し立てるように彼は言った。

「そうかー、遊星もやっと興味を持つようになったかー」
「いや、オレは別にそんなつもりで……」
「残念ながら、今オレに彼女はいない。だが安心しろ、女だったらいつでも紹介してやる」
「鬼柳、頼む、話を」
「あいつどう? 弥生とか……、あ、だめだ、あいつそういえば男嫌いだ」

知り合いと思わしき女性の名を列挙しはじめた鬼柳に、最初は大人しく反論の隙を探っていた遊星も、ついには辟易した。一度動き出した鬼柳の口を止められるものは、そうそういない。強いて言うならば、甘いデザートくらいだ。
 しかしわかったことは、鬼柳には今、関係のある女性はいないということだった。では、夢の中で、まるで鬼柳の恋人であるかのように振る舞う彼女は、いったい誰であるのだろうか。
 ついに、遊星の恋愛経験の少なさを嘆き出した鬼柳の言葉は、思考する遊星の右から左へ、すう、と通り抜けてしまうのだった。





 女は、遊星に向かって頬をつり上げると、くつくつと無気味に声をあげて笑った。身をよじり、手足をくねらせて笑う様は、異常というより他ない。遊星の身体は、金縛りにあったかのように、ぴくりとも動かなかった。
 女の姿を見ても、鬼柳の顔色はなに一つ変わらない。相変わらず女と腕を絡めて、遊星の知らない先へと歩いて行こうとする。
 行ってはならないと、そう言いたいのに声がでなかった。走って、女を引き剥がし、腕を掴んでこちらを向かせてやりたいのに、遊星の足は、がくがくと震えるばかりだった。
 するとまた、遊星を馬鹿にしたように女は笑うのだ。





「あれ、鬼柳まだ帰ってねぇの?」

さも意外、といった様子のクロウの声に、遊星ははっと意識をすくわれた。額に手のひらをおしあてて、これが現実なのだと認識する。どうやら、作業中にうたた寝をしていたらしい。
 わずかに首をふって左右を見渡すも、そこに見知った人影はない。そうだろう、と返答すれば、クロウの眉間には深いしわがよった。

「あのばか、今日は早く帰れっつったのに……! なんで、人の話をまったく聞かねぇんだよ、あいつは! でけぇ子どもか!」
「なにか、鬼柳に用事でもあるのか?」
「嵐だってよ、今夜から」

衛生環境の悪いサテライトでは、悪天候は命取りにもなりかねない。風邪をひいたところで、かかれる医者は限られているし、伝染病が流行るおそれもある。昔に比べて、今は多少は改善されたものの、やはり嵐の中の外出は好ましくなかった。
 クロウによれば、鬼柳は傘を持たずに出かけたらしい。天気があやしければすぐ帰ると彼は言ったらしいが、それも口だけになってしまったようだ。空はすっかり、厚い雲におおわれている。
 なぜか、あの女の笑みが浮かんだ。どうしようもないほどの不安にかられる。ぞわぞわと、足元からなにかが這い上がる気配がした。
 断ち切るように、遊星は立ち上がった。椅子が予想外に大きな音をたて、クロウがきょとんとしたまま、目だけを見張っている。

「……迎えに行ってくる」
「あ? いいんだよ遊星、ほっとけよ。あいつはでけぇ子どもみたいなもんで、子どもじゃねぇんだから。自分でなんとかするだろ。だいたい、それでお前が風邪をひいたら、本末転倒じゃねぇか」
「心配なんだ。なんとなく」
「そうやって遊星が手をやくから、あんなダメ人間が出来上がるんだぜ」

うんざりとした様子のクロウに、遊星は背を向ける。クロウの言うことは正しいのだろう。しかし、正論を退けるまでに、女の笑みが強く残っていた。放っておくことはできない。
 遊星、とクロウが呼んだ。振り返ると、彼は黒い傘を投げて渡した。

「ジャックが持ってっちまったから、一本しかねぇぞ。風邪ひかないように、仲良く帰ってこい」
「相合い傘か」
「気色悪いこと言うんじゃねぇよ」

頬をゆるめながら、片手を上げて、クロウに礼を述べる。なんやかんやで世話焼きなところは、お互い様というわけだ。
 クロウに見送られながら、遊星は曇天を背負い、歩き出した。





 鬼柳は海岸沿いの、中心地からは離れたエリアの方へ歩いていったという。それ以上は、彼の居場所を特定する要素はなく、遊星はしらみ潰しに歩いていくしかなかった。
 顔見知りの知人とすれ違えば、鬼柳を見なかったかと聞く。大概が首を横にふるばかりのなか、ビビアンへ入って行くのを見たという証言を得たのは、アジトを出てから、30分が過ぎたころだった。
 ビビアンは五階建ての複合商業施設だ。様々な娯楽施設が軒をつらね、四階には図書館、五階には映画館がある。といっても、そこが賑わっていたのは、シティとサテライトが分断される前の話である。今はとっくに廃業となり、形ばかりが残されるのみとなっていた。
 造りが綺麗で敷地も広いビビアンは、数年前までは、サテライトでも人気の居住区だった。しかし、今ではそこに寄り付く者は少なく、デュエルギャングたちの抗争のタネになることもない。できることなら遊星も近づきたくはなかったし、鬼柳がそこへ立ち入ったというのも不思議なものだった。
 暗い空を背後に携えたビビアンは、普段より増して不気味だった。それでも、鬼柳を連れ戻すために、遊星は割れたガラスの扉を押し開けた。ぎい、と錆び付いた音が響く。
 タイル張りの床は降り積もった埃に濁っていたが、最盛期と変わらず、硬質な音をたてた。沈黙し、時間が止まったかのような空間の中、遊星の足音のみが響く。鬼柳、と名前を呼んでみるも、返事はない。
 一階を探し、止まったエスカレーターを上り二階へ向かう。二階をぐるりと一周すると三階へ。四階の図書館には、まだ蔵書が残っていた。じっくりと見てみたい気もしたが、今は鬼柳が最優先であるし、長時間この建物にいるのも気が引けた。彼の足は五階へと向いた。
 映画館には6つのシアターがあるが、今はどれもが深い眠りについている。整然と並んだ椅子の背が、なぜだか無性に切なかった。大きな鏡のある、まるで迷路のようなトイレも探してみたが、やはり、鬼柳の姿は認められなかった。
 もしかしたら、入れ違いになったのかもしれない。そう思い、映画館を出る。停止したままのエスカレーターを下ったところで、遊星は足を止めた。
 エスカレーターを下りてすぐのガラス戸は、屋上駐車場に通じていた。自動ドアであったはずのそこは、今は重たい手動ドアと化している。そのドアが、少しだけ開いていた。目線を上げてみれば、ドアを抜けた少し先、屋上の縁を型どるフェンスの前に、なびく空色の髪があった。曇天とコンクリートの灰色の世界で、彼だけが色を持っていた。
 力をこめて、ドアをこじ開ける。嵐が近いらしく、頬を強風が叩いた。
 鬼柳、と呼ぶと、彼は振り返り、あれ、と切れ長の瞳を大きく丸めた。

「遊星、なにやってんの?」
「それはこっちのセリフだ。あんまり鬼柳が遅いから、迎えにきたんだ」

鬼柳の視界に持ってきた傘を出してやると、彼はようやく合点がいったようだった。おそらくは、今の今まで、クロウの言葉もすっかり忘れていたに違いない。

「あー、悪い」
「こんなところで、なにをしていたんだ」
「ん、ちょっと……」

そうして鬼柳はまた、こちらに背を向ける。フェンスを掴んで、おそらくは、はるか遠くの地面を見つめているのだろう。ぱたぱたと、彼の髪が風になびいていた。

「遊星も知ってるだろ? ここで、オレたちと同い年くらいの女の子が自殺したの」
「……ああ」

ビビアンに人が寄り付かなくなった理由も、そこにあった。
 数年前のことである。ビビアンの屋上から、2人の少女が飛び降りた。彼女たちは、先の見えないサテライトの未来に絶望したのだという。
 飛び降り防止のため、胸元あたりまでの高さだったフェンスは、頭上を大きく越えるものとなった。しかし、瞬く間にビビアンは廃れ、寄りつくものも皆無となり、飛び降りを防止するまでもなくなったのである。

「あれは、衝撃的だったからな……。だが、どうして」

なぜ、今さらその事件に触れようとするのか、遊星には心当たりがまるでなかった。

「たまに、ここに来るんだ。ここに来れば、あの子たちの思いや考えが、少しわかるような気がして」

少女たちが叩きつけられた地面を見つめながら、鬼柳は呟く。

「知ってるか? ここから飛び降りたふたりは、抱き合って落ちたんだって。大切な友だち同士だったんだろうな。そんなやつが近くにいたのに、どうしてふたりは、同じ死を選んだろう。どうして、どちらかがどちらかを止めなかったんだろう。一緒に死ぬことって、それって友情なのかな」
「……」
「オレさ、ここから飛び降りろって言われても、絶対に無理だ。だって怖ぇもん。絶対痛いし。だったら、たとえサテライトでも、生きてた方がずっとマシだ。だけど、あの子たちには違ったんだろう。ここから落ちる方が楽に思えるくらい、世界に絶望していたんだ。それとも、ふたりだったから飛べたのかな。それって、本当に死にたかったのかな」
「やめろ鬼柳。あまり、聞きたくない」
「……そうだよな。ごめんな」

鬼柳は困ったように笑って、遊星の肩を叩いた。帰ろう、と鬼柳は言う。風はいっそう強くなり、嵐が本格的に近づいていた。





 女がげらげらと笑っている。彼女は鬼柳にベタベタとまとわりついて、長い爪で、彼の輪郭をなぞった。
 当の鬼柳はさして気にした様子もないのだが、遊星には、その動作が不快でたまらなかった。明確な理由はないのだが、女と鬼柳をこれ以上近づけてはならないと思った。
 何より、不気味なのだ。その女というのは。この世のものではないような。
 その女に、鬼柳から離れろと必死になって叫ぶ。しかしおかしなことに、声がまったく出なかった。そして、それを嘲笑うかのごとく、女は再びげらげら笑った。
 女が鬼柳の手を引く。どこかに連れ去ろうとしているのか。止めようとするが、声は出ず、身体も動かない。
 女の唇が、静かに動いた。『ちょうだい』と。





 ベッドから飛び起きると、既に昼過ぎだった。昨夜の夜更かしが祟ったようだった。
 慌てたように、いつも4人で集う部屋に顔を出す。素っ頓狂な顔をしたジャックとクロウが彼を出迎えた。

「おー、よく寝てたな……って、どうしたよ、遊星」
「なにかあったのか?」

お前らしくもないと言いたげなふたりの視線を受け止めながら、遊星は辺りを見渡した。ふたり以外の姿は見えない。

「……鬼柳は」
「鬼柳? さあ、オレは朝から見てねぇけど。ジャックは?」
「オレも、今日は見ていないな。どこかで女と遊んでいるんだろう」
「いやそれがさ、チームサティスファクションを作ってから、女遊びやめたらしいぜ、あいつ」
「は、どうだかな」

とりとめもない言い合いを始めたふたりに、遊星は背を向けた。どうしたんだ、とクロウが声をかけたが、返事を返すのも億劫だった。
 あの女は、間違いなく鬼柳を連れていこうとしていた。そして最近の鬼柳は、何故か、自殺をしたふたりの少女のことを気にしていた。もしかしたらと、嫌な考えばかりが巡る。鬼柳は、招かれているのではないだろうか。例えば、ここではない、別の世界へと。
 らしくない考えといえば、そうなのだろう。だが、胸中を占めるこの不安は、もはや理屈でどうこう出来るものではなくなっていた。とにかく鬼柳を連れ戻さねばと、遊星の足は無意識のうちに駆け出していたのだった。





 鬼柳はビビアンにいるだろうという、妙な確信があった。確かな証拠はないが、それでも遊星の判断は揺るがなかった。
 割れたガラスのドアを押し開き、立体駐車場へとまっすぐに向かう。かつんかつんと、忙しない足音が虚しく響いた。それは、静寂に包まれた場所故に、幾重にもなって耳に届き、まるで数人が連れ立って館内を駆け回っているようだった。
 屋上へ飛び出すと、あの女がいた。真っ黒なワンピースを着て、長い黒髪が顔を隠しているため、そこだけが黒く塗りつぶされたかのようである。
 しかし、その場に鬼柳の姿はなかった。

「……っ、鬼柳は、どこだ」

ここは現実で、夢とは違う。声は出るし、足も動く。
 遊星が詰め寄っても、女は動じなかった。ふふふ、と抑揚のない笑みが、彼女からこぼれる。その女の得体の知れなさが、なおのこと、遊星の恐怖と怒りを煽った。

「貴様、なにか知っているんだろう!? 答えろ!」

声を荒げると、女はなおのことおかしそうに笑った。脳に直接こだまするような、甲高い声が煩わしい。
 女は、異常なまでに白い手で遊星を手招いた。ゆらりゆらりと、波間をたゆたうように力無く、しかし何故か、遊星はそれに逆らえないのだった。頭に血が上っていたというのもあるかもしれない。
 手を動かしながら、女はゆっくりと遠ざかる。その足はまったく動いていないのに、すう、と彼女の身体は遊星から離れていく。ここから逃がすわけにはいかないと、とっさに足を踏み込んで、女を追いかける。女の動作を疑問に思えない程に、頭から状況判断能力失われていた。

「おい、待て!」

手を伸ばす。乱暴に伸ばした手は女のワンピースに触れ、否、あと少しで触れるというところで、すっ、と宙を掻いた。
 突然のことだった。はっと息を吸った瞬間、景色が反転する。気がつけば、遊星は屋上の、フェンスの上から身を乗り出していた。フェンスの存在を何故かすっかり忘れていた。そして、そんな障害物を乗り越えた覚えもなかった。
 息をのんだときには、身体は既に傾いていた。落ちると、どこか冷静に認識する先で、女が両手を広げて頬をつり上げて笑っている。ああ、彼女に招かれていたのは鬼柳ではなく、自分だったのかと悟った。
 助からないだろうことは容易に察しがついた。重力に逆らえず、ぐらりと頭部が落ちるような感覚がした。内蔵が全てひっくり返るような浮遊感。
 そして、そこで止まった。
 遠いような近いような、不思議な距離感の地面を呆然と見つめたまま、遊星は数度瞬きをする。泣きそうな声が腰のあたりから聞こえた。

「遊星、お前……っ、なにやってんだよ!!」
「鬼柳……」

鬼柳の腕は遊星の身体を抱き止めていて、そしてそのまま、遊星の身体をコンクリートの上へと引きずり下ろした。
 ありがとう、とそう言う前に鬼柳の腕が遊星の胸ぐらを掴んだ。そして間髪入れずに、鬼柳の右手が、遊星の頬を殴り飛ばす。あまりにもとっさのことで、頭も身体も、どちらもついていかなかった。

「お前、なにしようとしてたんだよ! なぁ! ふざけんなよ!!」

太陽のような瞳が、薄い水の膜に覆われていた。遊星にはさっぱり心当たりがなく困惑したが、そういえば、あの女の姿は遊星自身にしか見えていないようだったから、端から見れば、遊星が自分の意思でフェンスを越えたように見えたのかもしれない。ああ、と遊星は納得した。

「誤解だ、鬼柳」
「なにが誤解だよ! だってお前、あそこから……っ!」
「説明すると長くなるが、事故みたいなものだ。自殺しようとしたわけじゃない」
「……」
「……」
「本当、か?」
「ああ」

しばしふたりは瞳を覗き合って、一瞬後、鬼柳は大きく息を吐いて脱力した。
 腰をついた鬼柳を追って身を屈めれば、彼の腕が遊星の背中へとまわされる。同じように、鬼柳の背に手をそえた。彼は遊星の肩に顔を埋めたままであるので、その表情はわからない。

「どうして、ここへ来たんだ?」
「……ちょうど、お前と入れ違いになったんだよ。俺を探してたって聞いたから、急いで追っかけてきたんだ。したらお前なんか、飛び降りようとしてるし」
「だから誤解だ」
「お前、俺がどれだけ怖かったか、わかってんのかよ」

鬼柳の声音に、からかう色はない。本気で言っているのがわかって、遊星は押し黙った。

「一瞬で色んなことを考えた。なんで、とか俺のせいか、とか。俺があんな話をしたからか、いやそれよりずっと前から遊星は苦しんでいたのかもしれない。俺はそれに気づけずに、間違った方に背中を押してしまったんじゃないか、って……」
「鬼柳……」
「けど、違うんだよな? お前は、死のうとしてないよな? 俺の隣でちゃんと生きててくれるよな?」
「ああ、もちろんだ」

すると鬼柳は、ああ、ともうう、ともつかぬ声をもらして、強く遊星の身体を抱いた。こんなにも心配させてしまったことを申し訳なく思って、ストレートの空色の髪を撫でる。本当はお前を助けようとしたんだが、などと言ってやりたい気もしたが、不安を煽るだけなので口をつぐんだ。
 鬼柳の体温に包まれ、またその身体を抱きながら、ああ幸せだと思う。この暖かさがあるから、こんなに冷たい場所でも生きていける。
 飛び降りたふたりの少女たちだって、似たようなことを思ったのだろう。それが生としての背を押したか、死へと向かったのか、それだけの違いだ。自分たちと彼女たちの違いは、そんな些細なことだけだ。
 口元に笑みを浮かべ、何の気なしに顔を上げたところで、遊星は息をのんだ。
 あの女がいたのだ。すぐ目の前に、薄気味悪く笑いながら。
 彼女は、遊星を見ていなかった。女の目線の先は、遊星の腕の中だった。
 がんがんと頭が警鐘を鳴らす。逃げなければ。だがどこへ。呼吸が荒くなり、嫌だとばかりに、鬼柳を抱く腕に力をこめた。今度こそ、彼女は鬼柳を見つけたのだ。
 弧を描いた女の唇が、静かに動いた。『ちょうだい』と。
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