水が弾ぜるような音がした。
 遊星の髪から水が滴っていて、前髪はぺたりと情けなく張り付いている。表情の乏しい顔も、今は、あっ気にとられたように茫然として見えた。
 遊星の正面、机を挟んだ向こう側では、不機嫌に顔を歪めた鬼柳がコップを片手に遊星を睨みつけていた。ああ鬼柳に水をぶっかけられたんだな、とクロウは悟る。

「むかつくんだよ、お前さあ」

普段、明るい調子と、淀みない滑舌で周囲を惹きつける鬼柳の声は、いつになく冷たい。普段との格差もあって、彼の言葉の棘は、その場の空気をより一層重くさせた。
 遊星と鬼柳の間に不穏な空気があったことを、クロウはある程度は察していた。その原因こそ定かではなかったが、根が明るい鬼柳とおおらかな遊星のことだし、何より、彼らは意見が対立しても相手を憎むような性質ではなかったから、おそらくすぐに仲直りするだろうと考えていたのだ。
 しかし、事態は思ったより深刻だったらしい。
 顔を濡らす水滴に呆けていた遊星も、鬼柳の言葉に、黙ったまま僅かに目を細めた。変化こそ少ないものの、彼の表情は確かに怒りを示している。

「いっつもすかした面してさ、自分には関係ねぇってか。いい御身分だな。矢面に立つのはオレだけで十分ってか。ああ?」
「そんなことは言っていない」
「言ってねぇよなあ、確かに言ってねぇよ。お前はいつもそうだ。自分の意思はあるくせに、それを周りに伝えようとしない。言葉にしないのは楽でいいよなあ、お前には何の責任も生まれねぇもんなあ?」

鬼柳は乱暴にコップを置く。まるで叩きつけるような勢いに、コップが割れたらどうするんだとクロウは思った。
 鬼柳は立ち上がる。ひどく冷めた、軽蔑するような金の瞳が遊星を見下げていた。

「オレ、遊星のそういうとこ嫌いだわ」

言い捨てて、彼の足は大股に歩を進めた。荒い足取りで階段を下り、そのままアジトを飛び出していく。
 鬼柳がいなくなったことで空気こそ軽くなったが、それでも居心地がいいとは言い難い。興味なさげにコーヒーをたしなむジャックも、彼なりに気をつかっているのだろう。カップに口をつける頻度が増している。
 クロウは大袈裟にため息をついてみせると、適当にタオルをひっつかんで、遊星の頭に軽く放った。

「とりあえず頭ふけ。風邪ひいたら大変だぜ」

遊星からの返答はなかった。更に、彼はその体勢から動くこともない。俯いて、頬や髪からは、ぽたぽたと水が垂れ落ちている。

「おい、遊星、聞いてんのかよ。ショックなのはわかるけどさ、鬼柳だって気が立ってるだけなんだから、そんなに気にすんなよ」
「……昔から、思っていたんだ」

話し始めた遊星の声は掠れ、とても弱々しいものだった。いつだって落ち着いて、自分をしっかりともっている遊星には、珍しい様子だった。その声に、驚いたようにジャックがこっちを見やる。確かに遊星は優しいが、喧嘩ともなれば相手に食ってかかるし、手がでることもあった。その遊星が、一方的に責め立てられた挙句に水までかけられて、それでも大人しく意気消沈しているなどと、幼い頃から喧嘩を繰り返したジャックからしてみれば、信じられないのだろう。

「なぜ、鬼柳は、オレといるのが楽しいなどと言ってくれるのか、ずっと不思議だった。もっと気の利いたことが言えて、肩を叩いて騒げるような相手といる方が楽しいに決まっているのに」
「そんなんばっかじゃ疲れるんだろ、あいつも」
「いつも鬼柳が喋ってくれて、いつも鬼柳が表に立ってくれる。そこにオレは、甘えていたのかもしれない。言わなければ、伝わらないことは、わかっていたつもりだった。けれど、饒舌なあいつと話していると、邪魔をしては、いけない、ような、気が」

言葉が途切れ途切れになり、声を詰まらせて、遊星は押し黙った。タオルを被った彼の顔は見えない。
 ぽたぽたと、いまだに遊星の頬からは滴が流れ落ちている。ふと、妙なことに気がついたクロウは、驚愕に目を見開いた。

「おいおいおい、なに泣いてんだよ! 気にすんなって、鬼柳の言うことなんか! あいつだって本心で言ったわけじゃねぇから!」
「どうした遊星、鬼柳に泣かされるなど、人生の恥だぞ」

平静を装うジャックも、相当動揺しているのだろう。でなければ、彼が他人の喧嘩に口を挟むことなどまずない。
 声もなく、肩を震わせて泣いている遊星の肩を叩き、ジャックに彼を託して、クロウはアジトの外へと赴いた。きっと、遊星を傷つけた相手も、今頃アジトの近くでひとりうなだれているだろうと思うのだ。





「……、いや、さすがに近すぎねぇ?」

鬼柳はどこへ向かっただろうか、バッドエリアか港の方か、と思案していたクロウだったが、一瞬でその思考は打ち切られた。アジトを出てすぐの階段で、鬼柳は蹲っていた。
 鬼柳は単独行動が嫌いだ。サテライト制覇のための単独行動は厭わないが、それは、サテライト制覇という行動を共にする仲間がいるからだ。何から何まで、彼がひとりで行動することはない。ジャックやクロウと喧嘩をして飛び出して行くときは大抵、遊星が彼を追いかけるか、もしくは鬼柳が遊星を連れていく。
 しかし今回は、その遊星が喧嘩の相手なのだ。ひとりになった鬼柳は、勢いで飛び出したものの、それ以上どこかへは行けなかったのだろう。

「……オレ、やっぱ遊星がいないとだめだわ」
「わかってんなら、さっさと戻って謝ってやれよ。あいつ泣いてんだぞ」
「うそだろ? あー、もー、本当にさあ……」

顔を上げた鬼柳も、すぐにまた、膝の間に顔を埋める。
 鬼柳は、遊星と違ってよく喋る。しかし今は、その言葉の全てを激しく後悔しているところだろう。感情に素直な鬼柳の言葉は、ときに、ありのままの感情で他人を傷つけてしまう。

「年下泣かしてんじゃねーよ、リーダー」
「ごめん」
「本人、あっち」

すると、鬼柳はまた大きく息を吐く。なるほど、遊星に向けていた言葉は、確かに本心ではなかったのだろう。それは相手を傷つけるために用意していた言葉であって、遊星の性質を指した言葉ではなかったのだ。

「遊星は確かに言葉少なだけど、その分、人の言葉に耳を傾けてくれる。聞いて、頷いて、それでいいんだ遊星は。それはオレにはできないことだし、だからオレはあいつといると安心するんだ」
「わかってるよ、そんなこと。オレたちの方が、遊星との付き合いは長ぇんだからな。思い上がんなよ」
「そう、だよな。オレなんて所詮あとから来た人だもんな、わかってるさ、それこそ……」
「おい、お前まで病んでんのかよ、別にそういうつもりで言ったわけじゃ……!」

威勢のいい反論を期待しての発言だったのだが、鬼柳の傷を抉るはめになってしまった。遊星といい鬼柳といい、普段の彼らとはまるで違うから調子も狂う。

「なんで、あんなこと言っちゃったかな……」
「ものの弾みってやつだろ。精々頭下げて謝るこったな」
「許してくれるかな……」
「許すもなにも遊星は……。おい、鬼柳もしかして、泣いてねぇ?」

俯いた顔の下から、ず、と鼻をすする音が聞こえた。

「泣いてねぇよ」

そう答える彼の声は濡れていて、震えている。一生懸命、喉の震えを抑えているような声だった。泣いてんじゃねぇか、という返答は、今は飲み込むことにした。
 クロウはため息をつく。どこから始まった喧嘩なのかは知らないが、どうせそちらも些細なすれ違いなのだろう。面倒なところだけ似ているふたりだと彼は思う。

「男がふたりして泣いてんじゃねーよ」

さっさと仲直りしろよ、と、クロウは鬼柳を小突く。どうせ明日には、彼らは仲良く連れだって、ジャンクでも拾いに行っているに違いないのだ。

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