※ショタ
※過去捏造
※虐待





 マーサハウスの裏手には、あまり近づくなと言われていた。お化けが出るだの何だのと子どもたちは噂したが、事の真意はつまらぬもので、柵に遮られたその先は、めっぽう治安が悪かった。
 マーサハウスは、比較的安全な場所に建っていたが、それでも、ここはサテライトの一角である。どうしても、貧困や犯罪、不衛生などからは、逃れることが出来ずにいた。
 人気の少ないその場所で、遊星は絵本を開いていた。近寄ってはいけないことも、見つかればマーサに叱られることもわかっていた。それでも遊星は腰を上げず、むすっとした表情でページを捲った。
 単純なおもちゃの取り合いが、いつの間にかけんかになった。誰が始めたかもわからないが、ジャックとクロウに叩かれたから叩き返した。遊星にとってはそれだけだった。すっかり機嫌を損ねた遊星は、おもちゃなどどうでもよくなり、逃げ出した。部屋に戻る気はなかったから、暇潰し程度に絵本を掴んだ。誰とも話したくなかったから、マーサハウスの裏へとまわった。そこは人気がないだけでなく、長い木の枝が影をさして、日中にも関わらず薄暗い。
 遊星の口の端は、切れて血が滲んでいた。試しに口を動かしてみると、やはり針で刺したようにつきんと痛んだ。それはジャックに殴られたときの傷のような気もしたし、クロウに突き飛ばされたときの傷のような気もした。すると悶々と不満が沸いて出て、遊星は眉を寄せて乱暴に絵本を捲るのだった。内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。
 視線を感じたのはそのときだった。背中に感じるそれに、はっと顔を上げ振り返れば、途端、凝視したふたつの瞳と合致する。大きく綺麗な、金の瞳だった。そのふたつの両の目に、まるで吸い込まれるように思う。
 マーサハウスを守るように立てられた鉄格子を、小さな子どもが握っていた。年は遊星とそう変わらないに違いない。鉄格子の向こうでその子どもは、じっと遊星を見つめていた。

「それ、なんのお話?」

透き通った声音だった。子どもは細く白い指先で、遊星の持つ絵本を指し示す。呆気にとられていた遊星は、はっと自分を取り戻して、覚束ない手元で表紙を見せた。

「小さな、さかなの話」
「ふーん。それ知らない。読んだことない」
「……一緒に、見る?」
「うん!」

ぱぁ、と花が咲いたように子どもは笑って、その表情に遊星までもが嬉しくなった。他人まで幸せにするような、素敵な笑顔だった。
 子どもは鉄格子に身体を押しつけるようにして、遊星もまた、限界までそれに近寄った。ふたりが覗けるように大きく絵本を開くと、子どもは身を乗り出して、格子の隙間から一生懸命顔を出した。
 子どもの横顔を、遊星は覗き見る。白い肌は弾力を持ち、大きな金の瞳は真剣に魚の絵を追っている。細い空色の髪は肩にかかる程度に長く、柔らかく風に揺れていた。人形のように、綺麗な造型だった。
 だがしかし、子どもの頬にはガーゼが貼られ、口元には傷があった。目の下には青い痣があり、額にも瘤(こぶ)があった。美しい容貌に反した醜い傷痕は、異様な雰囲気を孕み、尚のこと痛々しく思えるのであった。

「おれ、おさかながうらやましい」

その一人称に、少なからず遊星は驚いた。子どもは儚く、故に美しい風貌であった。それは幼い少女を思わせたが、どうやら遊星の、一方的な思い込みであったらしい。
 金の瞳に、少年の長い睫毛がかかっていた。

「おさかなになりたい」
「……どうして?」
「だって、お友だちがいっぱいいる。怖いお魚にだって負けないでしょう?」

視線を落とし、柔らかな唇を小さく上下させながら喋る少年は実に耽美で、遊星は一瞬一瞬に目を奪われた。痛々しい傷痕さえ魅力に思え、綺麗な少年に射す影が、より少年を引き立たせているのであった。
 子どもは悲痛に満ちた顔をした。今にも泣き出しそうだと思ったが、しかし金の瞳に滴はない。鉄格子を掴む小さな手に遊星は触れた。

「友達に、なろう」

少年は大きく目を見開いて、今度こそ、涙を落としそうな顔をした。しかしそれは刹那のことであって、少年は溌剌とした笑みを浮かべると、嬉しそうに頷いた。

「ねぇ、明日もまた来ていい?」
「うん」
「きみの名前は?」
「ゆうせい。……きみは?」
「おれは、」

すると、耳をつんざくようなサイレンが空を裂いた。耳障りなそれは、遊星たちには耳慣れたものである。工場のシフト交代のサイレンだった。朝から駆り出された人員は帰宅し、遅番の人間が作業を開始する。幼い遊星にはまだ縁がないものであるから、特に気にかけた様子もなかったが、少年はそうではなかった。びくんと肩が跳ねて、まるで何かに脅えているように辺りを見回す。遊星がどうかしたのかと問う前に、少年は弾かれたように立ち上がった。

「帰らなきゃ」
「え?」
「帰りたくないけど、帰らなきゃ。おかあさんに、怒られる、から」

ならば仕方がない、と遊星は目尻を下げた。少年と別れるのは名残惜しいが、母親がそう言うならばそうするべきだろう。遊星には両親がいなかったが、それ故に、その大切さはよくわかっていた。
 少年はまごまごとして、振り返るのを躊躇った。見ると手足はかたかたと震え、先ほどから何かを、恐れているようだった。

「ゆうせ、おれ、明日も来るから、明日絶対に来るから、だから……!」
「うん、待ってる。絵本も持ってくる」
「ありがとう……!」

悲痛と幸福をまぜこぜにして、酷い傷に歪んだ顔は、遊星には何故かとても、繊細なものに思えるのだった。
 少年はゆっくりと格子を放し、路地裏へと消えていった。向こうは遊星も知らない地区。少年はいったいどこに住んで、どうやって生きているのだろう。
 振り返って、最後に少年は手をふった。水色の髪がふわりと風になびいていた。




 次の日も遊星は、裏手の木陰に座っていた。昨日はそうでもなかったのに、今日は口元の傷が痛い。応急手当はしたものの、患部の腫れは避けられなかったようだった。
 絵本を開いて彼を待った。今日は綺麗なさかなの話。少年は昨日の、小さなさかなの話をたいそう気に入ったようだったから、続けて今日も、似たような話を選んできた。
 ふ、と背中に影が射した。遊星が振り返る前に、ぽんと肩に手を置かれる。

「来たよ!」

昨日はなかった傷を携えて、少年は笑った。
 額に、円形の火傷があった。傷口は小さいが、じくじくとして痛そうだ。傷は生え際辺りなので、外から確認しにくいが、少年が小首を傾げて笑うと、額から生々しく傷が覗いた。
 いったいどうしたというのだろう。遊星が恐る恐るそれを聞く前に、少年は遊星の口元を指し、無邪気に笑った。

「いっしょだね」

しばしあっけにとられてから、遊星は頷いた。




 頬を寄せて絵本を読んだ。少年は食い入るように絵を見つめて、そんな少年に物語を話して聞かせるのが、遊星にはとても楽しかった。
 絵本に飽きれば、格子を挟んで話をした。施設で育った遊星には、少年の話は宝箱をひっくり返したようにキラキラとして、格子の向こうは、限りない魅力に溢れた世界に思えた。
 ジャックやクロウのように、かけっこをしたり、おもちゃを広げて遊んだりすることは出来なかったが、それはさしたる問題ではないのだった。それが出来ればいいな、とは思うけども、出来ないからと言って不満ではない。手を伸ばせば互いがいて、サイレンが鳴るまで時間を共有するだけで、ああ今自分は満たされていると、そう実感するのである。




 その日もふたりは寄り添って、遊星が持ってきた折り紙に興じていた。手先の器用な遊星は、鳥やら魚やらを作ってみせるが、どうやら少年は、こういった類いは得意ではないようだった。

「なんでゆうせいそんなに上手いの!?」

少年が折った歪な鶴を分解しながら、言いにくそうに遊星は答える。

「……言っていい?」
「なに?」
「折り目が、ざつ」

少年は不器用なわけではないのだ。けれど性格上の問題であるのか、紙は折り目から大きくはみ出して、お世辞にも、綺麗とは言いがたい見た目を呈していた。
 遊星の言葉に、少年は目を見開く。改めて自分が折った折り目を眺め、途端、からからと笑い出した。
 腹をおさえながら少年は笑う。幻想的な儚さは薄れ、それは正真正銘の幼い子どもの姿だった。
 そんな少年を見ているうちに、なんだか遊星もおかしくなってきた。彼があんまり無邪気に笑うものだから、何か、ものすごく嬉しいことがあったような、そんな心地がして、気がつけば遊星も、声をあげて笑っていた。
 少年が、笑いながら遊星を小突いた。だから遊星も、小さな力でやり返す。ささやかな戯れは、彼らにとって、ただただ幸福であった。




 けたたましいサイレンが鼓膜に響く。それは工場のシフト交代の合図であり、少年との別れの合図でもあった。意味もなく音源の方を見つめてみるが、工場から溢れた人が歩いて行くばかりで、遊星と少年との別れを断つものは、なに一つ見つからなかった。
 少年を見送ろうとして、遊星は躊躇った。いつもすぐに立ち上がる少年は、うつむいたまま格子を掴んで、その場にしゃがみこんでいた。
 どうしたの? しかし少年は、黙って首を左右に振った。帰らなければ、母親に怒られるのではなかっただろうか。

「また明日、遊ぼう。ね?」

すると少年は、ひどく潤んだ瞳で遊星を見上げるのだった。はっとする間に、少年の瞳から、ひとつふたつと涙がこぼれ落ちる。

「いやだよゆうせい……もういやだ……。帰りたくないよぉ……!」

ひっ、と少年の喉が跳ねた。そして少年は、声をあげて泣きはじめた。わんわんとうるさく泣くのではなく、押し殺すように、喉を潰すように泣くのである。その様はいっそう、遊星に苦痛を与えた。
 どうして少年が泣き出してしまったのか、遊星にはわからない。だが、彼の悲しみは十分に伝わって、遊星の心を締め付ける。どうにか彼に笑顔をと願うものの、なぜ? という疑問符が、まるで喉の奥に引っ込んでいるのだった。聞いてはいけないような、不思議な感覚。

「……おかあさんはね、おれを叩くよ」

泣き腫らした目が、遊星を射抜いていた。
 おかあさんは、おれを叩く。その言葉が噛み砕けずに、遊星は困惑した。彼のおかあさんは、彼を、叩く。
 幾度も幾度も息を吐いて、時おり、ひっ、と呼吸をつめながら、少年は言葉を続けた。

「手をつねられると、痛いんだ。ほっぺを叩かれると、もっと痛い。昨日はタバコの火をぎゅってされたよ。熱くて、すっごく痛かった」

遊星は何も言えない。ただ、遊星の藍色の瞳に、少年の傷が、これまでにも増して生々しく、リアルに見えた。
 何か事情があるだろうとは、幼心にもわかっていたのだ。聞いてはいけないようなことであるのも、薄々感じてはいた。だが、しかし。

「なんで……」

何故母親が叩かねばならかったのだろう。遊星は母を持たない。けれど、育ての親であるマーサは、厳しくも暖かい愛情を遊星に与えてくれている。本当の母親とはそんな、いや、それ以上のものではないのだろうか。
 動揺が隠せない遊星を、涙に濡れた少年の瞳が見つめている。弱々しく揺れていたけれど、瞬間、すぅっとその輝きが冷えていった気がした。

「おれが、悪い子だからだよ」
「そんなことない……。君は、おかあさんになにかしたの?」
「わからない。でも、おまえは悪い子だって、そう言いながらおかあさんは叩くんだ」

はじめて少年に会ったとき、彼は別れ際、帰らなければお母さんに叱られる、と言った。それを聞いたとき遊星は、ありきたりな家族のやり取りを想像したのだけれど、実際はそうではなかったのだろう。そのときも少年は叩かれただろうか。次の日、少年が傷を増やしてやって来たのは、そのせいだったのだろうか。
 うずくまる少年の姿が脳裏に浮かんだ。ごめんなさい、ごめんなさいと、涙を溢して少年は謝り続ける。けれど暴力の手は止まない。少年の細く白い腕は、不気味な色の痣に覆われていくのだ。胸のあたりがどろどろになるような感覚がして、遊星はその光景を、頭の中から振り払った。

「おれが、悪い子だからいけないのかもしれない。でもね、もう痛いのいやだよ……。おかあさんが怖いよ……! もうやだぁ……!」

かける言葉が思い付かなかった。だから、格子の隙間から小さな手を伸ばして、震える身体を抱きしめる。今日ほどに、ふたりを分断する鉄格子を忌まわしいと思ったことはない。
 少年は遊星の肩口に顔を埋め、とうとう声をあげて泣きはじめた。激しく上下する背をさする。
 母親に、遊星と交流していることがバレたのだと言う。ひどく叱られ、タバコの火を押し付けられた。そして、もう二度と外に出てはならないと。恐ろしくてたまらない。それ以上に、遊星との別れが辛い。しゃくりをあげながら、少年はそう言った。

「助けに行くから」

遊星が言うと、少年は真っ赤に腫れた目で遊星を見つめ返した。きょとんとする少年の手を、遊星は両手で握り返す。

「絶対、おれが君を助けに行くから。だから、それまで待ってて」
「でも……」
「大丈夫」

遊星は少年に微笑んでやる。

「迎えに行くから」

少年は一度大きく目を広げた。そして顔を歪めたあと、その両目からは再び、大粒の涙がこぼれ落ちた。不器用に泣く少年を、遊星はもう一度抱き締めてやる。
 日暮れがそこまで迫っていた。少年はまなこを擦り、何度も何度も涙を拭いながら立ち上がった。

「……もう、帰らないと」
「……」

小刻みに震え、恐怖を訴える少年の手を握る。少年は笑って手を握り返すと、名残惜しむようにゆっくりと、その手を離した。

「ばいばい、遊星」

少年は踵を返し、走り出す。ぱたぱたと路地を駆け抜け、いつもの家路を辿る。遊星はその背中に、またね、と叫んだ。最後に少年が泣いたのか笑ったのか、遊星には定かではない。




 次の日から、少年は来なくなった。遊星はそれからも、裏手の木陰で少年を待っていたのだが、再び少年が現れることはなかった。
 少年が現れるより先に、遊星がマーサに見つかる方が早かった。遊星はこっぴどく叱られて、二度と近づいてはならないと念を押されたのだ。
 少年と過ごす日々の中で、ジャックやクロウとは疎遠になっていた。彼らに、今まであの場所でなにをしていたのだ、などと聞かれたが、なんとなく、少年のことを話すのは憚られた。落ち着いて絵本を読んでいたのだと答える。そして、後ろ髪を引かれる心地でありながら、遊星は元の友人たちの輪へと帰っていったのだった。








 サテライトの市場は喧しい。遊星はその中で、自分が求めるジャンクのパーツを探していた

「なぁ遊星、もういいだろ? 必要なものは揃ったんだしさ」
「いや……すまない、もう少しだけ」
「そう言ってもう何分だよ」
「ああなっては、何を言っても無駄だぞ、クロウ」
「……だよな」

およそ十年の時が過ぎていた。遊星たちはすっかり大人になって、マーサハウスから一人立ちをしている。もっとも、完全な一人立ちではなく、ジャックやクロウとの共同生活であるのだが。
 彼らを背後に待たせたまま、遊星は部品たちを吟味する。当てはまるパーツはひとつだけ。その見きわめは、とても神経を削る作業だ。
 ふと、背後を通り抜けた声に、遊星は顔を上げた。聞き覚えのある声がしたと思った。
 立ち上がり、辺りを見回す。必死になって声の主を探す。人と人がひしめく中に、鮮やかな空色が揺れた。

「すまない。先に帰っていてくれ」
「え、あ、おい、遊星!」

戸惑うクロウを尻目に、走り出す。
 結局のところ、遊星が少年を助け出すことは不可能だった。当時は遊星だって無力な子どもであったし、少年を探し出すことすら叶わなかった。あれから一度も会えずに時は過ぎ、記憶は次第に風化していった。
 胸中に満ちるのは、後悔の念だ。自分は少年に、母親以上に残酷なことをしてしまったのではないか。
 人波をかき分けて、遊星は彼を追った。彼は、並んで歩いていた友と別れ、細い路地へと入って行く。遊星はそれを追おうと、更に強く足を踏み出した。
 彼に続いて路地を曲がる。追い付くまでにさほど時間はかからなかった。彼の腕を掴む。その腕は相変わらず、白くて細かった。

「すまなかった」

彼は振り返り、困惑したように遊星を見下げていた。いつの間にか彼の身長は遊星を超しており、切れ長の瞳は、遊星よりもずっと大人びている。けれども、彼はやはりどこか中性的で、当時の面影を残していた。

「鬼柳、助けられなくて、ごめん」

振り返った鬼柳の顔に、もうあのような傷はない。
 目を丸くした鬼柳は、次に懐かしそうに頬を緩めた。ただ、必死になって鬼柳を掴もうとした遊星を、鬼柳は穏やかに見つめている。
 そして彼は、ああ、久しぶり遊星、と呟いた。



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