淀んだ空があった。今にも泣き出しそうな曇り空だった。
 凭れた地面は固かった。背骨をごりごりと刺激して、寝心地はあまり良くない。身じろぎすると、周囲はがたがたと硬質な音を響かせた。身体中が鈍く痛んだ。
 しばらくの間、ぼんやりとそうしていた。はて、自分は何をしていたんだったか。ここはどこだろう。今は何時だろう。疑問に思うばかりで、答えを求めることを放棄した。億劫でたまらず、倦怠感が全てを支配した。
 がちゃがちゃ、がたがたと、手探るような足音が聞こえてきた。歩き馴れていないのだろう。その様子が微笑ましい。暢気にそんなことを考えていると、曇り空を遮るように、ずいと顔を覗き込まれた。ばちんと音がしそうなほど、見事に視線が合致する。

「……遊星、何してんの?」
「部品に使えそうなジャンクを拾っていた。気がついたらこうして、横になって空を見上げていた」
「お前それ、気絶っていうんだぜ?」

あきれ果てたような声音で鬼柳は言い、白い手で、同じく遊星の手を掴んだ。よっこらせ、と年に合わない言葉を吐いて、ジャンクに埋もれた遊星を引き起こす。
 遊星といえば、彼はまだ夢心地で、座って首筋に手をあてたまま、ぼんやり視線を落としているのだった。しかし、それがいつもと変わらぬ能面であるから、鬼柳にはなんだか面白く思えて仕方ない。鬼柳は笑って、遊星の背を軽く叩いた。

「ほーら、しっかりしろ」
「……気絶する原因がわからない」
「寝不足に決まってんだろ。帰って寝るぞ」

そして鬼柳は反転して、遊星に背中を向けた。しかし彼はその場に留まったまま。遊星がそれを訝しむと、鬼柳の指先が、ちょいちょいと遊星を呼んでいた。

「おんぶ」
「いや……」

さすがにこの年で、と遊星は背中に乗るのを躊躇った。それに、睡眠を疎かにしたのは自分の責任で、鬼柳に迷惑をかけたくはない。何より、遊星は病人でも怪我人でもないのだった。
 不満げな瞳がこちらを向いた。唇を尖らせる様はなんとも幼い。面倒をみられているのか、かけられているのか、不意にわからなくなることが、遊星にはままあった。

「気絶するほど眠いやつが、このジャンクの山を降りられるとは思わないんですけど」
「それは……」

確かに、それはそうだけれど。頭は重たく、反面、思考はふわふわして、冷静な判断がくだせる自信もない。遊星が言い淀むと、してやったりとばかりに、鬼柳は意地の悪い笑みを浮かべた。遊星はいつも鬼柳に言い負けるのだ。元々口下手なのも手伝って、饒舌な鬼柳に、最終的には言いくるめられる。そんな鬼柳を遊星は尊敬し、羨望し、また、悔しく思った。

「なぁ、今の世の中、甘え上手が得するんだって」
「じゃあ俺は損をするな」
「俺は甘え下手のが好みだね。可愛いじゃん」

ジャンクの、安全な場所に手をついて遊星は立ち上がる。曇り空が少しだけ近づいて、視界から離れていった。ふわりと浮遊感。足元は覚束ない。どうやら鬼柳の言うことは正しかったようで、遊星はその事実を、ありありと見せつけられたような心地だった。
 鬼柳の肩に手をおいて、細くも男らしい背に身を預けた。

「重いぞ」
「ぜーんぜん。むしろ不安になったんだけど。睡眠もそうだけど、飯も食えよ」

案外簡単に身体が持ち上がったことに、遊星はいささか複雑な思いを抱いた。鬼柳よりも自分の方が、筋肉質な体つきをしているのにと。
 鬼柳の足元は、確かな足場を探りながら、ゆっくりとジャンクの山を降りていった。




 他人の温もりや、ゆっくりとした歩調。軽く揺れる身体に、遊星は幾度も睡眠に誘われた。その度に彼は瞬くのだが、視界は着実に、黒い闇に覆われようとしている。寝たくはないのに、身体が言うことをきかない。そんなに無理をしただろうかと、遊星は密かに嘆いた。
 ジャンクの山をとうに抜けて、海岸に沿った道を歩いていた。道はコンクリートで固められていて、海がそこで唐突に終わっていた。小さな波が、何度もコンクリートに打ち付けられている。産業廃棄物に汚れた海は、天気が悪いのも相成って、灰色に見えた。

「たまにさ、考えるんだ」

それが現実のものであったのか、夢に微睡む幻想であったのか、遊星には判別がつかなかった。鬼柳の背に顔を埋めたまま、相づちを返すことが出来ずにいる。
 それを見越していたのか、構わずに鬼柳の言葉は続いた。

「このまま死んだら、楽かなぁって」

明日晴れるかなぁ、と言うくらいの、軽い調子であった。鬼柳は前を向いて、曇り空を眺めながら、平淡に言葉を告いだ。まるでどうでもいいように、彼は独白するのだった。

「このまま落ちたらどうかなとか、デュエルに負けたら私刑で殺されるかなとか。さっきだって、このままジャンクの山に埋もれたら死ぬかなとか、気がつくと考えてるんだ。そんな後ろ向きな自分が嫌になる。でもさ、このままサテライトで生きてどうなるとも思うんだ。だから俺、お前らがいなかったら死んでしまうかもしれない。今だって、このまま海に飛び込んだら、とか考えてた。お前が背中にいるのにな。もうさ、疲れたんだよ」
「俺は」

遊星の一言は、無意識であったのかもしれない。ぽつりと彼は言う。眠りの途中であるような、呂律の足りない声で。

「そういったことを、よく考える」
「……」
「もし、誰かが俺に刃を向けるなら、俺はそれを、喜んで受け入れると思う。俺は生まれてきてはいけなかった存在だから、そこが帰るべき場所だとも思う。誰かが、死は無であり、救済ではないと言った。俺は救済なんか求めてはいない。何もない闇の中で、延々沈んでいたい。俺にはそれが似合うと思わないか? 闇の中の虚無だなんて、似ているだろう?」
「……なに、に?」
「ゼロリバースに」

相変わらず、コンクリートには何度も波が打ち付けた。壁を削って、醜くえぐった。海はじわりじわりと大陸を浸食する。それは、食物連鎖よりもずっと無慈悲な真理だと、鬼柳は思うのだった。
 ゼロリバースは、十数年前に起きた地殻変動であった。当時三歳であった鬼柳の記憶はおぼろ気だが、その爪痕はこうして、サテライトとして残っている。あまりにも生々しく、また痛々しかった。
 その自然災害が、人為的事故であったと知ったのは、遊星と親しくなって間もなくだった。
 彼は罪の子、悪魔の子と、そう罵る声もあったのだろう。この荒んだ世界で、彼は罪に縛られ生きた。生きることが業であり、ならば世界は地獄だろうか。遊星はひとりしゃがみこんで、実は助けてと叫び続けた。助けて、が死にたい、に変わってしまったのはいつからだろうか。それとも最初からだったろうか。

「だから俺は、鬼柳の考えを咎めることはできない。だが、俺は」

頭に浮かぶ言葉を、全て吐露しているようだった。脳が霞がかって、理性という自制を無くす。本能のままに吐き出されたそれは、本音と称して問題ないものだったろう。
 すると鬼柳の足は力強く地面を蹴った。僅かな遠心力を感じて、見ると目の前に海があった。鬼柳は楽しそうに笑っていて、不審に目を開けた遊星は、ただただその目を見開いていた。

「ダーイブ!」
「え、あ、おい、きりゅ」

どぼん、と鼓膜に響いたときには、冷たい水が一斉に体を包んでいた。遊星の耳に、口に、灰色の液体が流れ込む。ふ、と酸素が遠くなり、求めてみても、体内のそれが気泡となって消え失せる。手応えのない水を掻いて、浮いているような沈んでいるような。
 強く腕を引かれた。そのまま身体を引き上げられて、霞んだ太陽が顔を見せた。大きく胸を上下させ、途端咳き込み、水を吐く。必死になって酸素を追えば、隣では鬼柳がからからと、腹を抱えて笑っていた。

「……っ、鬼柳!」
「いや、悪ぃ悪ぃ、あっははは!」
「何を考えているんだお前は!」
「でも、眠気は覚めただろ?」

溺れそうになっていた身体を、鬼柳の腕が支えている。濡れた髪を貼り付けたまま、やはり鬼柳は明るく笑った。
 ぱちゃりと前で水が跳ねる。目を細めれば笑い声。鬼柳に水をかけられたのだと気がついたが、既に怒る気は失せていた。指さし笑う彼の面に、思いきり水を浴びせてやる。鬼柳は一瞬きょとんとしたあと、仕返しだとばかりに遊星に抱きついた。冗談半分本気半分で、遊星の身体を沈めにかかる。
 不毛なやり取りだとは気がついている。しかしそれを楽しんでしまう程度には、遊星もまだ子どもであった。




 水に濡れた身体を持ち上げるのは、大変な労力だった。まずは鬼柳に支えられながら遊星が這い上がり、それから遊星が鬼柳を引き上げた。
 はぁはぁと、息を荒げて横になる。水が垂れては広がって、コンクリートを塗らしていた。
 遊星の視線の先には相変わらず、鉛のような空があった。その空を遮るように、澄んだ色の髪を携えた鬼柳が顔を出す。彼は遊星の上に馬乗りになって、遊星の濡れた前髪をかきあげた。彼の髪から滴が落ちて、そのまま遊星の頬を濡らす。

「遊星、お前は優しいから、だから辛くなるときがある」

鬼柳は遊星の髪を撫で付け、何度も愛撫を繰り返す。額を撫でるその仕草は、すがるような幼さがあった。

「俺って我が儘だから、どうしても遊星に甘えるんだ。その優しさに溺れながら、お前に助けてくれと言うだろう。そしたらきっと、お前は必死に手を伸ばしてくれるんだろうな」
「ああ」
「でも、本当はわかってんだよ。それがいけないってことをさ。なぁ遊星、否定していいんだよ。お前なんか間違ってるって。泣きわめいたみっともない顔を叱ってくれよ。それを俺は望めないけど、それがきっと正しいんだ」
「……それは違う。お前が望めないのならば、それは正しい選択じゃない」

鬼柳の頬に触れてやりたかったが、生憎遊星の右腕は、鬼柳に掴まれて動けないでいる。するともう一方の左腕も、意思を汲んだように動かなくなるのだった。だから彼はされるがまま、撫でる手のひらを享受する。

「ありのままの鬼柳が好きだ。死にたいと願うのも、生きたいと足掻くのも、それが鬼柳という人間だ。それをどうして否定しなければならない。鬼柳、俺はお前のそばにいたい」

青い瞳を見下ろした鬼柳は、くしゃりと顔を歪め、呻いた。声を喉の奥から絞り出し、抱きつくように顔を寄せる。鬼柳の背に腕をまわし、遊星は彼の悲痛を受け止める。
 ふたりはぐっしょり濡れたまま、惨めな姿ですがり合う。例え滑稽と嘲笑われても、それが彼らの生だった。

「遊星」

 鬼柳は遊星の額に口づけた。まるで何かを誓うような、尊い行為に思えるのであった。
 顔を上げた鬼柳は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「俺たちはきっと、一生わかり合えないと思う」

寒いからもう帰ろうと、間もなくして鬼柳は言った。

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