覇王は世界を蹂躙する。太陽を奪い、空気を闇に浸した。大地を焼き、豊かな緑を灰に砕いた。審判を下し、生命を無に帰した。
 命ある者は覇王を恐れた。覇王というのは闇の化身である。彼は闇を背後に纏い、その絶対的な力を奮って弱者の光を奪うのだ。光を求める生者にとって、覇王とはまさに死の象徴であった。
 覇王は、自らが焼け野原とした大地を歩いた。重い鎧を脱ぎ捨てて、今は細身の黒い上下を身につけている。異様なまでに冷たく輝く黄金のまなこを抜けば、彼の姿は十代半ばの少年であり、彼が死を司る覇王だとは誰も気がつかないだろう。
 彼が一歩を下ろす度に大地は水分を失い、渇いていくようだった。そんな、がらがらと、世界が朽ちていく音が覇王は好きだった。闇の鼓動は心地がいい。荒廃した大地に、覇王は至上の悦びを覚えた。
 彼がたどり着いたのは、小さな村の残骸だった。家々は炭となり、今は骨組みだけを残している。大地には凝固した血が生々しく残っていた。当然、ここに住人はいない。覇王軍に捕縛されたか、または殺されたか。命の行く末に、覇王は興味などなかった。
 悦びに叫びたくなるほどの夜であった。それは10日程前のことである。進軍していた覇王軍は、郊外のひとつの村に攻撃を仕掛けた。全方位を取り囲み、抵抗する者全てに刃を向けた。怒りの声は血飛沫の中に消え、夜風に悲鳴だけが響いた。
 そして覇王軍は、村に火を放ったのである。業火は容赦なく弱者の肉を焼き、あたりには脂肪の焼ける、酸味のある香りが漂った。異様なその空気の中に、絶望にうち震えた絶叫が響くのである。覇王は歓喜した。空までも燃やしてしまいそうな炎を心底美しいと感じた。
 弱者は消え、強者が世界を握る。そうして強固なる闇は形成される。覇王の前では、無力なる生命が消えるのは自然の摂理であった。彼は闇であり、また彼は心から闇を愛した。
 大きく息を吸い込むと、あの死の匂いが肺へと帰していくようだった。村が燃え尽きた灰の匂いと、生きたまま焼き殺される生命の叫びが覇王を心地よく刺激し、ばくばくと心臓が鼓動する。ともすれば、彼の頬に笑みでも浮かびそうな。
 何かの気配に気がついたのはそのときである。ふと彼は振り返り、業火を耐えたらしい建物に目をつけた。それでも壁は黒く焼けており、いつ崩壊してもおかしくない風体であったが、何かがいるとすればそこしかない。
 堂々と大地を踏んだ。気配を微塵も消すことなく、覇王はその建物へと近づく。例え何が居ようとも、覇王に恐れはなかった。彼は恐れというものを知らなかった。
 扉があった場所をくぐると、気配の正体はすぐそこにあった。あちこちから血を流し、投げ出したかのようにぐったりと横になる男である。一瞬死んでいるのかとも思ったが、小さく胸を上下しているのが見え、生きているのかと舌を打った。
 だが、放っておいても、じきに彼は死ぬだろう。男の周囲にはじわりじわりと血が侵食し、折れているのか足は醜く腫れ上がっている。患部は、紫よりももっと黒ずんだ、腐敗したかのような色をしていた。そのような中途半端な姿は覇王は嫌いである。みっともなく生にすがり付くような。ならば容赦なく命を経ってやった方がよほど美しい。
 男に近づいて、覇王は疑問に眉を寄せた。覇王は男を知っていた。しかし男は、この世界に存在し得ない人間だった。

「貴様……不動遊星か」

すると遊星はぴくりと反応し、微かに目蓋を持ち上げて、虚ろに濁った蒼の瞳で覇王を見上げた。

「あんた、俺を、知っているのか……?」

酷い声だった。こひゅ、と声が喉を掠め、がらがらと渇いている。
 どこに余力があったのか、彼は震える腕で身を起こし、痛みに喘ぎながら壁に身を預けた。ただそれだけであるのに、はぁーはぁー、と激しい呼吸を彼は繰り返した。無様だ、と覇王は思う。

「すまない。すっかり霞んで、目が見えないんだ。あんたが誰なのか、俺にはわからない」

「何故貴様がここにいる。自分の世界は救った筈だろう。貴様の物語は終わったのではなかったか」

遊星は、この異世界とは何の縁もない人間だった。そして彼は己の世界で、己の未来を救ったのだ。その彼が、何故この異世界などに。彼はイレギュラーだ。本来存在してはならない命である。
 忌々しげに遊星を見下ろす覇王に、遊星は笑みを浮かべた。額から血を流したまま、穏やかに遊星は笑うのだった。

「俺は、助けに来たんだ」

あぁ、いったい彼は何を言うのだろう。死にかけの身体で、彼はまるで勝ち誇ったかのような表情をするのである。不快であった。殴り飛ばして、精悍な顔をぐちゃくちゃとグロテスクな肉片にしてしまいたかった。
 何故、と絞り出すかのように彼に言う。何故だか、覇王の足はすぐに振り返って逃げ出してしまいそうだった。

「守りたいからさ」

慈しむかのような、愛情に満ちた声だった。遊星が湛えたのは、覇王とは無縁の感情だった。
 気分が悪い。咄嗟に口元をおさえた。吐き気がする。死臭を背負いながら遊星は何を言っているのだろう。がくがくと膝が震えた。
 そんな覇王の手を、遊星のそれが握った。はっと大きく目を見開くと、彼は小首を傾げて、どうした、大丈夫か、などと心配そうに問うのだ。自分の方が余程重傷であるのに。

「触れるな……!」

大きく手を振り払えば、呆気なく遊星は手を放す。身体に響いたのか、彼はきつく目を閉じて痛みに歯を食い縛った。しかし、そうしながらも彼は覇王に慈愛の瞳を向けるのである。揺れる蒼に覇王は嫌悪した。どうして彼はこうにも他者を愛するのだろう。あぁ、気持ちが悪い!

「辛そうだな」

「何を……!」

「あんたも苦しそうだ。大丈夫だ、覇王は俺が倒す」

目の前にいるのが覇王だとは知らず、遊星はそう言った。その瞳は強く輝き、身体半分が壊死しても、真理のように断言した。
 遊星は最初から死など恐れていなかった。自分が礎となり世界が救えるのならば、彼は喜んで命を差し出すのだろう。彼の瞳は生死のずっと先を見据えていた。
 情けない声が出るかと思った。これが恐怖なのかと覇王は知る。一歩一歩後ろへ下がり距離を取る。死にかけの男が、たまらなく恐ろしかった。
 途端、遊星の右腕が赤く輝いた。竜の頭を象った奇妙な痣が発光しているのだ。そして赤い光は遊星を包み、その光が消え失せると、痛みを忘れたように遊星は立ち上がった。出血は止まったが、傷口には異臭を放つ膿がはりついている。足は不自然な方向に曲がったまま。腫れた患部は壊死したまま。しかし彼は歩き出す。ただ、この世界を救うために。
 何故、彼は他者を愛し、また世界を愛するのだろう。しかし一方で遊星には憎しみがないのだ。死に行くものが口々に叫んだ怒りを、悲しみを、彼は少しも感じさせない。それどころか、全てを受け入れてしまいそうな。
 そうだ、彼は全て受け入れるのだ。その上でこの世界の生と死を愛している。きっと彼は覇王をも愛するのだろう。抱きしめて背を撫でて、辛かったろう、と覇王の全てを許すのだろう。覇王はそれが恐ろしかった。まるで存在意義を否定されるかのようだ。闇などどこにもなかったのだと、覇王の全てを否定されるようだ。
 歩き出した遊星はふと振り返り、微笑んで覇王を見た。血に濡れた顔は歪であったが、彼が覇王でなかったのなら、きっと手を伸ばしてすがりついていただろうと思った。

「俺はもう行く。助けなくてはいけない人がいるんだ」

今なら、覇王に背を向け悲鳴をあげて逃げ去った男の気持ちがよくわかる気がした。立ち向かうのも困難な程に恐怖が勝るのだ。目の前の死にではない。存在を根底から否定されそうな、相手の姿にだ。
 遊星はまた歩き出し、そしてその場から姿を消した。彼は戦いへと赴くのだろう。反乱軍を従えて、覇王の城を目指すのだろう。
 吐き気をこらえながら覇王はよろよろと歩き出した。零れ落ちそうになる悲鳴をなんとか押し留め、彼もまた城へと向かう。
 きっと彼は覇王を倒すだろう。そして覇王の全てを許し、遊城十代を取り戻すのだろう。
 そんな彼の名は――

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