日頃の視力の酷使で、目が霞んだのかと思った。けれど、その視界の違和感は翌日になっても消えなくて、次第に視界を黒い靄が覆うようになった。それはじわりじわりと世界を蝕んで、数日後には、闇が周囲を覆うようになった。





 まるで、闇の中に突き落とされたかのような。孤独の坩堝(るつぼ)に、閉じ込められたかのような。ああ、なんと恐ろしい。その闇に、ただひたすら恐怖した。

「おはよう、遊星。もう朝よ。今日はすっかり晴れてすごくいい天気なの。シーツを干した方がいいかしら? 昨日は湿気がひどかったから」

気丈に張った声で語りかける十六夜アキは、どんな表情をしているのだろう。彼にはなにもわからない。




 完全に視界が奪われたその日、ジャックとクロウとブルーノは急いで医者をあたり、必死になって解決策を探した。しかし、遊星の視力を取り戻す手段は見つからず、返ってくるのは必ず、身体は健康そのものなのですが、という返事だけだった。よくあの乱れ切った生活リズムで健康を保てたな、と我ながら身体を褒めてやりたい気分になったが、「身体が健康でいて、急に目が見えなくなるわけがないだろう!」と医者に掴みかかるジャックを目の当たりにすると(実際見ていないがそうだったのだろう)そんな言葉は当然のように喉の奥に引っ込んでゆくのだった。
 視力というのは、電気のスイッチのようにぱちんと消えるものではなくて、カメラの明度を落とすように、ゆっくり闇に呑まれていくのだと知った。日に日に狭まる視界に恐怖を覚え、誰の顔もわからなくなった日には目を押さえてがたがたと震えた。見えない。見えない。昨日まで見えていたのに、もうなにも見えない。
 遊星は決闘者であり、メカニックである。それが生きがいであり、存在意義のようにも感じていた。しかし、視力を奪われてしまっては。なにも見えない。なにもできない。この目が見えなければ、一体なんのために生きていけばいいのだろう。葛藤と焦燥に身を焼かれ、遊星は絶望の淵につき立たされていた。




 それでも、仲間たちが騒ぎ立てるのと反するように、遊星は事実を冷静に飲み込み始めた。視力は完全に奪われたが、もちろん感触や聴力は健在だ。もう機械をいじることはできないかもしれないが、デュエルはどうにかすればできるかもしれない。だがDホイールには到底乗れそうもないだろう。途中であったWRGPはどうするべきだろうか。ジャックとクロウが、遊星の目の治療について延々と言い合う中、遊星はひとり、暗闇の中でそんなことを考えていた。
 見えていないせいだろうか。頭の中はしんと静まりかえったようで、そこには穏やかな闇が満ちている。以前、パソコンのキーを叩いていたその時間は、ひとりベッドに蹲って、その心地良い闇に浸るようになった。
 ただひとり、ぽつんとその世界に取り残されている。その中で遊星はまどろむように身をひそめている。ここには仲間がいないが、敵もいない。いつの間にか、闇に対する恐怖がなくなっていた。むしろこれはこれでいいのかもしれない、とすら思い始めた。何も言えないのなら、何も見る必要が無い。最近は、辛い現実と向き合うことが多くなってしまっていたから。




 遊星にはなにも見えないが、クロウが笑って話しかけてくれることはわかる。ジャックが不機嫌そうに愚痴をこぼすのも、双子が我先にと競って話し出すのも、アキが温かい紅茶を入れてくれるのも、ブルーノが真剣な顔でパソコンのキーを叩いているのも。
 いや、わかる、というのは語弊があるかもしれない。実際には遊星が見ているのは暗闇と、太陽の、ぼんやりとした強い光だけである。その表情は、彼らの声の調子や、感触、過去の記憶から導き出したイメージにしかすぎない。だから、本当の彼らの表情などわからないのだ。もしかしたら、仲間の表情は全て、苦悶や悲壮に歪んでいるのかもしれない。
 けれど、遊星にはそれを見る必要がなくなったのだ。彼はただ、脳裏に浮かぶ笑顔を信じてさえいればいい。例えそれが偽りだとしても、遊星にはそれに気付く手段がない。そう、だから遊星はもう、悲しむ必要もないのだと思った。暗闇の世界は、彼の望んだ平和な世界だった。闇は、恐怖ではなくなった。




 元から饒舌な方ではないが、遊星の口数は更に減っていった。日中はベッドに蹲っていて、世話のために通ってくれているアキの問いかけにも、相槌しか返さぬようになった。アキの寂しそうに揺れる瞳は、遊星には見えはしない。
 遊星の返答にアキは、じゃあお昼過ぎまで干しておくわ、と努めて明るく答えて、隅に丸く纏められていた掛け布団を手に取った。その間遊星はなにも言わない。すまない、だとか、ありがとう、だとか、そんな類の言葉すら遊星は飲み込むようになった。
 アキが窓を開けたらしく、心地よい風が遊星の髪を揺らした。それにつられてふと窓の外へと視線を向けると、真っ暗な闇の中に、ぼんやりとした光の塊が見えた。あれが太陽だと気づいたのはいつだったか。どうやら完全な盲目というのは存外少ないらしく、太陽の強い光だけは、かろうじて網膜に届くらしかった。
 しかし、そのか細い光すら忌々しく、再び遊星は闇のなかに身を埋めた。太陽のおぼろげな光は、尚のこと「見えていない」という事実を突き付けられているようで、胸の奥を刃物で刺されるかのように感じる。見えない絶望と、闇にたゆたう安心感の、遊星はその狭間をさ迷っていた




 遊星に訪問者が訪れたのは数日後のことである。
 部屋のノックにふと顔を上げれば、お客さんだよ、と扉の向こうでブルーノが言った。客? と疑問符を乗せて遊星が呟けば、扉は静かに音を立てて、明朗な声音が顔を覗かせた。

「久しぶりだな、遊星」

瞬間、遊星ははっと息を呑んだ。この声を遊星は知っている。懐かしいような、最近までそこにあったような不思議な距離感だ。視力を失った遊星に少しもたじろがない、強い意思を持った声である。

「十代さん……?」

「ああ。元気にしてたかって……今聞くことじゃねぇな」

乾いた声で十代は笑い声をあげて、適当にあった椅子に腰かけた。その様子は、遊星にも物音できちんと伝わっている。気を遣ったらしく、ブルーノはそのまま階下へと降りて行ったようだ。




 失礼のないようにと、十代に笑みを返そうとするも、動くことをやめた表情筋は、そう都合よく動いてくれるものではなかった。ほんの少し頬が動いただけで、遊星は辛くなって視線を下ろす。共に未来をかけて戦った十代に、このような姿を見られることは情けなく思った。
 十代の手が伸びて、遊星の顎のあたりを持ち上げられた。十代の気配がそこにあるのはわかる。けれど、遊星にその顔を見ることはできない。

「目が見えてないんだって?」

「……はい、見えません。十代さんの顔もわかりません。そこに誰かいるのはわかります。でも、それが十代さんだと気がつくことはできません。Dホイールも、カードも、仲間の顔も、なにも、全部、見えないんです」

「原因に心当たりは?」

「わかりません。最初は、目の疲労かと思いました。パソコンを使うことが多いので……。でも、たかが目の疲労でこうまでなるでしょうか」

「ならないだろうな」

あっさりと十代は答え、そして遊星から手を離す。何か考え込んでいるらしく、それから十代は沈黙を落とした。
 そういえば、と今度は遊星の方から口を開く。

「十代さんはどうしてここに? それより、いったいどうやって……」

思えばおかしいのだ。十代は違う時間軸に存在した人物であるはずだし、仮に十代の方からやって来られたとしても、自分の住居を教えた覚えもない。それがどうして、十代はここにいるのだろう。
 すると十代は、あー、と曖昧に言葉をこぼして、それから途端にしどろもどろになって答えを返した。遊星には見えていないが、彼は困った顔をしているのだろう。

「ややこしい話だから、俺はあんまり得意じゃないんだけどな、ほら、俺のいた未来の世界が君の世界だろう? だから、つまりな、俺のいた時代が、君のそれに追いついたんだ」

つまり目の前にいる十代は、遊星と同じ時間軸、同じ世界に存在する十代ということらしいのだ。だが、それにしたっておかしい。ならばそれ相応に十代は歳をとっていなければならない。しかし、十代の声や雰囲気は、かつて会ったときのそれと少しも変わらない。少なくとも、十代の時代からは数十年は経過しているはずなのに。
 追及しようとすると、細かいことは気にすんなよ、と明るい声に遮られてしまった。だから遊星はそれに従って口を閉ざす。
 そして、数秒たって吐き出された言葉は、遊星にしては珍しく、恐怖に身をすくめたものだった。

「十代さん、本当にそこにいますか?」

「……ああ、いるよ」

安心させるように遊星の手首を握ってやる。温かい。彼はまだ生きているのに、まるで死人のような声をしている。

「俺には十代さんが見えません。もしかしたらそこにいるのは、十代さんの雰囲気や、声を持った化け物かもしれない。けれど、俺はそれに気づくことはできない。それが今、とても怖い。でも反面、安心しているんです。俺が信じている限り、そこにいるのは十代さんだから。俺が信じてさえいれば、望んだものはちゃんとそこにあるんです。もう、不条理なこの世界を見なくても済むんです。……すみません。もう自分でもなにを言っているのかよくわからないんです」

感情を失った瞳が虚空をさ迷っている。光を無くした彼の藍色は、どこを見たらいいのかわからなくなっているのだろう。
 十代は彼の目蓋に手をあてる。心地よさそうに遊星は目を閉じる。彼の目は疲れている。誰もが知らず、そして十代のみが知り得る疲労だ。

「遊星、君は疲れてる。君には自覚があって、そしてそれから逃げている。このまま逃げ続けるのも結構だけどな、ただ、君を大切に思う友のことだけは忘れないでやってくれ。俺は、君の友に頼まれてここへ来たんだ」

十代の言葉は、揺らぐ遊星の意識にぼんやりと響いていった。急な睡魔が彼を包む。十代に触れられた目蓋はじんわりと温かく、そこからふと、遠い世界に連れ去られるような気がした。話したいことや聞きたいことがあったはずなのに、それは全て、忘却の彼方へと消え去って行く。

「でもな、遊星。逃げたくなる気持ちは、よーくわかるぜ」

最後に聞いたのは十代の諭すような声音で、それから訪れた真っ暗な世界の中に、トパーズと翡翠の輝きを垣間見た気がした。
 そして彼の意識は暗転する。


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -