血が滴ったような苺も、蒼白な生クリームも、驚いてひっくり返ったようなチキンでさえも、おいしそうなどとは思えなかった。
 食欲というものが、すっかり麻痺しているのである。食事といっても、ゴムの塊を何回も咀嚼しているようだったし、身体に取り込まれる栄養素というものにもほとほと関心がなかった。
 じゃあ、どうして僕は食べているんだろう。疑問に思う頃には獏良は夕食を食べ終えている。水を流しながら、機械のように食器を洗っている。口の中にほのかな食材の味が残っていたが、腹を満たしたそれを吐き出そうとは思わなかった。
 今日は何を食べただろうか。彼には記憶がない。食事の30分だけ記憶が抜け落ちたかのようだ。しかし彼はそれを不思議に思わないのである。いったいなにをどう食べたのか、ゴミや冷蔵庫から探ろうとも思わない。それが獏良了の食事であった。
 ふと顔を上げる。壁にかかった時計が静かに1分を刻んだ。それから、電子版に点る切れ切れの数字。9月1日。何か大切なことを忘れている気がした。



 どうしてこんなものを作ったのか自分でもわからない。次の日の夕食に、獏良は豪華なおかずとデザートにケーキを用意した。色は鮮やかだけれど、獏良には、それがとても魅力的には映らない。
 何か大切なことを忘れている気がした。白い髪の女の子が、無邪気に手を握ってなにかをねだっている。くしゃっとした笑顔で首を傾げて、その子が欲しがるものを与えてやりたくなる。この子は誰だろう。獏良は少女を知らなかった。けれど以前は知っていたような気がした。
 獏良の心は冷めていた。疑問に思う一方で、その疑問に執着を持たない。わからないことは当然である気がして、獏良は詮索をやめた。今から夕食を食べなければならないのだ。無臭の食材を小さく切って、ゴムの塊のような食感のそれを、ねちねちと歯で押し潰す。手頃な大きさになったものを必死になって飲み込んで、無味の液体で胃へと流し込まねばならない。食事というのは、作業のような行為だった。

「おめでとうございます、宿主サマ」

ふと顔を上げると、目の前に見覚えのない少年が座っていた。とは言っても、獏良と少年は瓜二つの同じ顔をしているのだから、見覚えがない、というのは語弊があるかもしれない。
 だが獏良は、自分と同じ顔をした少年をまるで知らないのである。麦の塊をぐちぐちとすりつぶしながら、茫然とその姿を見つめている。すると彼は不気味に頬をつり上げた。

「そんな辛気くせぇ顔すんなよ。俺様は宿主様の誕生日を祝ってやってんだぜ?」

「誕生日……」

ぐちぐちと不快な音がする。まだ固いそれを無理に飲み込む。大袈裟に喉が上下に跳ねた。
 獏良は17年前のこの日に生を受けたのである。男女がセックスをして、卵子と精子が出会って受精卵となり、そしてそれが獏良になった。卵子の持ち主を母と呼んで、精子の持ち主を父と呼んだ。くだらない、と思った。退屈な食事という行為よりもずっと。
 獏良の目の前で、少年はチキンを手にとった。こんがりと焼けた皮に犬歯を突き立てて、柔らかい肉を少年が食い破る。白い肉は弾力を持ち、油が滴るそれをものともせずに噛み締めた。少年は美味しそうに目を細める。幸せそうだと、獏良は思った。

「ねぇ、美味しい?」

顔を上げた少年の頬に、肉の残骸が貼りついていた。彼の指先がそれを拭う。

「あぁ、旨いな」

「そう。僕は、自分の味覚は死んでいるのだと思っていた。けど……」

「けど?」

「それは違っていて、味覚じゃなくて、僕自身が、もう死んでいるんじゃないかと、思ったんだ」

「そいつぁ奇妙な話だな!」

少年は甲高く声をあげて、腹の底から盛大な笑い声をあげた。紫の瞳が嘲るような色を帯びて、おかしそうに腹を抱えながら、彼のフォークはミンチにされた肉の塊を突き刺す。どろりとしたソースが肉から垂れ、少年はそれを舐めとるように口に含んだ。ぐちゃりと肉とソースが分離をする。あぁ不味そう、と獏良が思うのと同時に、少年は美味しいと言わんばかりに頬を吊り上げるのだった。

「じゃあ、そこにいるお前は、そして魂を共有した俺様は、いったい誰になるってんだ?」

ソースが付着したフォークの先を、少年は獏良に向けた。銀色の先端が獏良の顔を映している。ひどい顔をしているのかと思ったが、案外、獏良は平静な顔をしていた。その顔をみて他人は、美しい、などと言うのだ。中身はすっかり腐った死人だというのに。
 そして少年はテーブルに肘をついて、手の甲に顎をのせる。

「それともなにか、自分があのとき死んだ妹だとでも? そりゃあ自己陶酔って言うんだぜ?」

妹。あぁ、記憶のあの子は妹だったのかと合点がいった。少し歳の離れた妹。あの子はころころとよく変わる表情を持っていて、誰にも好かれる女の子だった。
 獏良には妹がいた。けれど、皆に好かれたあの子は死んでしまって、この世界には獏良が残った。友人たちを昏睡へと陥れ、悪魔の子だと忌み嫌われた兄が残った。友人たちは今もまだ、悪夢の中をさ迷い歩いているのだろう。

「何でお前が生きてあの子は死んだんだ、なんて野暮な事を言ったやつもいたな。だが俺様はそんなことは思っちゃいねぇよ。俺はてめぇが生きていてよかったと思っている」

今度は少年は赤い実を拾い上げた。電光を反射して光っている。丸い果肉から水が滴っていた。
 少年は緑色のヘタをもぎ取って、それから一口でその実を口に入れた。中身は水ばかりでべちゃべちゃしているだろうと、獏良は冷めたように思っていた。

「人の生死なんてありふれたことさ。知らぬとこで誰かは死んで、そして知らぬところで誰かを犠牲にして人間てのは生きてるんだ。なんて醜い循環だとは思わねぇか? 見たことも聞いたこともないやつの犠牲の上に生きるより、血の繋がった妹を糧に生きた方がよっぽど潔くて俺は好きだぜ」

少年はナイフを握り、ホールのケーキを切り分けているところだった。四分の一程に大きくカットして、ナイフに付着したクリームを、てらてらと光る赤い舌で舐めあげる。

「それに、お前がいなかったら俺様はこうしてケーキも食えなかったわけだ。その点においては、本当に感謝してるんだぜ?」

そういえば、食欲の低下を感じたのは妹が死んでからで、味覚を失ったのはこの少年が自分の心に現れてからだった。ふたつの期間の差はそう大きいものではない。
 あぁきっと、と苺を口に放った少年を眺めて獏良は思う。味覚と同時に死んだのは、自分ではなく妹で、その命は食べるという行為が繋ぎ止めている。だから獏良自身、苦痛な食事を続けるのだろう。謂わば、課せられた業のようなものなのだと。
 粘土の塊のようなそれらを咀嚼して呑み込む。命が果てるまで何度も何度も繰り返す。それはただ死を認めたくないが故の、小さな抵抗に過ぎない。獏良がそれを止めぬ限り妹は彼の中に生き、また彼の中に巣食う邪神もまた、闇の色を濃くしていくのだった。
 そして獏良はまた一年、生を紡いだ。

「だから、生まれてきてくれてありがとうございます。宿主様」

少年が嬉しそうに頬を歪めた。
 気がつくと、食器は全て空になっていた。獏良に食事中の記憶はない。はて今日は何を食べただろうかと思うが、口内に不快な感触が残るばかりで、なんの手がかりもそこには無い。しかし今日もまた獏良は食べたのだ。無味無臭の食材を口へ入れ、ねちねちと細かく刻んで、胃へと送り込んだのだ。それがわかっていれば他はどうでもよかった。
 獏良は両手を合わせた。その姿は、死者を弔うそれによく似ていた。

「ごちそうさまでした」

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