気のせいだと信じていたかったのだが、やはり遊星は、鬼柳という男に不信感を拭えないでいた。
 鬼柳は明るく、また頼もしい男であった。気の強いクロウがいつになく早く心を開き、また、プライドの高いジャックが、いつになく早く気を許した男でもあった。それだけの魅力を、鬼柳の存在は示していた。
 だが、何故だろうか。遊星はその彼が恐ろしかった。
 最初は、才能への醜い僻みだと思い、自分にもそういった感情があったのかとしみじみと思ったものだった。しかし、今なら確信できる。これは、彼への恐怖だ。遊星は鬼柳を恐れていた。




 その太陽のような瞳に恐れを抱くのは夜である。それも、クロウもジャックも寝静まった深夜のことだ。
 遊星は夜遅くまで機械を弄るのが常であったが、いつのことからか、何故か、いつも傍らには鬼柳がいるようになっていた。彼は自分の前で頬杖をついて、目を細めて遊星を見つめているのだ。そうやって、じっと自分を見定めているような鬼柳の瞳が、遊星には恐ろしく思えてならなかった。
 最初は気のせいだと思っていた。しかし、今なら確信して思うのだ。鬼柳は、皆がいるときはこんな目で人を見る事は絶対にしない。同時に、昼間に皆で集う時の鬼柳は、なるほど魅力的な人間だった。口下手な自分に、話しやすいように話題を振ってくれる彼を、遊星は確かに好いていた。だが、夜の彼はまるで別人だった。目があった瞬間、すっと細められた瞳に、悪寒すら覚えたほどだった。
 こんな思いを抱いているのは自分だけだろうという妙な自信があった。クロウは鬼柳を慕っているし、ジャックも親友のひとりとして彼を認めている。だからこそ、遊星はひとりでその苦悩を抱えるしかなかった。夜になり、鬼柳がいつもの席にすわるのを、遊星は甘んじて受け止めるしかなかったのだ。

「なぁ、遊星」

その日の夜、いつものようにふたりきりになるその時間、唐突に声をかけられて、密かに遊星は肩を跳ねさせた。作業中に鬼柳が話しかけてくることは、決してはじめてではなかったが、そうよくあることでもなかった。
 心情を悟られないように気を配りながら恐る恐る顔を上げると、いつかのように、彼は柔らかく目を細めて遊星を見つめていた。

「驚かせたか? 悪ぃ悪ぃ」

「あ、あぁ……」

話す口調も声音も、普段とまるで変わらないものであるのに、しかし、普段の彼とは、致命的に何かが違うのだ。その些細な違いが、より一層、恐怖を増長させているかのようだった。
 鬼柳の手が、すっと遊星の方へと伸びた。そして彼の白い手は、配線を組みなおしていた遊星の手に、そっと重ねられる。遊星はその行為に、疑問と、言いようのない薄気味の悪さを抱き、助けを請うように鬼柳を見た。彼はまた、目元だけで笑っていた。

「鬼柳……?」

あぁ本当は、昼間の彼は、太陽のような素敵な人間であるのに! 今は、そんな彼が怖くてたまらない。遊星は、自分の指先の震えを、その耳で聞いた気がした。

「いっつも遊星に無理させてるよなぁ、ごめんな。たまには休んだっていいんだぜ?」

「いや……気にするな。俺が好きでやっていることだ」

「あぁ遊星……本当にお前はいい子だなぁ」

労いの気持ちだろうか。鬼柳の手は、嘗めるように遊星の手のひらを撫でる。
 そこで遊星はふと思った。今の彼は、獲物を前にした大蛇に似ていると。吟味するように舌をのぞかせ、機会を窺うように辺りを這いずりまわっている。逃げようものなら、いまにも毒牙を剥いて飛び掛ってきそうな。
 そこまで考えて、遊星は自分の思いを恥じた。親友に、自分はなんてことを思っているのだろう。脳裏に、昼間の明るい鬼柳が浮かぶ。そう、これはあの明るい、兄のように慕う彼以外の何者でもないのだ。彼が自分にかける言葉も、なんてことはない、友を案じる気遣いの言葉だ。それを先入観だけで否定するのは、いかがなものだろうか。
 しかし、意識的にそう思ってみても、無意識に支配される身体は素直である。実際、遊星の指先は、恐怖にかたかたと震え、背中には多量の汗が流れていた。

「けど、あんまり無理すんのもオススメしねぇな。……なぁ、一緒に散歩行こうぜ。夜の散歩って、なかなか乙なもんだろ?」

「いや、俺は……」

行ってはいけないと、自身の第六感が警鐘を鳴らした。確証も明確な拒絶の理由もなかったが、行ったら間違いなく自分は後悔するだろうという漠然とした予感があった。
 だが、いざ断ろうとすると、あまりにも貧弱な自分の語彙は、その申し出を断る言い訳すら、満足につむげないのだ。こういったことに長けていないのは、自分でもよくわかっていた。
 言いよどむと、鬼柳の無邪気に跳ね上がった声が、遊星に甘い誘いの言葉を矢継ぎ早に投げかけた。遊星とは対照的に、鬼柳の口は饒舌で、そういったことには随分と秀でているのである。それは遊星には尊敬の対象だったのだが、今はその思いを、あっさりと裏切られた気分だった。

「眠れないんだ、付き合えよ。この辺はまだ治安もいいし、今日なんて天気もいいから星が見えるかもしれねぇ。だから、な? 遊星?」

結局、遊星が論破されるのにそう時間はかからなかった。遊星がひとつうなづくと、彼は嬉しそうに遊星の手を引いて出て行こうとする。その素振りはまさしく日頃の鬼柳そのものであるのに、握られた手のひらは、切実に、遊星に事の異常を訴えた。

「よし、特別に俺の絶景ポジションを教えてやらぁ!」

そして鬼柳は妖艶に笑って、ねっとりとまとわりつくような動きで、遊星に囁きかけるのである。

「あいつらには絶対言うなよ。内緒な、内緒。俺と、お前だけの秘密だから」

四人いる仲間内の、たったふたりだけの秘め事。これが日常の鬼柳で、昼間のことであったらなら、きっと自分は心から喜んだだろうと、その言葉を聞きながら、どこか他人事のように遊星は思った。




それは、アジトにしているビルから、
そう離れていない場所にあった。
 サテライトも元はシティの一部で、その証拠に、朽ち果てた商店街や、廃墟の群れと化した住宅街が、未だその骨格だけ残した地域がある。鬼柳が案内したのは、そんな住宅街の一角だった。
 そういった場所は他の荒くれ者たちの根城になることが多いのだが、ここは以前セキュリティの手が入った場所で、以来、警戒してかここにはほとんどのギャングが寄り付かないらしい。そういった意味では、ここはいわゆる穴場なのだという。
 セキュリティがまだ監視してるって噂もあるしな、と鬼柳が告げる。それでは自分たちも危険なのではないかと遊星が指摘すれば、噂なんて嘘っぱちに決まってんだろ、ギャングたちにその噂流したの俺だぜ? と彼はなんともあっけらかんと言うのだった。緊張していた遊星の頬に、小さな笑みが浮かんだ。
 鬼柳の足はそのまま、三階建ての建物へと足を運んだ。遊星は一瞬ためらうも、手で招かれて、また多少緊張が解けたのもあって、そのまま彼のあとを追うことにした。

「階段、抜けるかもしれねぇから気をつけろよ」

「ああ……。こんな場所、いつ見つけたんだ」

「お前らに会う少し前だな。あのころはひとりで生きてたからよぉ。楽ではあったが、寂しかったな。だから遊星、俺はお前らに会えてよかったよ」

静かな声で鬼柳が告げる。俺もだと遊星は返答しようとして、そしてすぐに口を閉ざした。先に階段を上っている鬼柳が、こちらを振り返って口角を吊り上げたのだ。忘れかけていた悪寒が、再び足元からこみあげた。

「……どうした? 遊星?」

笑ったまま、鬼柳が顔を覗きこんでくる。のこのこ鬼柳についてきてしまったことを、今更ながら後悔した。

「いや……」

「変なやつ。ほら、行くぞ」

振り返った鬼柳は、そのまま遊星の手のひらを握る。やっぱり帰ろう、と言おうとした小さな唇は、やむを得ず閉ざされるのであった。
 階段をのぼった先はその建物の最上階で、広い場所に、明るい月光が降り注いでいた。ぽっかりとうまい具合に天井が抜け落ちていて、そこから、無数の星々がこちらを見下ろしているのだ。突然あらわれた小さな空は、なるほど絶景だった。

「遊星」

その光景に唖然とし、空を見上げて立ち尽くす遊星を、鬼柳が呼んだ。抜け落ちた天井の下には、放置されたままのボロボロのソファがあり、彼はそこに腰掛けて、ぽんぽんとそのクッションを叩いていた。隣に来いと、そういうことだろう。

「こっち来いよ。こうしてると、よく見えるんだよ、星が……」

彼の言うことは筋が通っている。何もおかしなことは言っていない。それなのに、足がとてつもなく重いのはどういうわけだろう。
 遊星はしばらくその場に立ちつくしていた。見かねた鬼柳はソファから立ち上がり、そんな遊星の腰に腕をまわす。ちょうど、遊星は鬼柳に、うしろから抱きすくめられるかたちになった。

「なーに警戒してんだよ。あ、まさか俺に襲われるとでも思った? 」

「え、あ、いや」

そういったことを、まるで考えなかったわけではない。遊星のその心情に気がついたのか、遊星のうしろで、鬼柳はからからと笑った。

「本当にわかりやすいなお前! 安心しろよ、俺ホモじゃねぇから」

そこまで言われると、遊星にはもう、断ることができなかった。一体なにが遊星の足かせになっているのか、彼自身にもわからないことだった。
 エスコートされるままに、遊星の足はソファへと向かう。スプリングが壊れて、既に弾力のないそれに腰を下ろすと、その隣で、鬼柳はすっと右手を夜空へと伸ばした。遊星の視線は必然的に、その先を辿ろうとする。

「冬の大三角、どれかわかるか? 」

「いや……名前はわかるが、どれかと言われるとわからないな」

「あそこに三つ並んでるのがオリオン座。で、あそこにある赤っぽいのがベテルギウス。オリオンの足元にあるのがおおいぬ座。明るく光ってるのがシリウス。おおいぬ座の向こう、ふたご座の下にあるのがこいぬ座のプロキオン。ベテルギウス、シリウス、プロキオンを繋げると、冬の大三角だ」

「詳しいな」

「驚いたか?」

「あぁ」

素直に答えれば、鬼柳はまた心底嬉しそうに喉をふるわせた。遊星の反応が、よほど満足であったらしい。
 しかし、それを微笑ましく思ったのもつかの間。鬼柳は笑みをこぼすと、身体を反転させ、遊星の身体へと乗り上げた。抵抗しようと思った両手首は、鬼柳の手によって、簡単にソファへぬいつけられてしまう。
 せめてもの拒絶として、短く声を発して身をよじると、鬼柳はまた、遊星へとその顔を近づけた。

「遊星ってさぁ、本当にかわいいよな」

ぞわりと、気持ちの悪さに遊星の肌がうずいた。
 冗談で、男同士でありながら、互いをかわいいと評したことは何度かある。しかし、それはあくまでからかいの言葉であって、好意の意として告げたわけではないのだ。だが、今の鬼柳はどうだろう。冗談には聞こえないのは何故だろう。
 身の危険を感じて、遊星は尚のこと、鬼柳の下から逃げ出そうとした。しかし、押し倒されたようなこの体勢では、ろくに力も入らない。封じられた両手の変わりに足を蹴りだすと、鬼柳はそれをあっさりとかわして、遊星の足の間にその身体を入れて、閉じられなくさせてしまった。

「きりゅう……っ!」

咎めるように彼を呼ぶ。冗談で済むならばそうであってほしい。否、冗談でなければならない。この状態がひどく危険だということ以外、遊星にはなにもわからなかった。純粋に、兄のように慕っていた男に押し倒されて、冷静な判断をしろというのが酷な話だ。

「遊星」

耳元で、囁くように鬼柳が呼びかえした。妙に落ち着いていて、怪しく濡れたような声だ。びくりと、遊星の身体が恐怖ではねた。
 たまらなく鬼柳が怖くて、遊星は目を閉じる。すると、耳元から不思議な感覚がこみ上げてきて、遊星は小さな悲鳴をもらした。ぴちゃ、とわざとらしい水音がする。気持ちの悪さに身をすくめる。鬼柳が耳を舐めているのだと、鈍った頭でようやくそう判断を下した。

「やめろ、鬼柳……! たのむから……!」

ふ、と鬼柳の吐息がすぐそばに聞こえる。頭がどうにかなってしまいそうだと思った。

「じゃあ遊星、キスさせて」

「なに言って……」

予想外のその申し出に、遊星の瞳は、これでもかというほどに大きく見開かれた。
 耳を好き勝手に蹂躙していた鬼柳が顔をあげ、美しい夜空の下で彼は怪しく笑った。そして、きゅっと遊星を抱きしめると、遊星の耳元で、ねだるようにその声は言う。

「遊星、ぎゅってしてよ。寂しいじゃん」

もう、遊星の頭は正常に機能していなかった。素直に従えば、もしかしたら早々に離してくれるかもしれない。そんな幻想を抱いて、遊星は鬼柳の背に腕をまわした。
 満足そうに鬼柳は笑む。そして、遊星の頬をべろりと舐め上げる。脅えたように身をすくめ、こらえるように震え、押し殺しきれなかった悲鳴をもらす遊星の姿は、いっそう彼を興奮させた。

「なぁ、キス、していい?」

「……ホモじゃない、というさっきのは……」

「あぁ、嘘は言ってないぜ。俺、ホモじゃなくて、バイだから」

つまりは、気に入った者であれば、男だろうと女だろうと彼には関係ないらしい。だまされた怒りより、遊星に浮かんだのは、諦めと、呆れの感情だった。
 遊星はずっと、まるで異性を見るかのような鬼柳の視線を恐れていたのだ。ジャックやクロウはその対象ではなかったから、鬼柳はそれを彼らには向けなかったのだろう。だから、その視線に苦しめられるのは、遊星ただひとりだった。
 ここのところ遊星を悩ませていたことが解決して、そういうわけかと、どこか納得している自分がいた。そうして遊星は、身体をあけ渡すかのように、強張っていた力をぬいた。
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