足を踏み入れると、カビのようなすえた臭いが鼻をついた。しかし不思議と嫌悪の感情はなく、朽ちた天井から射した光に感動すら覚えた。
 天井には所々虚空が開いて、足元には草花が群生している。かつて客人を招いたであろう深紅の絨毯は、解れと汚れを纏って緑の中に埋没していた。割れた窓ガラスから射し込む太陽光と、そこに映える草に垂れた露が美しい。
 当然電気など通っているはずもなく、廊下のずっと奥は、幕が下りたように暗くなっている。それがまた想像力を掻き立て、更に、もうここが無人の廃墟なのだと実感し、ぎゅっと胸の奥がしまるような情趣的な思いに苛まれるのだ。
 朽ち果てたようなこの場所も、栄華を誇った時代がある。その端々が、今はガラクタとして散乱しているのだ。足元を照したランプは破片と化し、永劫火の灯ることは無い。壁に鎮座していたであろう絵画はすっかり剥がれ落ち、名も無き油絵として草の上に倒れている。
 人の世の移り変わりをこんなにも虚しく実感するのだ。しかしそれ故にその景色を尊く、また美しくも感じるのだった。
 鬼柳が一歩足を踏み込むと、緑の中に散っているらしい硝子が気味のいい音を立てた。豪華絢爛であった造りの中に土の匂いが充満するのはなんとも奇妙であったが、それもまた、この建物の魅力であった。
 暗がりの方へ歩いて行くと、そこはまだ天井が生きており、床がこつりと硬い音を反響させた。左右には煤けた赤の扉が並んでいる。かたく閉ざされたものもあれば、半壊してぽっかりと穴を空けたものもある。鬼柳はそれを傍目に、更にその奥を目指して歩き続けた。
 ふと振り返ると、今まで自分がいた場所が、切り取られたように太陽を浴びていた。雨に濡れた雑草が滴を輝かせながら天を仰いでいる。自然に色褪せた壁紙との対比に、何故だか無性に切なくなるのを感じた。


 弾力を失った煤けた絨毯の、緩く螺旋を描いた階段を上ると、両開きの大きな扉があった。赤に染められた皮は朽ち、泥にまみれたスポンジが露呈している。メッキの剥がれた取っ手を強く引くと、鈍い音と埃を上げながら、その扉は口を開いた。
 扉の向こうは、大きな劇場であった。細い階段が下へと伸び、それに沿って、段々畑のように客席が並んでいる。緩やかに曲線を描いたそれは、下方に設置された舞台へと向いていた。
 元々丈夫であったのか、壁の損傷は激しくないようで、劇場内は綺麗に形を保っていた。吊るされ傾いたシャンデリアや、絨毯が破れた通路や座席の埃をなんとかすればまだ使えるのでは、とすら思える程だ。
 劇場の高い天井に、心地よい旋律が流れていた。金属を弾いたような高い音が、ゆっくりとひとつの曲を奏でている。音源を探して辺りを見渡せば、数段下ったところに、見知った背中が少し丸くなって座っていた。
 彼に近づいていくと、旋律に混じって、小さな歌声が聞こえてきた。それは、ぼそぼそとひとりでリズムを刻むだけの、本当に細やかなものであったが、紛れもなく歌であった。しん、と静まり返った劇場にそれらは反響し、幻想的な雰囲気を醸し出している。
 歩いて行けば、こつこつと足音が反響する。そして聞こえるのは、背中を丸める彼の紡ぐ、何年も前に流行った歌詞だ。

「もっと大きな声で歌えばいいじゃねぇか」

鬼柳は、勢いよく彼の肩に手を回し、驚いて息を飲んだ彼の隣へと腰を下ろした。

「せっかくの劇場だぜ? 歌ったら気持ちいいぞ、きっと。まぁ、遊星が歌ってるとこってあんま想像できねぇけど」

すると彼、遊星は少しばかり見開いた眼を、またいつものように平静にして、安心と疲れが混ざった吐息を、はぁと吐き出すのだった。

「オレには向いていないさ。鬼柳が歌ったらいい」

「いや、オレは客がいないとやる気出ないタイプだから」

「オレがいるじゃないか」

「うわ、なにその口説き文句! 遊星魔性だなぁ。質悪ぅ」

そうは言われても、やはり遊星には自覚の無い話である。そして彼はまた、自身の手もとへと視線を戻した。
 遊星の手の中では、古ぼけたオルゴールが音楽を奏でていた。先ほどから劇場を小さく揺らしていたのは、このオルゴールだった。遊星は大事そうにそれを抱えて、音色に合わせて鼻歌を刻んでいる。時おりオルゴールの音が外れるのは年代物故であろうか。

「どうしたんだ、それ」

「そこで拾った」

「最初から動いたのか?」

「いや、壊れていた。だから」

「だから?」

「直した」

「……お前は本当によぉ……すごいことさらっと言うなよな……」

遊星の手先が器用なのは、日頃の付き合いからよく知っている。だが、拾ったこの場で直してしまう、というのはやはり普通のそれよりも卓越した、才能と言うべきものではないだろうか。しかし遊星はそれで傲ったりなどは決してしないのであった。
 遊星は大層それを気に入ったのか、変わらずにその手に抱いたまま、心地よい音色に聞き入っている。同じくその音を聞きながら鬼柳は告げた。

「ここはダメだな、アジトには向いてない。他を探そう」

「あぁ、そうだな」

「個人的には好きなんだけどな、こういうのも」

「ジャックやクロウもここが気に入っていたみたいだ。さっき舞台裏に入っていくのが見えた」

「え、なに探検? いいな、オレも行きたい!」

子どものように輝いた瞳を携えて鬼柳は立ち上がる。好奇心に素直故に、彼の行動は素早い。そんな彼を微笑ましく思い、遊星はほのかに頬を緩ませて、ならば一緒に行こうと、彼に続いて立ち上がった。
 すると遊星は、大事そうにしていたオルゴールを通路の脇にある座席にそっと置くのだった。その行動を鬼柳は訝しむ。

「いいのか? 持って行ったらいいじゃねぇか」

しかし、遊星はある種晴れやかな顔で首を振った。

「いいんだ。これにはここが似合っているし、オレよりも相応しい持ち主がきっと現れるさ」

「遊星がそれでいいならいいんだけどよ。じゃ、行こうぜ」

そう深くは聞かずに、鬼柳は階段を下り、舞台の方へと歩いて行った。こつこつと堅い音が反響し、ジャックー、クロウー、と仲間を呼ぶ声が、不思議と趣あるものに感じた。
 遊星は一度だけオルゴールを見つめたあと、すぐに鬼柳を追って歩を進めた。
 遊星はあのオルゴールの音色が好きだった。優しくて穏やかで、しかし壮大で。錆び付いたオルゴールの鉄板も、それにより外れる音程も、どこかひとつの愛嬌のように思えた。
 しかし遊星は、折角直したそれを手放すのである。今の自分には、あのような恋の歌は似合わないと思ったからだ。

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